TITLE : 人生の棋譜 この一局 人生の棋譜 この一局   河口 俊彦   目次 まえがき——ある日の棋士控え室 一九八九年度 手を渡す C級2組 吐血の一局 お化け屋敷の正念場 唯我独尊の凄み 忍者屋敷の怪 一九九〇年度 大勝負直前の一週間 谷川が変った 大山のバネ 羽生はなぜ敗れたか 大山が笑った 相性について まるで奇術 捨て身技の構想力 金の感覚 坊主頭にする理由 伸び悩みの局面 一九九一年度 昨今中国将棋事情 出るか、将棋界のロッキー 健在なり、大山マジック 将棋指しがゴルフをすれば 人格の勝利 名人位よりもでかいタイトル 逆境における強さ 背後世界の息づかい “ジキルとハイド”名人誕生か 盤上のターミネーター 高橋ワールドへようこそ 「鈍さ」はパワー 一九九二年度 不世出の大名人 新人類は、今 「盤外」は大変 ショーギ・ウォーズ 丸田の秘密 「新人類」のウィークポイント 名人位までの遠い道のり 決定! 中原VS.米長名人戦 平成四年度 順位戦総評 これからが本番! 名人戦 新名人誕生! 谷川・羽生時代到来? 一九九三年度 米長の大パーティーと羽生 本格的女性進出の胎動 新人類たちのその後 棋士気質、今昔 森安九段の棋風を偲ぶ 飲み付き合いのプレッシャー お祝い殺到の意味 浮かんだり、沈んだり 「上座」への気迫に期待 名人戦=王者を認めるセレモニー 真の新時代の幕開け あとがき——ふたたび、ある日の棋士控え室 人生の棋譜 この一局   まえがき——ある日の棋士控え室  東京千駄ヶ谷の将棋会館4階がプロ棋士の対局場。  その同じ階の片すみに棋士控え室がある。八畳のなんのかざりもない部屋だが、ここで食事をとったり、くつろいだりする。対局者の他に、棋士も遊びに来て、最近の棋譜を並べたりもする。いってみれば、棋士の居間みたいなものだ。  六月のある日、順位戦を終えた私は、控え室でぼんやりしていた。夜戦に入ったころなので、誰も居ずがらんとしている。帰ろうかな、と思っていると、北浜健介《けんすけ》四段が来て盤を出し、今戦われている対局のこれまでの局面を次々と並べはじめた。  C級1組の順位戦が六局ほど戦われていて、夕食休み前までの棋譜のコピーが用意されている。そのなかから、おもしろそうな対戦を選び出し、今後の展開を予想しながら勉強するのである。  八時ごろになると、先崎学六段があらわれた。よい席があいていた、と北浜の前に座った。そして北浜が並べる一手ごとに感想を言う。褒めることもあるが、辛辣《しんらつ》な批評が多い、それがおもしろく、私は帰る気がなくなった。  やがて村山聖《さとし》八段が来た。対局をすませた郷田真隆《ごうだまさたか》五段が控え室をのぞき、おもしろそうだと入って来て継ぎ盤の横に座った。さらに、羽生善治《はぶよしはる》六冠王もスポーツシャツの軽装であらわれた。天才は天才を呼ぶ、のか新鋭行方尚史《なめかたひさし》四段も顔を見せた。継ぎ盤のまわりはいっぱいで、行方は郷田のうしろから盤をのぞいている。  見回して私は、奇跡的な場面だ、と思った。今の将棋界の天才のなかの天才が集ったではないか。これだけの顔ぶれの研究会なんて二度とないだろう。  研究の題材になっていたのは、屋敷伸之《のぶゆき》六段対中田功五段戦だった。中田が振飛車らしい攻め方で迫ったのに対し、屋敷は土俵ぎわで回り込もうとしている。屋敷玉はうすいが妙に粘っこい。そういった終盤のはじまりのころが、いちばんおもしろい。どちらが勝ちか負けかの結論が出せるからだ。  たいてい先崎が「こうやったらどうだ」と口火を切る。継ぎ盤で指すのは一手だけ。以下の手順は早口でしゃべる。それを聞いて、うなずく者もいれば、異をとなえる者もいる。「かくかくしかじかで、これは先手が勝ちだろう」と言えば、誰かが「なるほど」と言うか、あるいは途中の一手をとらえ、「そこでこう指せば」と質問したりする。つまり、空中で、5六歩《ふ》とか6二銀とかの符号が飛びかうのだ。その符号すら省略して、取るとか、捨てたら、合いしたら、などと言うこともある。とにかく会話が早いのである。それに飛躍した局面が話題になったりする。  天才達が、その才能をもっとも発揮できる場面で頭脳をフル回転させている有様を想像していただけるだろうか。私なんかは、継ぎ盤を見て、話を聞いていても、なにがなんだか、なにを言っているのか判《わか》らない。  私とみんなとはレベルが違うと、自他共に認めているし、大先輩の特権もあるから「ちょっとその手順を盤に並べてみてくれ」と注文する。  すると先崎が手早く駒《こま》を動かしてくれ、それで判ったような気分になる。ただ自分の意見までは言えないのが悲しい。うっかり見当外れなことを言えば、露骨に軽蔑《けいべつ》のまなざしを浴びる。それだけならよいが、思いつかないような文体の辛辣な一言が飛んでくるだろう。  継ぎ盤を囲んで数人の棋士が検討している場面は、タイトル戦などでよく見られる。ただそういうときは、新聞社の担当とか、観戦記者とか、ファンがいる。外部の人の目をおもんぱかって、仲間の棋士の顔を潰《つぶ》すようなことは言わない。  ところが、将棋会館の控え室は、最初に言ったように居間みたいなものだし、このときは、外部の人はいなかった。なにも遠慮する必要はなく、言いたいことが言える。そうして、数人の天才がそれぞれ勝負しているような雰囲気になっていた。  たとえば羽生がなにか意見を言う。それに対し、郷田が反論する。たまたま郷田が正しかったとしよう。羽生は「あッそうか」など言って非を認める。もし羽生の言った手が間が抜けていたり、感覚がわるかったりすれば、なんだ、とみんなに馬鹿《ばか》にされる。それが今後の本番の対局に影響しないはずがない。  ま、羽生くらいの実績と力があれば、勘ちがいで変なことを言っても、笑ってすませてくれる。  しかし、先崎六段とか郷田五段はそういってられない。こういう場面で冴《さ》えた一言を言って、彼は強い、いい所を見ている、と認められなければならない。村山も行方も同じである。  ここで、集っているメンバーをくわしく紹介しておこう。  羽生については言うまでもない。現在六冠王。今期こそ全冠制覇の七冠王になるといわれている。今の力は、全盛時の大山十五世名人を抜いて史上最強の棋士と思われる。  村山八段は、羽生とほぼ同期で、四段になったころは、佐藤前竜王、森内俊之《としゆき》八段と共に、羽生のライバルであった。グループのなかでいちばん実績がないが、今年A級に昇り、住まいも関西から東京将棋会館の近くに移した。生来病弱の身で、傍らに気を遣ってくれる人がいないと心配なのだが、にもかかわらず一人東京に来たのは、強くなるにはこうするしかない、と考えたからだろうし、それは正しい。移ってすぐは環境になじめぬようだったが、ようやく調子を戻しつつある。終盤の、詰むや詰まざるや、といった場面での読みの早さと正確さは日本一である。  プリンスと呼ばれているのが郷田五段。クラスはまだC級1組だが、王位戦における強さは驚異的だ。平成四年、谷川浩司《こうじ》を破って王位になり、翌五年は羽生にタイトルを奪われるが、六年にまた挑戦者になった。これは大激戦で、第五局まで郷田が三勝二敗とリードしていたが、第六、七局で逆転された。そうして、この時期も王位戦の挑戦者確実の情勢で、羽生との対決を目の前にしていたのである。  棋風は本格的で、筋のわるい手、理屈に合わない手を嫌う。寄せに独特の強みを持つが、特筆すべきは早見えの凄《すご》みで、「羽生なら一分、郷田なら三十秒」と言われる。これなど才能のある証明である。  先崎六段は、大先輩の故芹沢《せりざわ》博文九段、師匠の米長邦雄《くにお》九段以来の、才気煥発《かんぱつ》型の棋士だ。将棋の才もあるが、文章もうまく、口もよく回る。よい意味でのわるガキ的なところもあり、人気が高い。平成二年には、NHK杯戦で優勝している。これでわかるように、やはり早見えする。クラスはまだ最下位のC級2組だが、これは信じられないほどの不運がつづいているせいで、今ごろA級にいても不思議でない。事実、竜王戦では、A級に相当する1組に上っている。  私が高く買っている人の一人で、エピソードのいくつかを前著『一局の将棋 一回の人生』でも紹介した。  先崎とともに、しょっちゅう将棋会館の控え室にあらわれ、幅をきかせているのが行方四段だ。二年前に四段になったばかりの新人で、本書にはまだあらわれない。この若者は、昨年竜王戦の決勝三番勝負まで勝ち進み世間をアッ!と言わせた。その決勝は羽生に敗れたが、これで一躍スター棋士になった。  寄せの場面で手を多く読めるのが長所で、いつか佐藤前竜王も感心していた。先崎と同じく生意気な口を利《き》き(これまたわるい意味で言っているのではない)誰もがやり込められる。この若者と継ぎ盤で向い合うには相当な勇気を必要とする。  もう一人北浜四段がいる。私の横で、継ぎ盤の前に座り、黙々と言われた通り駒を動かしている。  なんとも存在感がなく、私は、しっかりしろ、と励ましたくなる。早大一年生という異色棋士で、昨年四段になった。一年目は目立たなかったが、今年になるや力を出しはじめ、全棋士中の勝率ランキングの一位に立ったこともある。つまり強いのである。だったらもうすこし自分の意見を出したら、と思うのだが、それをしない。まだ格が違うのだろう。  後日、この場面を別の棋士に話したら「そうでしょう。あのメンバーには普通の棋士では近づけませんよ」とうなずいていた。  継ぎ盤の研究はますます熱をおびて来た。屋敷六段対中田功五段戦の出来がよく、ずっとすれすれの攻防がつづいている。一手すきをかけたり、かけられたり、必至逃れの必至があらわれたり、と目まぐるしい。みんな得意の場面なだけに活発に意見が出る。先崎はそれ等を聞き、有力と判断した意見を盤面に再現する。まるでオーケストラの指揮者のようにさばく。瞬時によさそうな手か否《いな》かを判断するのも難かしい。悪手を並べたりすれば先崎が馬鹿にされる。  それにしてもみんな人がわるい。いい手が出たときは感心せず、わるい手のときだけ反応する。村山は、町道場の用心棒みたいで、アホな手を聞くと、虚無的なまなざしを下に向ける。郷田は、嫌なことをされたときの動物がするように、すっと横を向く。羽生はちょっと口をゆがめ、先崎は顔全体をしかめる。  こんな風に神経をけずりながら考えているのだ。棋士という商売は、信用が第一である。仲間に強い、と思われなければどうしようもない。勝ちまくれば認められるが、それだけでは不十分で、こういった場面で才能を示さなければならない。棋士は互いにいつも観察し合っており、勝負は盤上だけでない。  午前一時ごろ、ようやく屋敷が勝った。  本書の前半によく名が出るが、屋敷は史上最年少十八歳で棋聖になった。一時は羽生を追い抜いた天才である。それから五年、六年とたち、さらに強くなっていると思いきや、今はさっぱりである。C級1組で止まっているし、タイトル戦にも縁がない。  どうしてそういうことになるのか。いつも考えているのだが理由が判らない。この日の勝ちっぷりがよかったので「天才が復活したかな」と呟《つぶや》いたら、みんな知らん顔だった。  先崎、行方も今は勝てるし、年も若いからよい。しかし二十代後半になってもB級止りだと「元天才」と言われてしまう。そういう人はたくさんいる。将棋界は消耗が激しくなったのだろうか。  それと羽生も気になるところがある。あらためて書くまでもないが、現在は一人勝ちの状態で、断然たる第一人者である。その人がこのような席にいれば、まず羽生の意見を聞こうとするし、言い負かそうとする者もいないはずだ。つまり、一同謹聴となって当然であろう。すくなくとも座の中心にならなければおかしい。  ところが、そうでない。みんなタメ口をきいている。偉ぶらない所が羽生の長所なのだが、人間的な威圧感を感じさせずに勝つとは、やっぱり新時代の名人なのだろう。  午前二時になろうとしている。対局も全部終り、一同さっと帰った。先崎が一人残り、畳の上に大の字になった。「あーくたびれた」は実感がこもっていた。そうだろう、五時間以上も勉強したのだから。私も疲れたが、稀《まれ》にみるよい場面を見せてもらったと大満足だった。 一九八九年度 「お化け屋敷」出現  羽生善治などが「新人類棋士」とはやされていたとき、小さな怪物が抜き去ろうと近寄っていた。  屋敷伸之五段で、プロデビューからわずか一年、十七歳で棋聖戦の挑戦者になり、中原誠棋聖に一度は敗れたが、再度挑戦して破る。  十八歳でタイトル保持者は、史上最年少記録である。このときは羽生も影がうすかった。  名人・谷川浩司 竜王・羽生善治   手を渡す  先日、新聞の囲碁欄を読んでいて、おもしろい記事を見かけた。  林海峰九段と武宮正樹九段の対戦中、林九段が扇子を鳴らした。武宮九段は気になって、立ち合い人に、音を立てないよう注意してくれ、と申し入れたというのである。  これを読んで、武宮九段が負けたな、と思った。巌流島の故事のように、怒ったから負けた、というのではない。うるさいなら、それは林九段に直接言うべきで、第三者たる立ち合い人に言ったところで気合い負けしていたのである。  囲碁将棋界は、同じ人間が何十年も顔をつき合わせて生きている。できることなら気まずくなることはさけたい、という気持がある。しかし、それでも言うべきことは言える人が強いのである。  さて、将棋における本当の勝負では、盤上・盤外の心理的なかけ引きで勝負が決る。相手の態度がしゃくにさわるが、面と向って苦情を言う度胸がなく、内心ブツブツ言っているようなことでは、必ず負ける。指し手の面で言えば、勝手にしやがれ、さあ、詰ましてみろ、と開き直った方が必ず勝つ。  勝負将棋では、玉を詰ますから勝つのではなく、詰まされないから勝つのである。  大山康晴《やすはる》が得意とする将棋術の一つに、手渡し戦法がある。敵玉を寄せに行くべきか、あるいは自玉の受けに回るべきか、の切迫した場面で、それ以外の手、関係のない駒《こま》を取ったり、遊んでいる駒を動かしたりする。一回パスするから、好きなように指してみろ、というわけだ。  もちろん、簡単につぶされる手があればすぐ負ける。それがないことは読んであるのだが、でも、読んでない好手を指されるのではないか、の恐怖心がある。また、理屈からは、一回パスするより、敵玉に迫るなり、一手先回りして受けた方が勝ることが明らかだ。相手も、どちらを選ぶか息を詰めて待っている。  そこで気の抜けたような手を指されると、瞬間、ありがたい、とホッとする。ところが、具体的にどう指すか、となると決め手がない。なにかあるはずだ、あるに違いない、の強迫観念が昂《こう》じ、ついに自爆に等しい手を指してしまうのである。  そういった大山の勝負術は、みんなよく知っている。しかし真似《まね》できない。手を渡した瞬間は、相手に死活をにぎられている。いってみれば死線をさまよっている有様で、そこに身をおく度胸がないのである。  呉清源九段は「自分から打っていい手がないときは、相手から打ってもいい手がないはずだ、だから手を抜け」と言っているが、大山の考え方と同じである。どうやら勝負の天才は、根っから人を見下しているようなところがある。  そうした、一方が開き直った場面こそ、プロ将棋のいちばんおもしろいところなのだが、今回から、それをお伝えしようと思う。残念ながら、めったに見られない。この技は、本当の勝負将棋にしか通用せず、それがすくなくなっているからである。  おもしろい勝負とは、負けた方が何物かを失う場合だろう。将棋界で言えば、順位戦以外の棋戦は、負けてもともと、勝てば得する、という勝負である。だから、負けるのを怖がって、ふるえる、という場面がすくない。  順位戦は負けると収入が減り、地位が下る。クラスが下れば、棋士として下り坂にあることが明らかになるわけで、これはつらい。だから、順位戦と他の棋戦とでは、将棋の質がちがうのである。神にすがる、己の運に賭《か》ける、といった感じの手は、順位戦にしかあらわれない。  では実例をお目にかけよう。今回の題材は、A級順位戦の最終戦から、中原誠棋聖対内藤國雄九段戦。これは勝った方がプレーオフに進出、あるいは、米長邦雄、高橋道雄が負けると名人挑戦者、という大一番であった。  戦いは二転三転、寄せに入って中原が疑問手を指し、内藤が勝ちになったかと思われたが、それも一瞬のことで、最善の受けを逸し、第1図となった。深夜の戦いで残り時間もとぼしく、念を入れて読める状態ではなかった。  第1図、7一龍《りゆう》と金取りにすり寄られて、中原は決断を迫られた。次に6二龍が王手。それはたまらぬと6一金なら、7五龍と粘られる。しかし、詰んでは負けだから、6一金と取りたくなる。  第1図からの指し手。 6六金 同 金 同 角 7七銀 6一金(第2図)  中原は考慮二分で6六金と突撃した。6二龍と取られても、詰みなしと読み切ったのである。6二龍3一玉5一龍4一銀4二銀2一玉4一龍1二玉で逃げ切れる。  先手側から見ると、6二龍と取ってしまうと、龍の受けの利《き》きが消え、自玉が受けなしになる。目の前の獲物を取ることが出来ず、6六金と手を戻し、7七銀と受けに回ったが、そこで、6一金と気持のよい手を指されてしまった。  第2図で、6一同龍は7七角成で詰み。粘ろうと6六銀は、7一金で問題にならない。  実戦は、第2図から、8二龍7二金打6六銀8二金5三桂《けい》成同玉8六角7五桂、までで内藤が投了した。最後の王手飛車に対する7五桂が見事な手筋。  実をいうと、本局は死線を越えて勝った例として、適切でなかったかもしれない。第1図で6二龍と取られて、以下詰むか詰まないかを読むのは、プロならやさしい。きわどくとも、詰まないものは詰まないのだから、確信は持てる。とはいえ、実戦心理は特別のものだ。あそこで6六金は、やはり中原の強さをあらわしている。  それにしても、6二龍と取れなかったあたり、あと一歩で名人位に手がとどかない内藤の運命を象徴しているようではないか。  ところで、今期のA級順位戦は、最終戦を迎えて、十人中九人が、挑戦権争いか、降級に関係するという大混戦だった。  最終戦は、三月五日同時に行われたが、将棋会館はファンやマスコミ関係者で超満員となった。控え室には同時中継の継ぎ盤が用意されていたが、五局並んだうちで、いちばん人気があったのは、大山対桐山清澄《きりやまきよすみ》戦で、大山の引退がからんでいるから当然だろう。  この一戦は、大山お家芸の四間飛車に、桐山が中央位取りで対抗したが、これは、二十年以上前、盛んに指された戦型である。対局中大山は、昔何局も指したことと手順は覚えていたが、どんな読み筋だったか想《おも》い出せなかったそうである。あらためて読もうとしても、昔ほど読めない。弱くなったもんだ、と内心苦笑していたというが、現役最後になるかも知れない戦いの最中に、自分を第三者的な目で見られるのは、冷静であった証拠である。弱くなっても、まだ負けない、の自信があったろう。  桐山は地味ながら、A級に上って十五年間、一度も落ちたことがない、という実力者で、名人にこそなっていないが、昇る一方、挫折《ざせつ》を知らない棋士である。負ければ落ちる、などという勝負は、はじめての経験であった。そこでエリートの弱さが出てしまった。萎縮《いしゆく》して指し手がのびない。大山はすかさず乗じて、中盤は押しまくった。やり過ぎの危険もあったが、後退はしないぞ、の迫力があった。勝敗を分けたのは、その勢いの差だったと思う。受け身で勝ちつづけて来て、突如変身したあたりが大山流の勝負術である。  一方、殴られっぱなし、一度も殴り返さずに負けたのも桐山らしい。さっきいったエリートのひ弱さは見せたが、自己の指し方を貫いたところに関西人の土性骨を見せた。  こうして大山が完勝し、歴史的な日にはならなかった。  青野照市対田中寅彦《とらひこ》戦も首のかかった戦いだったが、こちらは、田中が気負いすぎて、無茶な手を指し、自滅の形になっていた。  寄せに入ったころ、対局室をのぞくと、田中は唇をかみしめ「また暴走しちゃった」とつぶやいた。死線の戦いで、桐山と田中が両極端な気持になったところが興味深い。昇級の一番では力を出せても、降級のかかった一番で力を出し切れる者はすくない。  その点、塚田泰明《つかだやすあき》は見事だった。今期は出だしから不調で、六回戦を終ったところで大山に勝っただけの一勝五敗。残り三局を三連勝しなければ助からない、それも相手は、南芳一《よしかず》、中原、米長と強敵ばかりで、どこから見ても絶望的な状態だった。だからかえって開き直ることが出来た。死線を長くさまよったから、恐怖になれてしまった、ということもあるだろう。  まず南に勝ち、次の八回戦の中原にも勝った。この対中原戦が運命の分かれ目だった。中原の猛攻を浴びて、塚田はダウン寸前。寄せ方はいろいろあり、どれを選んでも中原の勝ちと思われた。  強気で楽観派の塚田も、このときばかりは観念したそうである。寄り筋がたくさんあって受けてもしようがない。なら、せめて形作りをと、二手すきをかけた。  そこが奇跡的な局面で、簡単に見えてそうでなかった。中原の手番で一手すきをかければよいのだが、決め手がない。即詰みがありそうな形なのに、一手すきがかからないなんて、そんなバカなことがあるはずがない。手が多いだけに中原は迷い、あせった。そうして最善手を逃し、塚田の逆転勝ちとなった。  このとき塚田は、自分はツイている、の確信を持っただろう。同じ首のかかった最後の一番を戦うにしても、桐山や田中とは気持の在りようが全然ちがっていたのである。  だから塚田は力を出し切れた。寄せに入ったころ、米長が馬を捨てて一手すきをかけて勝ち、という場面が生じたが、塚田はその鬼手を見破り、攻防の角で狙《ねら》いを封じた。その直後に米長が疑問手を指し、結果的には、角打ちが勝着となった。  最終結果は、三勝五敗の桐山と、四勝五敗五人のうち、順位がいちばんわるい田中が頭ハネを食って落ちた。たった一つの負け越しで落ちるとは厳しいものである。数日後田中に会ったら「こんな率のわるい商売はやめたくなった」とボヤキまくっていた。   C級2組  今回は、将棋界の、最高と最低のレベルの話をしたい。  いちばん下はC級2組。段位でいえば四段のクラスである。ここには、これから上位を目指す十代二十代前半の若手、四段になって十年以上もここに留まり、そろそろ先が見えた、三十代四十代の中堅、それにかつてはA級B級まで昇りながら、年とともに衰え、ここまで落ちてきた大ベテランなどがいり混っている。平成元年度のC級2組は総勢五十六名、年間十局のリーグ戦で、上位三名がC級1組に昇級する。  たった三人しか昇れないから、このクラスを抜け出すのは大変で、新人類棋士の代表格、森内俊之四段、先崎学四段もここでストップしている。  なんにしても六十名近くもいて三人の昇級は少なすぎる、もっと上げたら、の声は当然あるが、体質的にそれが出来ない。なにより上位棋士の既得権を優先するからだ。  今期限りで、二上達也九段が引退を表明した。B級1組在籍のまま引退は、近来まれな潔《いさぎよ》さだが、それはさておき、これによって来期のB級1組は定員が一名減となった。  するとどうなるかといえば、B級2組への降級二名を一名に減らすのである。落ちるのを従来通り二名とし、昇る方を一名増やすなどは、話題にもならない。  このように、四十年以上も前に作られた制度に固執しているため、さまざまな面で歪《ゆが》みが出て来た。その一つが、定員十二名のはずのC級2組が、六十名近くにもふくれ上った現状である。不公平がはっきりすれば、ルールを変えればよさそうなものだが、一時しのぎの、運用を変えることでごまかして来たから、今やどうにもならなくなってしまった。  景気のわるい話をつづけると、棋士の総数が増えるのは、一人当りの配当が減るから、現役の棋士にとって好ましくない。しかし、それは本音ではあっても、口には出せない。むしろ、定員を守るために、最下級クラスから落すのはむごいとか、新四段の数をしぼるのは可哀《かわい》そうだ、などの人情論が出て、しばらくの間、C級2組だけ降級はなしとした。  ところが、現実に棋士が大幅に増えると経営にさしさわるし、不公平感も増大する。そこで足切りをまた復活させた。三年前のことである。  リーグ戦の下位十一名を降級点とし、それを三期取ると降級となる。といっても下のクラスはないから、事実上、棋士失格である。順位戦以外の棋戦には出場出来るが、星取表から名前が消え、昇進の望みがなくなり、月給も大幅減となる。  ま、救済措置として、年間六割以上の勝率を取れば復帰のルールがあるが、これはあってなきがごとしで、その成績は不可能事である。そんなに勝てる力があれば、降級点を三回も取るはずがない。  ファンの目から見れば、下位の降級などどうってことのない問題だが、当人達にとっては、食えるか食えなくなるかの問題である。プライドを失うのもつらく、ある意味ではいちばん深刻な戦いなのである。棋士は、個人経営者のように思われているが、実態は、給与所得者に近い。だから、四段になると、将棋連盟という会社に永久就職したような気持になる。プロだから、負ければ落ちて当り前、と割り切れない。  平成元年度は降級制度が復活して四年目で、カド番の棋士が何人かいた。そして、落ちたのは、青木清五段と瀬戸博晴五段であった。  青木が四十二歳、瀬戸にいたっては三十三歳とまだ若い。四段になったころは、名人A級候補とまではいわれなくとも、かなり有望視されたものである。体をわるくしたわけでもないのに、なぜ落ちてしまったのか。  奨励会(プロ棋士養成機関)を卒業したのだから、技術面はそんなに劣っていない。酷ないい方になるが、勝てなくなったのは、人間的に弱いところがあり、それを何年かたつうちに仲間に見破られてしまったからである。それに勝負をしているときの気持が甘い。コロッとだまされてしまう。青木の降級が決定した一局など、そのよい例だった。  第1図は、形勢逆転、青木が勝ちになった局面。苦境を脱して青木は舞い上っていた。  相手の中川大輔四段は、今売り出し中の若手。本局のときは、七勝一敗、昇級候補の本命であった。研究熱心なこと棋士中随一、集中力あり、性格もしぶとく、羽生善治や屋敷伸之と同格の実力がある。  それほどの者が相手なら、第1図になったくらいで喜ぶのは早い。また、よくなったときこそ、気を引きしめるのが棋士の習性のはずである。それが、青木にはなかった。  第1図からの指し手。 3三歩《ふ》 2四歩 3五桂《けい》 1二玉 1三金 2一玉 2三桂成(第2図)  しばらく考えて、青木は必勝の手順を発見した。3三歩で玉の退路を断ち、次は1三金の詰み。それを後手が防ぐには、2四歩の一手だが、そこで、3五桂から1三金と追い、2三桂成の第2図まで、きれいに必至がかかる。この手順はやさしく、プロなら一目で読める手順である。  だったら、中川がその順を許すはずがない。簡単に勝たせてはくれないのだ。おかしい、話がうますぎる、となぜ疑わなかったのだろう。 「甘いねえ」、局後の感想戦で私は思わず言ってしまった。首が飛んでうなだれている青木に言うべきでなかったと後悔したが、彼は不愉快な顔もせず「でもねえ、寄ったと思うでしょう」と苦笑した。本当にお人好《ひとよ》しなのである。  第2図からの指し手。 4三金  飛車の横利《き》きを通す、4三金が妙手。これで後手玉に寄り筋がない。 「そんなばかな」青木は内心叫んだだろう。一時間以上も手を探したが、ないものはない。第2図になってから考えても遅かったのである。  私は何度か第2図を見た。その度に、先手に勝ちがあるのではないかと考えてしまう。いってみれば、4三金は奇跡的な受けだったのだ。運がわるかった、というしかない。  第1図での正解は2四金。以下、3二玉3四金と銀を取り、上部を厚くしてゆっくり指せば、青木が勝ちだった。  もう一人の降級者、瀬戸は、四段になったのが五十四年。一年後は「花の五十五年組」といわれるくらいで、有望棋士が輩出した時代である。当時の瀬戸は、高橋、中村修、島朗等後年タイトルを取った者と同格に見られていた。今ごろは、B級ぐらいにいてもおかしくない素質である。いや、今だって弱くない。今年の初め、全日プロで中原に完勝し、ベストエイトまで進出した。なぜ順位戦になると勝てないのだろう。一年ならともかく、三年も勝てないのは理解できぬ。  結局、負けられない勝負になると、気持が萎縮《いしゆく》してしまうのだ。それを仲間は知っていてオドシをかける。さんざんオドかされて、コンプレックスが積もり積もってしまったのだ。中原ぐらい地位がはなれてしまうと、対戦がすくなく、そんな事情は知らないから、正攻法で指す。すると瀬戸も力を出せるのである。  あるとき、将棋界というところは、みんなに怖がられるようでなければ勝てない、と判《わか》った。技術がすぐれている、と認められることも重要だが、それ以上に、あいつに憎まれると損をする、けんかをすれば負ける、と恐れられるようでなければ、名人になれない。みんなに好かれ、信頼されるのは、まあまあの部類。素行上のことで不始末をしでかし、弱味をにぎられたり、軽蔑《けいべつ》されるようになったらお終《しま》いで、いくら力があっても勝てなくなる。  たとえば、博打《ばくち》、酒、女にのめり込んで金がなくなり、仲間や先輩に金を借りる。それを返せればいいが、たいてい借金がかさむ。すると、借りた相手には勝てない。昔は、前借りを申し込んで、経理担当理事に勝てなくなった者もいた。  才能がありながら伸び悩んだり、勝ちまくっていたのが、あるときから急におかしくなったりするのは、仲間内での人間関係が原因であることが多い。  大山や中原が勝ちつづけるのは、日常の行いですきを見せないからである。谷川浩司も同じだが、人格に非の打ちどころがない分人間的な迫力に欠ける。  と、中原、谷川の名が出たので、最高レベルの話に移る。  名人戦が始まったが、これは谷川と中原の対戦となった。A級順位戦は、中原と高橋が同率となり、プレーオフで中原が勝ったのである。  さて、谷川と中原だが、この二人にはちょっとした因縁がある。  十年に一人の天才、と言われた谷川少年が、トントン拍子に昇級してA級に昇ったのは、五十七年二十歳のときであった。A級一年目も好成績で、中原と同率、名人挑戦者決定戦となった。今期のプレーオフとは雰囲気が全然違い、当日は将棋会館にファンがあふれたものである。  そこで谷川が勝ち、加藤一二三《ひふみ》名人に挑戦してこれも破り、二十一歳、史上最年少の名人になった。  ればたらの話になるが、ここで中原が谷川を負かしていれば、今日の谷川はあっただろうか。若いから、一度チャンスを逃したら、すぐ挑戦者、名人とはならなかったような気がする。  将棋史を見ると、若いとき挫折《ざせつ》を経験して、大成した例はまれである。いやないといってもいい。だから、谷川があのチャンスをつかんでいなければ、A級上位の定連《じようれん》だったかも知れない。  あの時、中原は事実上第一人者であり、谷川はそれに次いでいた。ナンバーツーを叩《たた》け、は権力を維持する鉄則であろう。中原があそこで芽を潰《つぶ》しておけば、大山に匹敵する名人位保持の記録を作っていただろう。  それにしても、名人位とは、かぎられた人達で争われるものだと痛感させられる。そこに特有の権威があったのだが、最近は様子が違ってきた。 「名人戦(順位戦)の権威は地に墜《お》ちた。(中略)ぼくらの世代は、名人の名に対する憧憬《どうけい》の念などない」  十九歳の先崎はそう書いているが、これ、本気で言ってるのだろうか。将棋界も構造協議が必要な時代になった。でも、勝つという点に関しては、挫折を知らず、節のない竹のような、ノッペリした人生がよい、の考え方は変らないだろう。   吐血の一局  江戸時代には「吐血の一局」と呼ばれる名勝負がいくつかあった。「天野宗歩《そうふ》吐血の一局」が有名だし、囲碁の方でも「赤星因徹吐血の一局」がある。  これを「結核が多かったせいだろう」と言ってはみもふたもないのであって、昔はそれだけ勝負が厳しかったのである。  名人世襲制の時代では、時の名人が死ぬか、引退したときしか交代の機会がない。とすれば、どんなに強く、才能があっても、十年か二十年に一度だけしかチャンスがない。全盛のころに、勝負することができればよいが、運わるく年齢的に衰えたときに勝負して負けた人も多い。また、世襲制だから、跡目になっても、名人に長生きされれば何十年も待たされることになる。それでひどい目にあったのは関根金次郎名人だった。  それを思えば今の勝負は甘いと言わざるをえない。今年負けても次の年勝てばよいし、次がだめでも再来年がある。もう悲話は生れないのである。  名人世襲制から実力名人制になったのは昭和十一年で、木村義雄が土居市太郎を破って実力制初代名人となった。  土居は関根門の高弟であり、阪田三吉の挑戦を退けて関根名人の権威を守った功労者でもあった。世襲制がつづいていれば名人になった人で、関根名人が長生きしたために、木村との勝負のときは盛りを過ぎていた。この土居も、不運な人だったのである。  ただ、もし土居に全盛のころの力があったとしても、木村には勝てなかったろう。時の将棋界では、木村がとび抜けていた。将棋界全体を見下しての戦術があり、独特の哲学を持っていた。人間の器がちがっていたのである。  名人になるや、無敵の強さと、政治力によって棋界を牛耳り、一説によれば、当時の将棋界の総収入の半分を取っていたとも言われる。ちなみに、現在いちばん稼いでいるのは、谷川名人と羽生竜王だが、将棋連盟の総収入の四十分の一ぐらいだろう。  だからと言って、木村のやり方を非難しない。勝負の世界は、勝った者がそっくり取るのは当り前なのだ。今の分け方は悪《あ》しき公平の見本のように思える。かつて森〓二《けいじ》九段が「負けた者には一銭もやる必要はない」と言ったら、さっそく理事会から注意された。そんなことだから、だんだんつまらなくなる。  木村がいい思いをすれば、同じ関東の下位の者までもそれなりに恵まれる。一方、関西は、明治、大正のころとあまり変らなかった。  木見金治郎八段は、今でいえばA級の地位にあったが、昭和の初めのころは、うどん屋と将棋道場で糊口《ここう》をしのぐ有様だった。振り飛車戦法を改良し、技術面の進歩に貢献した天才大野源一九段も、五段のころはうどんの出前持ちをしていたのである。すこしおくれて入門した、升田幸三と大山も、道場の手合いをつけ、お客さんの相手をする日々だった。  木村はといえば、政財界軍部の一流人と付き合い、赤坂新橋の花柳界で派手に遊び、数人の妾《めかけ》を囲い、相撲の升席を買いしめたりのお大尽ぶりである。  それを見て、関西の棋士が反感をいだかぬはずがない。あまりに差がありすぎる。対局料も同じ段位でありながら、二倍も三倍もちがったという。露骨な差別待遇である。  今だから判《わか》るのだが、二段三段時代の升田や大山は、技術面では木村と同等のレベルにあった。当人にその意識があったかは判らぬが、すくなくとも、段位ほどの力の差がないとは思っていただろう。それなのにこの扱いのひどさはどういうことだ。木村への反感はつのる一方だった。後年、木村と升田の名勝負の下地は十分あったのである。  木村は自分が妬《ねた》まれていることをよく知っていた。そして、「口惜《く や》しかったら俺を負かしてみろ」の態度を取りつづけた。勝負師らしく潔《いさぎよ》かったのである。  関西棋界には、木見系の他に、もう一つの閥があった。阪田三吉の一派である。そこに神田辰之助がいて、関西飛将軍と呼ばれ、木村に対する敵愾心《てきがいしん》をむき出しにしていた。木村はすかさず仕返しをする。神田の八段昇段を潰《つぶ》したのである。これでは仇《かたき》同士になるほかない。  月日がたち、昭和十七年、神田が名人挑戦者になった。待ちに待った、東西決戦が実現したのである。さまざまな因縁は知れわたっていたから世間は沸きに沸いた。  しかしながら、このとき神田は五十歳になっており、胸部疾患が末期状態に進んでいて、七十五キロあった体重が五十キロに減っていた。  第一局は、昭和十七年七月十一日に開始されたが、暑さは病身にこたえ、二階の対局室へ入るのにも、弟子にだきかかえられて登る有様だったという。  それでも闘志は盛んで、序盤から長考を重ね、一日目、二日目の中盤のあたりまで互角の形勢だった。しかし、三日目になると疲労のせいか悪手をつづけ、神田必敗形。木村が必至をかければそれまでだったが、それを逃がして形勢逆転。今度は神田が必勝になった。  第1図がその場面。両者十五時間の持ち時間を使い切って、残り一分となっていた。  第1図は先手の手番。どう指せば勝ちかは簡単で、4四銀同金同歩《ふ》でよい。次、同玉なら、4五金と上部を抑え、5三玉5四銀6二玉4三龍《りゆう》とボロボロ駒《こま》を取って勝ち。対して先手玉は金を渡さないかぎり安全で、これはいちばんやさしい寄せ方の例である。  観戦記は第1図の場面で譜が切れていて、「いよいよ好調の神田八段、駒台からサッと銀を取上げた。」とある。次の一手は明日のお楽しみ、というわけだ。  第1図からの指し手。 7二銀 4一角 2二龍 3二銀 1一龍 3七馬(第2図)  銀を持ったのはよいが、打ち場所を間違えた。7二銀と打ってしまったのである。挟撃《きようげき》形で筋のようだが、悪手の典型。中級者がよくやるミスで、なぜ神田がこの手を指したのか不思議である。  木村はこの機を逃がさなかった。右手をふところに突っ込み、左の乳首をつかむようにしながら左手を伸ばして4一角。  お得意のポーズをされて、神田は自分がまずいことをやったのに気が付いた。  いつもいうのだが、悪手は一手だけなら罪は軽く、まだ収束はある。いけないのは二度つづけることだ。プロはよく判っているのだが、ついやってしまうのである。  秒読みに追われ、気を静める余裕もなく2二龍と入れば、すぐ3二銀と妖《あや》しげな受けを指された。  このときの神田の気持は察しがつく。決め手を逃がしたが、まだ形勢はよい。勝つ手はいくつもある。どれにしようかと迷う。ひらめいた手を決めかねていると、五十秒五十五秒、五十八秒、指して下さい、の声がかかる、ウッとうめいて手が盤上でためらう。間髪を入れず「神田君! 時間だよ」木村の叱声《しつせい》が飛んだ。  おろおろして1一龍。  これが敗着であった。3七馬と根本の桂《けい》を抜かれてからは神田に勝ちはない。  2二龍では3三龍。1一龍では3一龍あるいは3三銀。どれも先手が勝ちだった。迷ったあげく、神田は最悪手を選んだのである。  私は見ていたように書いたが、秒読みの戦いでは、しょっちゅう見られる光景で、それは今も昔も変らない。  秒読みにせき立てられるのは、切なく辛《つら》いものである。長年の粒々辛苦、自分の運命が一瞬で決る。考えることも出来ず、運まかせである。よい目が出たときは救われるが、わるい目のときはやりきれない。  その心情がわかるから、記録係もつい仏心を起してしまう。五十秒までは普通に読めても、五十五秒までの間隔が長くなり、五十八秒で、指して下さい、と叫んでも、六十秒を過ぎました、時間切れ負けです、とは言えない。  一方の当事者も、気まずい思いはしたくないから、時間が切れてる、とは言えない。私の知っているかぎり、時間切れで負けになったのは、戦後の名人戦で大山が勝った例があるだけだ。これも大山は記録係の時計を見ていて「アッ」と言っただけである。  いくら情において忍びない、とはいえ、時間切れが許されるのはおかしい。そこで十年ぐらい前から、五十秒のあと、一、二、三、と読んで、十と言われたら負け、というルールができた。  話が横道にそれたが、だから木村の「神田君! 時間だよ」は大変度胸のある一声だったのである。反則負けで勝とうとするなどは、武士道精神に反する、という風潮もあった。  神田は負けん気が人一倍強く、圭角《けいかく》ある人柄だったらしい。木村と対戦し、大逆転で神田が勝ったことがあった。「なんてひでえことをやったんだ」と木村が口惜しがると、「なんで勝っても勝ちは勝ち」と高笑いして席を立ったという。神田が十以上も年長だったので、名人と八段だが、神田は木村君と呼び、木村は、神田さん、と言っていた。  うがった見方をすれば、負けてしょげてみせたのも、君づけを許していたのも、木村一流の策略だったかも知れない。内心では見くびっていたが、おもてむきは気圧《けお》されたような顔をしておき、ここ一番というとき、居丈高になったのである。神田は、なにを! と言うことができない。五十八秒と読まれているのだ。迷いと動揺がいっしょに襲っては、ガタガタになるのも当然だった。  こうしてみると、昔の勝負はおもしろかった。  大名人の威風を見せて廊下を歩いている木村に、後ろから近づいた升田五段が、袴《はかま》のすそを踏んだ。つんのめりそうになり、怒気をあらわに振り向いた木村に、升田はニヤリと笑った。と、松の廊下みたいな話もある。今のタイトル戦は、対局前も仲よく食事をし、終れば和気あいあいゲームに興じるのである。五十年前に観戦記を書いてみたかったとつくづく思う。  この第一局で敗れた神田は、気力が尽きたのだろう、ずるずると三連敗して終った。そして翌年、五十一歳で世を去った。  今回紹介した一戦も「神田吐血の一戦」だったのである。   お化け屋敷の正念場  近頃の将棋ファンは、タイトル戦の衛星放送があれば、好敵手といっしょにいても指さずに、テレビを見ながらプロ将棋の講釈を楽しむのだそうである。  つまり、プロ将棋を見て楽しむファンが増えているわけで、これは嬉《うれ》しいことだ。  ただし、現在のところは、作る側(対局者・解説者を含めて)にサービス精神が欠けているようだが、いずれ改善されるだろう。まだ始まって日が浅い。名人戦を公開するなんて、五年前は考えられないことだったのである。  で、名人戦をご覧になっている読者も多いと思うが、第三局の中原の5六飛にはびっくりされただろう。図で示せば第1図である。  開始早々、いきなり5六飛と回り、成るぞ、と言った。  あまりにも単純な狙《ねら》い。縁台クラスでも指さないだろう。もちろんプロは浮ばないし、気が付き、念のため読んで成算を得ても指せない。こんな手がよかったためしがないからである。テレビ解説の大山十五世名人があきれ返ったのも当然であった。  プロだって、王手、駒《こま》をただで取るぞ、などの直接手を指す。しかし、それは表向きの狙いで、受けさせて何かする、のうらの狙いが本線なのである。5六飛には、そういった合せ技がなさそうに見える。  第1図で谷川は4二玉と受け、中原は3六歩《ふ》から3七桂《けい》と起用し、さらに、4五桂と飛んで、5三の地点を突破しようとした。そのとき、角は手に持っていたが、銀と歩の協力がなく、攻めはあっさり受け止められた。4五に飛んだ桂は「桂の高飛び歩の餌食《えじき》」になり、中盤は、はっきり先手不利になっていた。その後、独特の入玉含みの粘りで逆転勝ちしたが、作戦の失敗は明らかだった。  芹沢博文が生きていれば、5六飛を、「将棋三百年の歴史にない手」と言っただろう。第三局のあと、プロ筋の評判は中原の耳にも入っていたはずだ。  にもかかわらず、中原は、第五局でまた同じ手を指した。  これをもって、中原の感覚がおかしい、筋がわるい、と見るのは間違っている。ここに、中原の強さと恐ろしさがある。常識にとらわれず、人目も気にしない。人がなんと言おうと、自分がよしと思えば断じて行うのである。心の奥底のところで、自分の考えに自信があるのだ。  一流棋士はみんな強情である。それこそ強さの証明なのかも知れない。たとえば、加藤一二三も相当なもので、中原と加藤が対戦すれば、何回も同じ戦法をくり返したものだった。加藤にいたっては、戦型ばかりでなく、着る物、食べる物までこだわった。背広、シャツ、ネクタイはいつも同じ。食事も天ぷらと決めたら、朝昼晩と天ぷら定食。オムレツとトマトジュースのこともあったが、それも朝昼晩と食べる。  中原はそれほどではないが、自分の言い分、好みは曲げない。うなぎ屋へ行っても、うなぎを食べたくなければ、すまして親子丼《どんぶり》を食べる、といった感じである。大山、米長もほぼ同じ。中原はカドを立てないようにするのに対し、大山は回りの人に同調を強要する違いがあるだけだ。  そういう人と、タイトル戦で何回も続けて戦えば、うんざりもする。第三局を観戦した石堂淑朗《としろう》さんの話では、中原が相がかり戦法を指すと、谷川は、またか、という顔をしたそうである。  しかし、谷川だって強情だし、中原の性格は知りぬいている。第五局も、5六飛戦法であろうことを予想し、対策も用意してあった。すなわち受け方を変えたのだが、結果的には失敗で、駒組負けから飛車を圧倒されて敗れた。  これで中原が三勝二敗とリード。谷川が中原の強情さに押されているようだが、もし第六局で谷川が勝ち、タイになれば第七局の先後は、あらためて振り駒で決める。中原が先手番を当てれば、きっと5六飛戦法を用いる。それを指したとき、二人はどんな顔をするか、想像すると楽しくなる。  さて話題を新人類棋士にうつす。  史上最年少タイトル保持者、年間最多対局数、その他驚異的な記録を数々作ったのが羽生善治竜王だが、それを抜こうかの勢いになっているのは、屋敷伸之五段である。  プロデビューからわずか一年、十七歳で棋聖戦の挑戦者になって、びっくりさせたのは昨年暮のことだが、そのときは、中原棋聖に対し、初戦快勝するなど善戦したが、最後は、中原の勝負強さにやられた。  年齢に関係なく、ファーストチャンスをものに出来なかった者は大成しないもので、屋敷少年もしばらくスランプがつづくと見ていたが、どうしてどうして、そんなやわな少年ではなかった。今年になっても勝ちつづけ、順位戦で昇級、竜王戦も五組決勝に進出、そして、棋聖戦も本戦トーナメントから出直して、またもや決勝進出という有様である。敗戦のショックなどまったくない。まだ十八歳で欲がないから負けてもこたえないのだろうが、その辺の本当のところは判《わか》らない。ただ、欲がなければ勝負に強いのはたしかだ。  将棋の場合、悪手を指す原因の九割は、精神的な動揺で、欲望が強いほど、喜んだり、ふるえたり、恐《こわ》がったりしやすい。スポーツとちがって、決断を下すとき、時間的な余裕があり、これがマイナスに作用しやすい。  十分に読みを確かめ、よし勝てる、の自信を得て指す。そして相手の様子をうかがえば、困った顔で考えている。応手を待っているうち、確信が強まり、感想戦でどんなことを言うかとか、かみさんが喜ぶだろうなとか、この金で外国へ遊びに行けるとか、下った株の損を取り返せたとか、次々に虫のよいことを考えはじめる。難かしい顔で考えているが、内心はすこぶる俗っぽいのである。  そこで、予想外の手を指されたりすると、驚き、慌《あわ》てる。応手がすぐ見えなかったらもう大変、甘い夢の反動がきて、逆転の悪手を指してしまう。たいして損も得もないゲーム感覚で指していれば、そんなことは起らない。  また、読み筋にない手を指されたから、かならず不利とはかぎらない。相手をヘボと見くびっていれば、なにをやって来るんだ、ぐらいの軽い気持で考えられ、楽に勝てることもある。ところが、相手は強い、のコンプレックスがあると、やはりやられたか、と相手の読みを信用して敗北感におそわれる。羽生、屋敷が勝つのは、相手の自滅によることが多いのである。棋聖戦の決勝、塚田八段対屋敷五段戦も、そのよい例だった。  第2図は、先手の屋敷が7二桂成と金を取った局面だが、普通なら、これは最後のお願い、という手である。しかし、屋敷が指すと雰囲気がちがう。  塚田は勝ちと思っていた。前からの読み筋を確かめもせず、7二同玉と取った。  指した瞬間、塚田は大ポカをやったことに気がついた。6二金8二玉7一銀9二玉8四桂まで、並べ詰ではないか。  数秒後、屋敷の6二金が指され、そこで塚田は投げた。  第2図で、7二同角と取れば詰みがなく、塚田の勝ちだった。  錯覚、不注意といえばそれまでだが、こういう異変が起るのも、相手が屋敷だったからこそである。第2図まで、逆転、再逆転の激戦であった。絶好調同士らしい将棋だったが、第2図の直前に至って、塚田にようやく勝てた、の思いがあった。それが尾を引いて、早く勝ちたい、再検討なんて面倒だ、と無意識のうちに焦《あせ》りが生じていた。で、一息入れて盤面を見つめる余裕がなかったのである。  これで屋敷は、前期につづいて中原棋聖に挑戦することになった。今度こそ正念場である。誰もそんなことは言わないし、当人にその意識もないだろうが、私は、この勝負が屋敷の将来を決めると見ている。またチャンスを逃すようでは、A級に昇り、タイトルを二つか三つ取っただけの棋士に終るだろう。  中原も少年相手ではむきになれないし、意地を通しても谷川のように反応をしめさないから効果がない。最大の武器が通用しないとなれば、苦戦するかも知れない。  挑戦者になった直後、屋敷はもう一つ大きな将棋を戦った。竜王戦五組決勝戦で、相手は有森浩三《こうぞう》五段である。  第2図のような必敗の将棋も勝ってしまうとなれば、誰にも負けないんじゃないかという気がする。竜王戦も、本戦トーナメントに出場し、それも勝ち上って、暮には羽生対屋敷の七番勝負だろうと、気の早い予想も出ていたくらいだ。  戦いは、玉を固めてなかなか負けない、という屋敷らしい指し方で、第3図となった。5五金と出て、同金と取れば同飛で、6六銀と2五飛を両にらみにして後手必勝。5五同金と取る以外に適当な受けも見当らないから、後手優勢という評判だった。  そのピンチを迎えて、有森は、6七玉と豪気な手を指した。王様みずから出動して受けようというわけで、6六金なら、同玉5五銀7五玉ともぐれる。これを見て、観戦していた棋士はうなった。二枚落ちならこういう手は平気で指せるが、平手ではそうはいかない。有森は屋敷を恐がっていないから、6七玉と指せたのであり、その強気に感心したのである。  ゴツンとこられて屋敷も調子が狂ったのか、第3図からの指し方に精彩を欠き、大きな星を落してしまった。  有森五段は、岡山県出身二十七歳の新鋭である。早くから大器と言われていたがぜん息の持病があって、C級2組にとどまっている。棋士らしくなく財テクの才があり、銀行から金を借りて岡山駅前の土地を買い、貸しビル業をやっている。この一戦、欲を出して勝ったのだから、さぞ嬉しかったことだろう。   唯我独尊《ゆいがどくそん》の凄《すご》み 「棋は対話」といわれる。高度なレベルになるほど、相手の言っていること、言わんとしていることを読み取れるようになる。  いつも言うことだが、プロ将棋では、相手の言い分と自分の言い分が違ったとき、自分の言い分を通そうとせず、相手の言い分を通すまいとする。これが、大山によって確立された、近代将棋の基本理念である。大げさな言い方になったが、プロが手を決めるときの気持はそんなものだ。  だから、ある中盤の局面で、次にどう指すか、を考えるのに、自分がこう指せば、相手はどう応じるか、という考え方をしない。自分の手番であっても、仮に相手の手番ならどう指すだろうか、から考えはじめる。それは相手が二度指すことになるから、いい手がかならずある。そのいい手が成立しないように対策を立てれば、不利になることはない。 「一手前に受ける」は受けの極意だが、そうした考え方は、受け身に片よりがちで全盛時の大山将棋がよい例である。そういえば、「受けは、かならず一手先に駒得《こまどく》できるから有利」の大山語録もある。  相手の側に立って見る、の考え方は、攻めているときも応用できる。攻め合いの速度を計算するのに有効で、加藤(一)が、相手の背後に立って盤面を見下すのも、得なことがあるからだ。  とはいえ、何事であれ、相手の立場で物を考えるのは難しい。勝負を争っている最中は、頭に血が上っていたり、勝ちたいと気が焦《あせ》っていることが多いから、つい相手のことを忘れてしまう。  私などは、公式戦でそんな失敗を何十年となくくり返している。わかっちゃいるけど……の類《たぐ》いである。ただ、アマチュアとの稽古《けいこ》将棋では、意識せずに相手の側に立って考えることができ、気持を読める。だから、囲碁将棋は、ハンデをつけても上手側が有利ということになる。  前おきが長くなったが、中原が谷川を破って名人位に返り咲いたのはご存知だろう。  戦いを見ると、後半になって中原が精神面で圧倒していたのがよく判《わか》る。  討論にたとえれば、中原は頑として同じテーマをくり返し、谷川が、もうその話はあきた、話題を変えましょう、という顔をしているのにかまわず、同じテーマを論じる。で、おつき合いをする谷川の論旨は精彩を欠き、反論は力がない。そのうえ、中原は谷川の言い分を無視し、ひたすら自説を通す、といった感じなのである。  前回で紹介した、5六飛戦法はその典型で、さっき言った大山流の思考方法とはまったく逆である。自説をごり押しすれば摩擦が起るのと同様に、そんな指し方は、きっと破綻《はたん》を生じるはずだが、腕力でそれをとりつくろってしまう。  中原将棋を「自然流」と呼ぶ。いや、呼ばれた、というべきか。今や「不自然流」である。二十四歳で大山を破り、名人になってからの約九年間は、中原の第一期黄金時代であった。指し手は理路整然、平明にしていささかの無理もなく、将棋理論は、時の常識の集大成といえた。なるほど、将棋とはそう指すものか、とみんなを納得させたものだった。ときには底意地の強さをのぞかせることもあったが、それは誰にもあるものであり、見る眼を持っている人でなければ気がつかぬくらいのものであった。  その中原が、四十歳を境に、指し方に強情なところが多くなり、その傾向のきわまったのが、現在の将棋である。  とにかく実例をお目にかけよう。  第1図は、今戦われている、棋聖戦五番勝負の第二局、対屋敷五段戦。  例によって、中原流、相がかり急戦だが、この後の十数手は、手の意味は考えず、局面の変りように注目されたい。  第1図からの指し手。 5一金 2四歩《ふ》 4二金上 2三歩成 同 金 3五銀 3二歩 2四歩 1三金 9五歩 5四歩(第2図)  2、3筋を防ぐべく、6一の金が移動をはじめる。それは理解できるが、結果は、第2図まで、ひどい屈服である。かなめの金は1三へ追いやられ、2二の銀はカベ銀。3二の歩はあやまらされた形。後手陣にいいところは一つもない。並の棋士なら、こんな形になってはだめだと、考えずにあきらめてしまうだろう。  ところが中原はかならずしも不利と思っていなかったらしい。唯我独尊、自分の指す手は絶対に誤っていないとの確信すら感じられる。人が笑う、なんて思いもしない。「名人に定跡なし」はよく言われる言葉だが、それを越える恐ろしさがある。  第2図の中原陣は、史上稀《まれ》に見る珍形だが、驚くべきことはまだある。  最後の5四歩は、次に5五歩で角を殺すぞ、という手。それを食ってはたまらないから、6六歩とか4六歩とか、とりあえず角の逃げ路《みち》を作るのが自然である。  このとき屋敷少年がなにを考えていたのかは判らない。第2図で9四歩と取り込み、5五歩と突かれてしまった。角を殺された代償は、次に9三歩成と遠いところにと金を作っただけ。  この経過を見た若手棋士達は、あきれかえって研究をやめた。  角損でも指せる、と屋敷が考えたはずはない。角を助けても不利だから、9四歩と指したのだろうが、不利の度合いを比べれば、6六歩の方がましだ。事実、羽生や先崎などが、第2図で6六歩と突いた後を想定して、いろいろやってみたら、先手に勝ち味がないわけでもなかった。  恐らく、屋敷は中原の自信に圧倒され、金縛りになったのだ。敗勢になってから、自分を取り戻し、差をつめたが、それだけのこと。二連敗では棋聖位を奪う望みはない。  こんな将棋を指す中原も、日常は相変らず温厚で、理事会に無理難題を吹っかけたり、自説を主張したりすることはない。なぜ将棋だけこう変るのか不思議に思える。  さて、次は新人類棋士の話題。  羽生、村山聖、佐藤康光《やすみつ》、森内俊之のうち、いちはやく頭角をあらわしたのは森内で、昨年春、全日本プロトーナメントで谷川名人を破り優勝した。次いで、羽生が昨年暮、竜王になり、棋界最高の位についた。出おくれているのは、村山と佐藤だが、六月末佐藤は、福崎文吾《ぶんご》八段に勝って、王位戦の挑戦者になった。もちろん、タイトル挑戦ははじめてである。対局の合い間に海外旅行を楽しんだりして、勉強がすくない分、昇進がおくれた、の見方もあるが、私はそう思わない。着実に伸びているのである。  王位戦の相手は谷川。こちらは名人位を失って、持っているのは王位一つしかない。全日本プロ決勝で羽生に負けたのが、不調のきっかけになった。そしてまた年下が相手では、いい気持がしないだろう。中原は少年を負かして調子を上げ、谷川はその反対。こうした技術以外の気持のありようは興味深い。  谷川にとって救いなのは、佐藤とは棋風が似ており、入玉作戦の恐怖はないし、指したいと思っている戦法を選べそうなこと。技術は谷川が上で、初戦に勝てば、いっぺんに立ち直るかも知れない。  佐藤が出て来た代りに、羽生と森内に元気がない。特に羽生がひどく、今期(四月以降)未勝利である。年間勝率八割の棋士が、三ケ月以上、一局も勝てぬなんて信じられない。負けたなかでも痛いのは順位戦二連敗で、前田祐司七段と吉田利勝七段にやられた。  前田はNHK杯戦で優勝したことがあるから、名前を覚えていらっしゃる方も多いだろうが、吉田の名は、よほどの通でなければ知らないはずだ。  今年五十七歳になる大ベテランで、栃木県の田舎に引っ込み、対局のときだけ将棋会館にやって来る。言い分を通す、通さぬでいえば、徹底的に我説を通すタイプで、得意な戦法は大流行の「急戦相がかり」である。みんなが見むきもしなかった、二十年ぐらい前から指しはじめ、以来それ一筋だから、年季の入り方も普通じゃない。中原流の5六飛型はさすがに指さないが、似たような訳の判らない手を指す。そして相手が面くらっているうちに、自分のペースに引きずり込んでしまうのである。その手の内は十分判っていて、用心していてもいつの間にかやられている。  羽生との対戦でも、序盤で無意味な手損をした。持久戦ならともかく、超急戦型だから一手の差は大きい。羽生も、ばかにありがたい手を指してくれるな、と思ったがとがめる具体的な手がない。そうして一手指すと、また吉田は、一手パスの手を指した。合計二手得すれば、よくなるはずだが、やはりうまい手が見つからない。おかしい、と首をひねっているうちに、羽生の感覚が狂いはじめ、もしかしたら、知らず知らず罠《わな》にはまったのではないか、の疑心暗鬼が生じた。相手の読みを信用するようになったら、そこで負け、駒組が出来上ったとき、羽生の飛車と角は、身動きならぬ状態になっていた。  深夜まで粘ったが、最後はぴったり詰まされた。ケッケッケと笑いとばして吉田が帰ったあと、羽生はなっとくが行かないという顔で、若手棋士達とだまされたあたりを調べた。  冷静になれば、奇術のタネは見破れるはずだが、いくら考えても手損をとがめる手を発見できない。記録係の少年が、「吉田先生は、間髪をいれず指しましたよ」と教えてくれると、羽生も「そうだったんだよな」とうなずいた。「じゃあ研究してあったんだ」感嘆の声があがった。  プロ野球のように、月間成績を表彰することがあるなら、羽生対吉田戦は、六月の技能賞候補だ。そして、第1図から第2図の、中原対屋敷戦は、珍局賞だろう。  私とは子供のときからの友達だから言うのではないが、吉田は、七段とはいえ三流の棋士である。しかし、この形になれば誰でもこい、の決め技を持っている。俗世間に背を向け、一剣をひそかにみがき、竜王を倒す。なんとなく、昔の武芸者みたいではないか。  一方、羽生はどうしたのか。若手棋士が勝てなくなるのは、女友達が出来たときだが、そんな噂《うわさ》は聞かない。生活環境の変化といえば、親もとを離れ、都内でマンション暮しになったが、そんなのは問題になるまい。結局、原因は判らない。早くも、将棋に対する考え方が変った、など詮索《せんさく》するむきもあるが、どれも説得力にとぼしい。  多分、一過性のスランプなのだろう。佐藤康光だって、昨年の今ごろは、八連敗か九連敗でもがいていたのだ。   忍者屋敷の怪  屋敷少年が史上最年少、十八歳でタイトル保持者になった。  棋聖戦五番勝負は、中原棋聖が第一局、第二局と連勝。ここで、勝負は終り、屋敷に望みはない、と前回で書いた。将棋の内容は、力がちがうと見えたし、中原は名人になって、さらに勢いづいていた。第三局のときは、玄人《くろうと》筋もマスコミも、勝負の結果への関心を失っていた。  屋敷は、前期の棋聖戦でも挑戦者になった。惜しくも二勝三敗で敗れたが、これは大健闘というべきだろう。そして半年後、再び挑戦者になった。本戦トーナメントをまた勝ち上ったのだから凄《すご》い。連続挑戦はタイトルを取るより難しいくらいだ。  ここで私は屋敷を見直した。超一流になる者は、最初のチャンスを逃さぬもので、その実例をこれまでにいくつか紹介したが、屋敷はそれを逃した。で、単なる早熟の少年かと思ったら、そうでなかったというわけである。  中原と棋聖戦で二度戦うとは、約九ケ月かけて時の第一人者と十番勝負を争うともいえる。屋敷は中原の胸を借りるのだから、最初は劣勢でも、戦う度に力をつけて、だんだん差を詰めて行く、と考えるのが常識的である。前半が二勝三敗なら後半は望みがある、というものだ。  ところが、後半に入って中原が連勝した。通算は第七局まで中原五勝二敗。差を詰めるどころか離されてしまった。これは中原に手の内を読まれ、見下されている、ということだろう。屋敷はコンプレックスを植えつけられてしまった。故《ゆえ》に、誰もが勝負あった、と見たのである。  勝負事というものは、負けが込んでくるとあらゆることがまずく回りはじめる。対局の際、関係者は注意していても、予想は態度のどこかにあらわれ、すると対局者は気配を感じとり、めげてしまう。  さて、第三戦のとき、屋敷がどんな気持で臨んだか想像がつかない。あるいは、なんとも思わなかったかもしれない。年少の強みはそんなところにある。ともかく、そのカド番を、桂《けい》二枚が中央に飛び出す、という奇抜な指し方でしのいだ。  ほう、一番入ったか、若手棋士達は気にとめなかった。つづいて、第四局も屋敷が勝ってタイ。それでも仲間は知らぬ顔。将棋の内容には、ことさらふれない。研究会で話題になったかどうか知らぬが、私の耳には入って来ない。私の方から聞こうともしなかったが、ちょっと変な気がした。  谷川と王位を争っている佐藤(康)は噂《うわさ》にのぼるのに。羽生が勝ち進んでいたときも、みんな応援したのだ。屋敷になぜそれがないのだろう。  そして最後の一戦、屋敷は奇勝を得た。  第1図は、屋敷が死線をさまよった局面。中原断然よしである。腕に自信のある方は後手側を持って、次にどう指すか考えて下さい。銀桂両取りを防ぐ、という目標がはっきりしているので考えやすいはずだ。  屋敷も、正解手を知っていて、観念していたそうである。  第1図からの指し手。 2二金 3四角成 6五銀 4三馬(第2図)  中原は、銀を取れと2二金と寄った。3四角成を強要して、6五銀と、飛車馬両取りに出る狙《ねら》いだった。  これぞ必勝の手順と中原は確信していただろう。飛車を助けて6五歩《ふ》と銀を取れば、3四飛で後手よし。馬を助ける2五馬は、7六銀1五馬3三桂7六金2九飛で、これも後手必勝。  見ている側は、3四角成と取らせる手があまりに損なので、どうかな、と疑うが、6五銀以下の読み筋が判《わか》れば、やはり後手勝ちと思う。屋敷の次の好手は気がつきにくいからである。  思いもかけぬチャンスを屋敷は絶対に逃さない。4三馬と捨てたのが才能を示す一手だった。  第2図は4三同玉の一手だが、6五歩と取られて、次の4六飛がきびしい。中原に一歩あればどうということもないが、その歩がない。「歩のない将棋は負け」の典型的な例である。第2図は完全に逆転した。  4三馬は、雄大な構想とか、深い読みが入っている、という類《たぐ》いの妙手ではない。反射的な身のこなしである。これが、屋敷の勝つパターンなのだ。  第1図に戻って、正解は1六角。対して、金取りを防いで2七歩なら、2二金と角を殺してそれまで。かといって、1六角に2一角成は、3八角成で、これもひどい。すなわち、1六角と打てば中原の勝ちははっきりしていた。  実戦心理は、3四の銀を取らせまい、と働くから、1六角はまっさきに見えるはず。中原も知っていたにちがいないが、なぜ、2二金から6五銀の順を選んだのか。そこが判らない。  元来、中原は鬼面人を驚かす手は指さない。平凡手を積み重ねてジリジリ押す。だから「自然流」なのだ。ま、最近は様子が変ったが、本質は地道に勝とうとする。かりに、6五銀で決っているとしても、それより、1六角の方を選んだはずである。終ってから我に返り「なにをやったのか」と自分自身にあきれ返っただろう。  第2図からは、屋敷は持ち前の正確な寄せで勝った。なんで勝っても勝ちは勝ち、立派なものである。いい手を指し、会心作でタイトルを取ったのでなく、相手のポカに恵まれて勝ったあたりもまた屋敷らしい。五年か十年後、スランプにおちいったとき、この勝利を思い出して、「あのときいい手を指した。おれは強いんだ」と自分を励ますより、「おれは運がいいんだ」と己の星を信じる方がずっとプラスになる。おめでとう。  屋敷少年を見ていて気がかりなことがあった。仲間との付き合いがほとんどないのである。奨励会員とは遊ぶらしいが、四段以上の若手棋士と談笑しているのを見たことがない。  将棋会館の棋士控え室は、対局室入口にあるカウンターの横を入った奥にあるが、そこは十二畳の和室で、ベテラン棋士が寝そべっていたりする気楽な所だ。しかし奥の間だからなれぬ者には入りにくい。屋敷少年がカウンターで少年達としゃべっているのを見かけるが、めったに中に入ってこない。若手棋士がなにか話しかけて中に誘う、ということもない。妙に疎外《そがい》されている気配がある。小中学校で、クラスに一人や二人はそんな子がいるのと同じである。  日常、将棋会館内で顔が合えば、笑顔できちんとあいさつできるし、感想戦でも生意気なことは言わない。「ええ」とか「はあ」とかばかりで記者泣かせだが、それだって相手に気を遣っているからなのだ。  そんな人柄だから、憎まれたり、恨まれたりはしない。ではなぜ年上の仲間達となじまないかといえば、内気なのと、将棋の内容、勝ち方のせいだろう。 「お化け屋敷」と言われるが、これは姓名との語呂《ごろ》合わせで、本当は「忍者屋敷」がふさわしい。とにかく素ばしっこく、見えないところから襲ってくる。駒組《こまぐみ》途中のなにげない手順を運んでいるときの、ちょっとしたすきをすかさずとがめる。それは動物的な嗅覚《きゆうかく》というべきものである。仕掛けるときも、考えるわけでなく、さっと指す。正統派の代表である森下卓《たく》六段が屋敷の将棋を見て、しょっちゅう呟《つぶや》いている。 「考えずに楽に勝てるんだから羨《うらやま》しいな」  と。そしてかならずつけくわえる。 「あの将棋を強いと思いますか」  思いはみんな同じだろう。屋敷に負かされても、正面から力で圧倒されたのでなく、自分のちょっとした不注意のせいと思っている。つまり、内心で屋敷の強さを認めたがらないのである。羽生と屋敷のどちらが強いか、棋士はだれも答えたがらない。  ともかく屋敷はタイトル保持者になった。将棋界は勝った者が偉いのだから、空気も随分変るだろう。新人類棋士の感覚を超えた屋敷少年が、どんな大人になって行くか興味深い。それにしても、羽生と屋敷の勝負を早く見たいものだ。  棋聖戦と並行して、王位戦七番勝負が戦われている。  谷川王位対佐藤(康)五段。第二局を終って一勝一敗だが、佐藤の評判がすこぶるよい。第一局は完勝だし、第二局も勝負は負けたが読み勝っていた。寄せで時間がないため誤ったのである。もっとも、時間については、使ったのは自分だから言い訳はできない。  中原の調子が急下降したように、谷川も急上昇するかも知れず、佐藤が勝つとは断言できないが、情勢はもう一人新人類棋士からタイトル保持者が生れそうである。  佐藤こそ、エリートという表現がぴったりである。自然に主流派の中心にいる。  無駄な口を利《き》かず、はしゃいだりすることもないが、みんなの目を引きつけている感じがある。それでいて気さくな面もあり、先輩がコーヒーを飲みたいと言えば、いやな顔をせず自動販売機へ行く。継ぎ盤で研究していて、どう進んだか見て来てくれ、と頼まれれば、対局室へ行って、五、六局分の手順を憶《おぼ》え、伝えてくれる。それもチラッと見るだけだから、たいした記憶力だ。きっとIQも相当高いのだろう。  余談になるが、棋士の知能指数はだいたい高い。百三十とか四十はざらで、森(〓)や真部《まなべ》一男のように、百八十というのもいる。それを聞いた故板谷進が「それは血圧の話か」とからかったのも懐《なつか》しい思い出だ。  羽生が竜王になったのは昨年暮。以来、新人類棋士達は鳴りをひそめていたが、屋敷の活躍をきっかけに、また暴れ出しそうである。新四段組の、丸山忠久《ただひさ》と郷田真隆も強いし、先崎も勝ちまくっている。中年棋士達もかなり意識しているらしく、かなりきついことを言うようになった。  先日、加藤(一)と先崎の対戦を見ていたら、敗勢になった加藤は「我が才能をもってすればなんとかなるはずだ」とブツブツ言い、投げるときは「ほほう、さすがによく読んでいる」と捨てぜりふみたいなことを言った。  また、田中(寅)は丸山にやられたが、全部受けられて手も足も出なかった。田中はアツくなって、感想戦を五時間もつづけたそうである。この丸山は、早大在学中というのも変っているが、部屋にテレビがなく本も読まないという。きっとタイトルを取るから名を覚えておくと楽しみだろう。  いままで、新人類棋士は強いと言いつつも、ベテラン連にはどことなく余裕があった。今はそれがない。若返りは加速度がついたようである。 一九九〇年度 升田逝《ゆ》き、大山死線をしのぐ  A級陥落(落ちれば引退)のピンチに立たされた大山康晴十五世名人は、対内藤戦、対青野戦で、勝負将棋の真髄を見せた。このときの逆転勝ちは今も語り草になっている。  その頃(一九九一年四月)、実力制第四代名人・升田幸三はひっそりと亡《な》くなった。享年《きようねん》七十三歳。棋士の通夜《つや》、葬式への出席を断った。  名人・中原誠 竜王・谷川浩司   大勝負直前の一週間  石田和雄八段が、竜王戦の決勝三番勝負まで勝ち進んでいる。  彼は現在B級1組所属で四十三歳。五十四年にA級に昇ったが三年で落ち、以来ずっと現位置にいる。その間、カムバックしそうになったり、逆に落ちそうになったりと、いろいろあったが、だいたい成績は安定していて、B級1組の「格」の棋士、相撲でいえば、前頭上位と小結を行ったり来たり、といった感じである。  それが突然、関脇《せきわけ》大関を飛び越して、横綱になるチャンスをつかみかけている。もし、谷川との三番勝負に勝ち、さらに竜王羽生に挑戦して勝てば、一気に棋界最高の地位に上れる。  率直に言って、ここまで勝ったのは番狂わせ。だれもこうなるとは思ってなかったし、当人も同じなはずだ。今回は理由あって、石田についてのあれこれを書くことにする。  それにしても、幸運というものはどこにあるかわからぬものだ。石田についていえば、生活環境、体調は変らないし、特別な勉強をしたわけでもない。いつもと同じように、勝てばよし、負けてもしようがない、の気持で指していた。昔の升田、大山。そして中原、米長。さらに谷川、羽生と、第一人者になるべく運命づけられた者は、一年一年が勝負で、時間と戦っていた。大部分の棋士にはそういった使命感がない。若いころはあっても年とともに失ってしまっている。一年を終って現状維持ならまずまずと思っているのである。  それがあるとき、一番勝ち、二番勝ちすると、ひょっとしたらの希望が生じる。石田は竜王戦では三組(上から三番目)にいるが、まず一勝して現位置の権利を取り、第一目標を達成。以後勝てば得する対局がつづいて三組で優勝。高額賞金を得て、これだけでも御の字だったろう。事実、仲間に「一山当てたね」と言われると、「運がよかっただけですよ」なんて照れていた。これが、屋敷や佐藤(康)が優勝したのなら、だれも「お目出度《めでと》う」を言わない。  レベルが上って、次は、一組から六組までの優勝者と成績上位者十六名による本戦トーナメントになるが、石田は有森五段を破ってベストエイト進出。こうなると夢はいよいよふくらんだ。しかし、まだ負けてもともとの気持はあったろう。準々決勝の相手は中原。ほぼ同期生で、長年にわたって差をつけられ、コンプレックスをいだいているから。  その対中原戦は、中盤では石田が不利だった。そこで、破れかぶれの大技をかけたら、見事決って大逆転勝ち。ここでは、コンプレックスがいい方に作用した。開き直れたのは、勝てぬ相手と思っていたからこそで、格下の勝てる相手と思っていれば、長引かせようとして、ジリ貧負けになっていたはずだ。  勝った後の感想戦では、喜びをかくすことができず、笑い出しただけでなく、「私のような者がハンブルクまで行って、いいんですかねえ」と口ばしり、中原をくさらせた。竜王戦七番勝負の第一局は、ハンブルクで行われることが決っている。石田は、挑戦者になった気でいた。そういう好人物だから、今までタイトルに縁がなかったのである。大山や羽生なら「まだ先のことは考えていません」という顔をしただろう。  こうして準決勝に進み、相手は福崎八段。ここがまた一つのステップである。上れば、対局料がアップし、二番ないし三番指せる。負ければ、中原、有森に勝った星が生きない、ということにもなる。  対中原戦の帰り道、「福崎君も強いけれど、序盤がちょっと甘いから」と、もう作戦を考えはじめていた。  もくろみ通り、序盤から石田がリードし中盤では優勢。観戦していた仲間達は「よくなるとふるえる弱みがあるから、どうかな」などと心配していたが、この日の石田はいつもとちがった。盤にしがみついているのでなく、しばしば別室での対局を覗《のぞ》き、「私はボヤくけど、本当は不幸な人間と思っていませんよ。むしろ成功したと思っています」なんて言っていたそうで、ハイになっていたのだ。将棋指しは、躁鬱病《そううつびよう》でなくとも躁状態になることがあり、それはよい兆候なのである。  そうして完璧《かんぺき》に指し回し、石田の勝ちが決った場面が第1図。もう一手指せば福崎が投げるだろうと、関係者や仲間達がモニターテレビの画面を見つめていた。  数分たって、銀をつまんだ石田の指がのび、盤面の7七へ打ちそうになった。控え室のプロが、アッ! といったとたん、手がさっと引っ込んだ。プロ達は「今、大ポカをやるところだったね」とうなずきあった。  第1図からの指し手。 9七銀 7七玉 8八龍《りゆう》(投了図)  まで、石田八段の勝ち。  記録係にたしかめると「たしかに7七銀と打ちそうになりましたよ」と証言した。  ただ、駒《こま》が盤にふれたわけでないから、待った、の問題はない。無我の境地、手が反射的に動いていただけなのだ。言うまでもなく、7七銀は同玉と取られ、先手玉は詰まないから石田が負ける。手を引っ込めた瞬間、我に返り照れくさくなったのか、「気取る必要もないのか。平凡に行こう」と呟《つぶや》いて9七銀と打ったそうである。  投了図以下は、説明の必要もない、やさしい詰みだ。  終ると石田は「自然に勝ちが転り込んでくる。ボクには棋神がついているようだ」  前にうなだれている福崎がいるのを忘れてはしゃいだが、とすれば、あの7七へ打ちおろそうとした手をとどめたのは神の手だったか。神がかりは誰にもあることで、口には出さねど、将棋指しという商売は、けっこう危ない橋を渡っているのである。  十年も昔のことになるが、対局が終ったある深夜、石田・森(〓)・桐山・森安秀光といったほぼ同世代が集まって酒を飲んだ。森が大きな勝負に負けたので「家に帰るとカアチャンに叱《しか》られる」と泣きを入れたが、やがて誰ともなく「一度でいいから名人になりたいなあ」の声が出た。すると石田は、「みんな挑戦者になっただけでもいいよ」  情けない声だったのを今も憶《おぼ》えている。  将棋界で同期とは、奨励会を卒業した年が同じということで、石田は四十二年春、勝浦修現九段と共に四段になった。この近辺の四十年に中原、四十一年桐山、四十三年森(〓)、森安(秀)と、後年タイトルを取る好素材が輩出したが、石田は実績で一歩おくれをとっていた。今は同期生達も勢いを失ってみなB級に落ちている。  余談になるが、四十二歳は男の厄年といわれる。これが棋士にはぴったり当てはまり、四十歳から四十五歳にかけて、一時的だが力が急激に落ちる。米長しかり、大内延介《のぶゆき》、板谷またしかりで、A級からB級2組まで実力以上に下った。米長はA級を維持しているが四冠すべてを失った。森や桐山、勝浦等もこれを見ているから用心していたらしいが、やはり落ちた。唯一《ゆいいつ》頑張っているのは中原で、体力、気力が人並以上なのである。  石田にはその危険な時期に、かえって幸運が訪れようとしている。これこそ一生に一度、逃したら第一人者になるチャンスなど二度と来ないだろう。  そういった大勝負を前にして、棋士の心理は不安がいっぱいである。ファンから激励の言葉があり、手紙も来れば電話もかかって来る。そのうち、竜王になったら、の楽しい想像はなくなり,ただただ勝ちたい、の強迫観念にとりつかれる。考える範囲が狭まり、どんな戦法がよいかを考える。  石田の場合は、棋風、性格からして、自分の力を出せる得意な戦型で指そう、と思っているはずだ。盤を持ち出し、いろいろやってみるが、そう簡単によくなる順は見つからない。考えるほどに勝てる気がしなくなってくる。一方でオレはツイているんだの意識があり、相反する気持が交り合って精神状態はわるくなるばかり。対局日の二日前ぐらいはドン底となる。  多分、石田はそんな日々を送ったと思う。それはまずいようだが、そうでない。疲れ切ってしまえば、当日は恐《こわ》いものなしで盤に向えるのである。  不安にたえきれず、酒、女、博打《ばくち》で気をまぎらせたりすれば、当日、ふるえがきて力を発揮できない。  勝って大きなものを得る石田は、嫌な日々を送っていても仕合せ者である。時には勝ってもともと、負けるとひどい勝負をしなければならないときもある。そこでは、日頃の気持のありようが、さらにきっちり表れるような気がする。不調になれば将棋を忘れようとする。しかし、負けても負けても将棋を考え続ける者もいる。中原がその典型で、だから今も名人なのである。  前に、どんな棋士にも思わぬチャンスが転り込むものだと言ったが、将棋一筋の者がやはり強い。  転じて、石田と対戦する谷川はどうかといえば、こちらも将棋ばかり考えている。  名人位を失ってから、急に調子が上向き、王位戦はあと一勝で防衛。順位戦は対大山戦で必敗の将棋を拾ったりして二連勝。王座戦も挑戦者になり、中原との五番勝負第一局で勝ち、という絶好調ぶりである。  これだけ勝っていると、連日対局に追われ、目先の対戦だけに気を取られて、先のことを考える余裕がない。石田との三番勝負も、連戦の中での一局でしかなく、まして、一生に一度っきりの意識はない。今期竜王になり損ねても、この先チャンスはいくらでもあるだろう。そういった意味で、石田とは「格」がちがうのである。  しかし、今度ばかりは石田に勝たせてやりたい。  実をいえば、私が奨励会を卒業したのは四十一年秋。石田とは一まわり年がちがうが同期生なのである。彼は二流、私は四流、格がちがっても、彼が勝てば励まされる。元気のない同期生達も、同じく声援を送っているだろう。  思い返せば、将棋界もきびしいところがある。正会員を増やさぬよう、四段昇級を極力抑えている。今は年四人だが、私のころは年三人だった。理事会がつけた理屈は、必要なのは名人になる素質のある者だけで、B級どまりの棋士はいらない、であった。そうして三段同士を戦わせ、しぼりにしぼったから、前に書いたごとく、ほとんどの者が、A級に上り、タイトルを取った。それでも私のような落ちこぼれが出る。A級まで上れる者は、ほんの一握りなのである。   谷川が変った  残念ながら石田は勝てなかった。  谷川王位が石田八段を破り、竜王挑戦者になった、と書くべきだが、あえて石田が敗れたと言いたい。  その対戦から一週間ぐらいたって、C級1組順位戦が戦われている対局室に石田が顔を見せた。夜戦に入り、室内が緊迫しはじめたころだった。  凄味《すごみ》のある顔で考えていた高島弘光《ひろみつ》八段が、石田を見てそばに行き、 「どうや、わしの言うた通りやろ。君の将棋で竜王は無理や」  石田は「そうだったね」と頭へ手をやり逃げるように丸田祐三《ゆうぞう》九段と戦っている私の傍に来て座った。すかさず丸田が、 「ありゃ一生に一度のチャンスだったのにねえ」  表情豊かに言うと、となりで対局していた沼春雄五段が、「キ、キツーイお言葉」とおどけた。 「いやいや、ほんと、その通りですよ」  石田は笑って手を振った。対局室の会話だからそれで終ったが、石田がいかに仲間に好かれているかが判《わか》る。共に口惜《く や》しがっているから、そんなことが言えるのであり、でなかったら喧嘩《けんか》になる。  くり返すが、名人、竜王は、みんながその地位にふさわしい男、と認めないとなれない。そういう伝統がある。石田のように長い間この世界に棲《す》んでいると、その考え方が身にしみ込んでいて、自分は竜王の格ではない、の思いが心のどこかにあった。  負けたと、残念がりはしたものの「ここまでよく勝てた」と、意外に明るかったそうである。  そんなところに石田の限界があったか。名人、竜王になれると信じている者が負けたとすれば、仲間はなにも言わない。佐藤康光五段はタイトルを取り損ねたが、「惜しかったね」と慰めた者はいなかったろう。ファンはともかく、プロ棋士は知らん顔をしている。  将棋の世界では、自分を甘やかす者、言い訳を用意している者は、長い目でみると勝てない。石田も、いいところまで行ったのだから、これからは、自分が強いからだ、竜王になれる、の心意気で出直してもらいたい。  第1図は石田の運命の棋譜。形勢はどちらとも言えぬが、盤上の駒《こま》の配置に格調の高さが感じられる。両者本筋の手を指すとこういう形になる。  第1図からの指し手。 6四角 7三角 7二飛 7四歩《ふ》 7三飛 同歩成 7六歩(第2図)  谷川の打った6四角が名手と言われる。先手の攻め駒の桂《けい》二枚の取りを見せつつ、玉の上部脱出に備えている。  石田は第1図で、3六歩2五桂3七角と飛車桂両取りにきびしく攻められるのを心配していただろう。3七桂と指したのだから、対策は用意してあったはずだが、そこで、6四角と読みを外されて慌《あわ》てた。一見緩そうな手だけに、ピンと来るものがある。  やはりおれより強いのか。いやその気配をさとられてはいかん。心は揺れ、反射的によさそうに見える手に飛びついた。それが7三角である。7三同角なら、同と6四角6三と、でこれは先手がうまい。  とたんに7二飛が来た。  この一戦は大阪で行われたので、私は東京の将棋会館にいて、若手棋士達と同時中継で見ていたが、7二飛が伝えられたとき「アッ! 食った」「ひどい」の声が上がりみんな継ぎ盤をはなれた。  7二飛に対し、6四角成は、7八飛成がある。で、7四歩とつないだが、7三飛と角を取られ、遊んでいた飛車と石田の駒台にあった角との交換になってしまった。  6四角、7二飛は谷川らしい斬《き》れ味のよさだが、逆に言えば、こういう手が生じたところに、石田の運命が見える。  その後の7六歩も好手で、先手玉の逃げ道をふさいでいる。第2図以下、石田は粘ったが、どうしても一手足りなかった。  余談になるが、さっきの対局室の話で、沼の笑い声で対局室の緊張がとけたとき、私は反射的に沼と対戦している屋敷を見た。彼も眼をなごませて石田を見たが、それも一瞬のことで、すぐ盤上に集中した。  やっぱり、気力と体力がちがうな、と思った。  将棋をよく知らない人に、プロ将棋の話をして、いちばん驚かれるのは、対局時間の長さである。朝十時から始めて終るのは真夜中です、と言えば、よく考えられるものだと呆《あき》れられる。  考えるのが商売だからそのくらいのことは出来て当然だが、そうは言っても年をとれば根《こん》がうすれてくる。つまり、考えてるふりをして適当に手を抜く。序盤から中盤にかけては、見当で指している部分もあるし、相手が長考しているときは、別の部屋で横になっていたりする。体力を貯《たくわ》えて夜中の秒読みに備えるわけだ。  しかし、本当は盤からはなれない方がよい。相手にプレッシャーをかけつづけられるからである。羽生はもちろん、高橋、南など三十歳から下の強い棋士は、みんなじっと座って動かない。そればかりか、将棋のことだけを考えていられる。屋敷棋聖もそういうタイプなのである。  若くても、性格的にじっとしていられず、早指しの棋士もいるが、才は感じられても重厚さがなく、大成はしない。  また、加藤(一)、桐山その他ベテランになっても、盤の前からはなれぬ人もいるが、なんとなく迫力がうすれてきた。同じ相手と長期間戦いつづける将棋界は、あらゆる変りようを敏感にさとられてしまう。だから落ち目になると恐ろしい。    さて、今回の主役は谷川浩司である。  竜王戦の挑戦者になった他に、王位戦は四勝三敗で佐藤康光五段を退けてタイトル防衛。王座戦では、三勝一敗で中原名人から王座を奪った。これで名人戦の損を半分くらい取り返したことになる。  とにかく、名人位をすべってからは人が変ったように勝ちだした。主な戦績を記せば、七月十六日、塚田八段に勝ってから七連勝。八月になって、佐藤に敗れ連勝は止ったが、また勝ちはじめて五連勝。この間は一日おきに対局という強行軍だった。  これでは誰だってバテる。九月に入って勝浦九段、佐藤、中原に三連敗した。このうち、対佐藤、対中原戦はタイトル戦で、九月十日、十一日の両日、神奈川県の「陣屋」で佐藤と戦い、十二日に兵庫県の有馬温泉に移動して中原と戦った。  有馬での対局を見た淡路仁茂《あわじひとしげ》八段は、「谷川さんはヨレヨレになっている。あの日程はきつすぎるで」と言っていたが、関係者はみんな、谷川はこのまま潰《つぶ》れてしまう、と思った。  過密スケジュールはこの後もつづく。三日後、高松に転戦して高橋と対戦。公開対局で、比較的気楽に戦える棋戦だったが、ともかく勝った。そして二日後、大阪に戻って石田と竜王戦決勝第二局を戦った。それが紹介した将棋である。  結果から見て、あの7二飛によって谷川は死線を越えた。王位戦、王座戦も勝ちたいが、これと狙《ねら》っていたのは、羽生への挑戦だったろう。その目的を達してホッとした。  二日後に王位戦最終局を勝ち、さらに山形に飛んで、王座戦第三局を勝ちと、すっかり勢いづき、王座を奪い、順位戦でも青野八段を破り、三連勝。内藤九段と並んでいる。  まとめると、七月から九月末日までに二十三戦して十八勝五敗である。ひところの羽生を思わせる勝ちっぷりだが、谷川はトップクラスを相手にしての星だから値打ちがある。  もともと谷川は波が大きく、鋭さともろさが同居していた。だが、今は違う。どこが変ったのか。  淡路のように、周囲は谷川に同情した。棋士は弱いもので、負けるとそれに甘えてしまうところがある。升田がよい例で「カゼを引いた」「寒いところで指さされた」「宿が気にいらない」「嫌なヤツがいる」はては「相手の態度が気にくわない」。そんなことばかり言っていた。幼児がダダをコネるのと同じだ。それを関係者があやすものだから、そのせいで負けた、となってしまう。  升田は将棋史上最高の批評家であり、知性的な人である。なぜ負けたかは判っていて、自分を甘やかす弱さがあった。大山はまったく反対。若いころ、嫌な目にあったことは升田より多かったはずだが、不利な条件に黙って耐え、帝王になってからも、こと対局に関しては我がままがすくなかった。今度の谷川みたいなことは度々あったが、「対局の多いのは棋士冥利《みようり》につきます」と笑っていた。「おれを殺す気か」と言う升田と、そこの違いが生涯勝率の差となったのである。  読んだり聞いたりしたところでは、谷川は一言もグチをこぼさなかった。自分に甘えを許さなかった。だから早く立ち直れ、さらに勝ち進んでいる。一皮むけたとか、一回り大きくなったとか、人は簡単に褒めるが、勝負師はすこしばかりの経験で強くなるものではない。しかし、谷川のどこかが変ったことは確かである。  それにしても石田はたいへんな塩を贈った。棋士には、勝星がなによりの疲労回復薬で、もし、あそこで谷川が負けていたらどうなったか判らない。第1図は、二人にとって忘れられない局面になるだろう。  こうして、羽生竜王対谷川王位の七番勝負が始まる。これこそ実力日本一決定戦である。昔、芹沢は、一人に抜かれたのなら抜き返せるが、二人に抜かれたらお終《しま》い、と言っていた。名人に戻った中原も、考えてみれば谷川一人に抜かれただけで、二人に抜かれていない。といっても、一人に抜かれるのも嫌なものだろう。盛りをすぎたことを証明するようなものだから。  谷川について言えば、まだ誰にも抜かれていない。羽生との対戦成績はわるいが、超短時間のNHK杯戦と、持ち時間三時間の全日本プロトーナメントであり、六時間以上の対局での勝負づけは済んでいない。今は、後方から追いつかれ、並ばれた、といったところである。  竜王戦は二日制で持ち時間各九時間という本勝負。ここで負けたら言い訳はきかない。谷川は負けられないが、一方の羽生も初防衛に失敗すれば、なんだ、と言われかねない。奪い、守って、はじめてタイトル保持者と認められるからである。   大山のバネ  大山康晴十五世名人が文化功労者に選ばれた。  一昔前ならば、棋士の社会的地位が向上した、という言い方で喜ばれたろうが、今はそんな肩肘《かたひじ》張った感じはなくなった。いずれにせよ、将棋史に残る慶事である。  と書いて、つむじを曲げるわけではないが、最近大山語録をあちこちで読むと、それ等は味わい深く、経験の重みを感じさせられる。しかし、かえって大山の真価が見誤られるような気がする。  五味康《やすすけ》さんの表現を借りれば、「勝った負けたがその儘《まま》その男の価値に換算される」そういう世界を大山は生き抜いて来た人である。勝ちつづけただけでなく、ガンを克服し、六十七歳の今もA級というトップの地位を維持しているところに凄《すご》さがある。  栃錦《とちにしき》、若乃花が今も三役で相撲を取っているようなものだ。スポーツと知能ゲームを同列に比べるのはムチャだが、このたとえはそんなに間違っていないと思う。  塚田正夫(実力制第二代名人)は「勝つのは偉いことだ」と喝破した。将棋界は、この一言がすべてなのである。だから大山の偉大さを言うなら、なぜ勝ったかを理解しなければならない。勝ち星の数が多いからこその、教訓的語録なのである。  私は何十年もの間、大山の強さについて考えつづけて来た。三年前に死んでしまった芹沢九段は、大山に軽蔑《けいべつ》され、芹沢もまた反抗したが、それでも、大山の強さを心底認めていた。それについて二人でよく語り合ったものだが、大山という器が大きすぎて、全体が見えなかった。大山康晴論を書きたいと思い、芹沢も「早くしろ、大山名人が現役でいるうちに書き上げろ」と励ましてくれたが、未《いま》だに手をつけられないでいる。折りにふれて、エピソードを紹介することしか出来ない。今回も、その一つである。  五味康さんの「勝負師の栄光と哀歓」というエッセイの中に、大山が戦前、七段になりそこねたいきさつが語られている。  孫引きになるが、大山の自著『将棋一路』からかいつまんで説明すると——。  昭和十九年四月、大山六段に召集令状が来た。そのとき大山の成績は十勝二敗。あと六勝すれば七段になれた。そこで大山は木見師匠に願い出て、出征までの間に六局指すことにしてもらった。棋士達も諒解《りようかい》して、希望通り六局指した。結果は四勝二敗、昇段できなかった。  これについて五味さんは、 「あの頃の出征兵士が、出発に当ってどれほど会社仲間や、町内や朋輩《ほうばい》から遠慮深く扱われ、甘やかされ『歓送』されて征《い》ったかを想《おも》うと、これはちょっとした咄《はなし》だろう。少々日頃は憎まれている者でも、出征となれば仰々しい送別会をしてもらい『お国の為《ため》』というので万歳で送られた——そういう狎《な》れ合いの美談に、庶民の叛骨《はんこつ》で本当に抵抗していたのは、当時、ここに書かれた棋士たちだけだったかも分らない。この一文を読んだとき、勝負師の根性というものを私は見たように思った」  と感想を述べている。  立派な見識だが、五味さんは棋士を買い被《かぶ》っている気がしないでもない。私には、当時の棋士に、狎れ合いの美談に叛骨精神で抵抗する根性があったとは思えない。将棋界は、昔も今も、体質的に狎れ合いを好む世界なのである。表現を変えれば、和を乱すことを嫌う。だから、死地に赴こうとしている者に、贈七段という話が出れば、全会一致で賛成となったろう。当時もそういう雰囲気だったはずである。指す時間があったから、贈るより成績を取って昇った方がよかろう、と対局させたのだ。相手の棋士だって意地わるする気はなかった。  そもそも、負かそうとして負かせる相手ではない。当時の大山の力は、後の全盛時と変らないくらいのものがあった。名人になるほどの者は、四、五段の頃からけた違いで、最近の羽生竜王、屋敷棋聖がその例である。  事情、実力、どこから見ても大山が六戦全勝して当り前だった。  想像だが、無意識のうちに、対局中、相手を小馬鹿《こばか》にしたような仕種《しぐさ》があったのだろう。そこで相手はカチンと来た。死んだふりをして一発蹴《け》とばした。それが急所に当って大山は負けたのだ。不意打ち、油断負けの見本である。  誰が負かしたのか知らないが、よほどのことがないかぎり、一回おどかしても、つまらぬことで恨まれては損だと思い直し、負けただろう。  まったく、どうして大山が負けたのか不思議でならない。いじめの構図に似たような事情でもあったのだろうか。もしそうだとすれば、大山は見事に立ち向ったことになる。媚《こ》びへつらうことなく毅然《きぜん》として反撥《はんぱつ》し、後日きっちりお返ししたのだから。  ともあれ、このとき大山は、人間にお人好《ひとよ》しはいない、勝負は甘いもんじゃない、の鉄則を心の奥底に叩《たた》き込んだのだろう。すなわち、敗戦を糧《かて》にした稀有《けう》の例なのである。  大山のこれまでの人生を通観すれば、逆境をバネにして上昇した、ということになろう。その第一歩が出征前のエピソードだった。  さて、さすがの大山も、勝負に対する辛さがうすれて来た。先日、依田有司五段と対戦しているのを見かけたが、昼すぎにあっさり負けていた。大山にすれば、順位戦以外の勝ち負けはさしたる問題でない。しかし勝てるものは、なんでも勝ってしまったものだった。そんな感じが今はない。  依田はC級2組所属。降級点を二回取り、今期も降級点だと順位戦出場資格を失う。にもかかわらず、一勝四敗と苦戦している。  そんな状態のとき、不世出の大名人と対戦できたことは大幸運だった。師匠が弟子に将棋を指してやるのは二度だけ、はよく知られた話である。一度は入門のとき、一度は見込みなしと国に帰すとき。大山と依田の対戦はそれに似ている。師弟でもなく特に親しくもないが、大山は依田の星を知っていただろう。細かいところによく気がつく人だから。わざと負けたわけでないが、力づけてやろうの気持はあったと思う。  依田は勝ったあと、涙ぐんだそうである。  まだ三十二歳の指し盛りであり、棋才もあるのに成績が上がらないのは、常識をわきまえた好人物だからである。勝ちまくっている若手棋士なら、このオジサンたいしたことない、と感激もしないだろう。  余談ついでに、これも孫引きだが、別のエピソードを紹介しておこう。 「二十一歳の私は、軍隊生活から何一つ得ることはなかった。私にプラスしたものと言っては、少々体が丈夫になったことぐらいであろう。一年半の奉仕にしては、あまりにも小さい収穫であった」(『将棋一路』)  面目躍如、というしかないが、これに対して五味さんはこう言うのである。 「軍隊生活で、一年半の奉仕に値する差引勘定の収穫がなければならないのに、それが無かった——というのである。『滅私奉公』を旨《むね》とした当時、死ぬ気で入隊した男が、体が丈夫になるという、人間最大の収穫を得て、まだ、何か損をした気持でいる。一年半の奉仕だから五万円くらいは儲《もう》かっていいというのだろうか。万事に計算だかいのは大山氏の特質かも分らないが、これも矢張りちょっとした根性である」  話を戻して、今の大山は、勝つことに対する執念がうすれた、とは思いたくないが、今期の出だしは三連敗である。降級すれば引退だろうから、ファンは息をつめて見守っている。私達も同じである。  順位戦の四回戦は、有吉道夫九段との対戦であった。有吉も三連敗と不調だから、これこそ真の「人生の棋譜」である。競《せ》り合っている相手を負かしての一勝は、二勝分の値打ちがある。負ければその逆で、相手を楽にしてしまう。  戦いは、大山が動きを誘い、有吉がそれに乗る展開になった。細かい味の手の応酬がつづき、有吉やや有利、が第1図の局面である。大山が7四歩《ふ》と桂頭《けいとう》に歩を打ち、有吉が6五桂と逃げたところ。  第1図からの指し手。 5一成銀 5七桂不成 7三歩成 6四飛 7四と 6九桂成 6四と 同 角(第2図)  手の流れからすれば7三歩成である。そう指したいのをこらえて、5一成銀と逆行した。7三歩成は6一飛で成銀取りになる、という理屈だが、それにしても5一成銀は、大山でなければ指せない手だ。並の棋士なら、7三歩成6一飛3九角と指し、4一飛なら6五飛の順を狙《ねら》う。こちらの方が、5一成銀より勝るのかも知れないが、勝負将棋では5一成銀の方が有効なのだろう。  5七桂不成以下は必然の手順。飛車の取り合いになって、形勢はやはり有吉やや優勢。第2図の5一の成銀が大山にあってつり合いがとれている。  第2図から有吉がうまく指し、この勝負、有吉が勝った。大阪で戦われたので観戦することが出来ず、一方的だったと聞いて、大山の根《こん》が尽きたのではないかと案じたが、棋譜をとりよせ、5一成銀と、深夜の十一時五十七分、残り時間八分になるまで戦ったのを知り、安心した。  とはいえ、四連敗は大変な逆境である。大山は真価を見せてくれるだろうか。  話題を変えて、新人類棋士達はあいかわらず勝っている。ただ羽生だけは冴《さ》えず、竜王戦は二連敗。これは谷川の出来がよすぎるせいだ。  それにしても将棋界は目まぐるしい。羽生、屋敷に気を取られていたら、もう次の新人が追い抜こうとしている。今年四段になった、丸山と郷田は負け知らずで、口のわるい先崎四段も「なんであんなに強いのか」と呆《あき》れていた。  丸山は早大生という異色の棋士だが、学校へは行かず、毎日早朝七時から、森下六段と指しているそうだ。森下は研究会に引っ張りだこで(強いから)、正午まで丸山と指し、その後二、三ケ所の研究会に顔を出していると聞く。これまた呆れた話だ。素直にそれほど勉強しているから強いのだ、と思うべきだろうが、なんとなく納得がいかない。黙々と指し、無駄口はほとんどきかない。せいぜい食事の注文のとき一言あるくらいのものである。表情も変えず、何を考えているのか判《わか》らない。形勢のよしあしについての判断を相手に知られないから、こういうのは得な性格だ。丸山の場合、ポーカーフェースとはちょっと雰囲気が違う。  もう一人の郷田は、これぞエリートの感じがするが、その割には奨励会が長く苦労した。しかし四段になるや、一気に花開き、棋聖戦で準決勝に勝ち進んでいる。真部八段のデビュー時代とそっくり。華やかで、棋聖になったりすればスターになる雰囲気がある。   羽生はなぜ敗れたか  羽生が負けた。  竜王戦七番勝負の第五局は谷川が勝ち、四勝一敗となって、谷川新竜王が誕生した。  この結果はまったく意外。私は羽生が防衛すると見ていたし、ましてこんな簡単に終るとは思いもしなかった。 「タイトルを取っただけでは半人前。防衛して、本当のタイトル保持者だ」  と言ったのは升田幸三。この人の全盛期は二年にすぎなかったが、その一年目に大山から三冠を奪い、二年目も全部防衛した。そのときのせりふである。升田の得意や思うべし。しかし言われてみればその通りかもしれない。羽生は一人前になれず、また出直すしかない。  なぜ羽生は敗れたか。  全五局の内容を見ると、谷川の技が明らかに上で、羽生は勝負所で読み負けていた。羽生らしさが出たのは、カド番をしのいだ第三局だけ、負けるべくして負けたといえる。  では、すくなくとも現在は谷川の方が強いかと言えば、そうでない。羽生は戦い方を誤ったのである。  谷川の将棋は本筋を追求する。両者が最善手を応酬し合うと想定し、その筋を深く読みきわめる。比類なき格調の高さは、そこから生れる。  羽生も最善と思われる手を読むが、それにとらわれない。仮りに自分が不利な局面になり、そこから最善手を指しつづけると僅《わず》かに負ける、と判《わか》ったとすれば、最善でない手を平気で指す。多くの棋士は、差がすくないほど逆転する率が高いと錯覚し、最善手をつづけて負けてしまう。ところが羽生は、経過より結末を重んじる。一点差も五点差も負けは負けと割り切って、どんな筋わるな手でも指す。プロ棋士にとって、知りつつ悪手を指すのは、最善手を指すよりはるかに難しい。それが出来るところに羽生の精神面のふてぶてしさがある。といっても、将棋術にかぎってで、日常の所作は、控え目でおとなしい好青年だ。  故人になった花村元司九段は、私のヘボを見かねて「飛車取りを食ったら逃げるな。その代りに銀をただで取られる手を指せ。相手は、どっちを取っても勝ち、と迷い、気も緩んで間違える」と教えてくれた。以来三十年、教訓は覚えているが、人のよい私は実行できないでいる。  花村は極端なことを言ったのだが、羽生も本来そういった感じの将棋を指していた。  それが竜王になって様子が変った。投げっぷりがよくなり、勝っても負けても、一点差の試合が多くなった。序盤を研究し、中盤でいい手を指そうと心がけ、その結果好手妙手がしばしば見られる。勝率八割のころは、内容に見るべきものはないが、しっかり勝っていた。すなわち、最高の位に上って、いい将棋を指さなければ、の意識を持ったのではないだろうか。  それは危険な兆候である。はたせるかな今期は出だし四連敗。その後調子を戻して竜王戦にのぞんだが、やはり一年前の姿ではなかった。タイトルを失ったことも重大だが、全体の勝率が落ちていることも問題だ。八割台から六割台への下落は、超一流から並の若手のレベルになったともいえる。情報を利用していた側から、情報を作り出す立場に回った弱みが出ている。  話を戻して、竜王戦の羽生の敗因は、谷川の土俵で戦ったことにある。  ゴルフでいえば、谷川は、バーディー、イーグルを数多く出すタイプである。コースや気象条件がよいほど力が出る。対して羽生は、ひねくれたレイアウトで、ラフが深く、グリーンはうねっており、パーをセーブするのがやっと、というコースで強い。  なのに羽生は、バーディーの取り合い、といった展開にしてしまった。そこには、竜王だから、の意識があった。結果は全部名局。その代り、実質を失った。  第1図は、第五局の最後の場面。羽生が2五角と龍《りゆう》金両取りに打ったところだが、もちろん、谷川は両取りがあるのを知っており、勝ちを読み切っていた。  羽生もすでに斬《き》られていると判っていた。衛星放送の生中継で、この場面を見た方もいらっしゃるだろうが、羽生は頭をかかえ、悲痛きわまりない顔であった。この角を打つとき、自らに負けを言い聞かせたのである。  その有様を見られたのは、テレビ時代の仕合わせというべきだが、投了のとき、画面が盤面を写していたのは大ミス。両対局者の表情を見そこなってしまった。  第1図からの指し手。 7一銀 9三玉 7二龍 7六金 同 玉 7五銀 6七玉 6六銀上 7八玉 6九角成 8九玉 まで、谷川王位の勝ち。  手の説明をしておくと、7一銀を同玉と取るのは、6一飛8二玉9一飛成同玉9二金同玉7二龍以下詰み。で、9三玉と逃げたが、7二龍で後手玉は必至。先手玉の方はきわどく詰まない。7六金から下段へ追い込まれ、手順に6九角成と金を取られては、普通なら助からないのだが、本局は8九玉で逃れていた。  実戦で第1図の局面になれば、私だって谷川と同じように指せる。肝心なのは、数十手前に第1図を想定して、自玉に詰みがない、の確信を持てるかどうかである。指し方はいくらでもあるから、第1図は危ない、と捨ててしまっただろう。谷川には、いや第1図は勝てるのひらめきがある。そこが天才なのである。  第1図にはエピソードがある。  この局面になったのは午後五時半ごろだが、将棋会館の棋士室の継ぎ盤には、二時間ぐらい前に第1図と同じ盤面が並べてあった。  中盤の戦いがはじまってから、両者最善と思われる手を指し進めると、第1図になる。プロの考えは似たようなものだから、ここまでは数分で読める。みんなの第一感は、第1図は後手玉に詰みがなく、先手玉は詰みがあるから、手番でも谷川が負け、であった。ところが念のためにとやってみると、谷川玉は詰まない。でも、怖いからこうは指さないだろう、と思っていた。  しかし、第1図は実現した。羽生は、僅差《きんさ》ながら負け、と知っていながら、その僅差にすがったのである。棋士室の誰かが、2五角では7四角だろう、と言った。それも羽生が負けだ。大差の負けになる。しかし、逆転の可能性は、7四角の方があった。第1図は、きわどいが故《ゆえ》に、先手側は誤らないのである。  今春、谷川は中原に名人位を奪われた。中原の勝因は、自分の土俵に谷川を乗せた点にあった。華麗な一手ちがい、という展開でなく、不利になったら入玉を目指す指し方をした。羽生もそれを見習えばよかった。  羽生の遊び仲間の先崎は「谷川さんの最盛期に当った羽生君は運がわるい」と言う。  私は、二十一歳で史上最年少の名人になったころの方が強いと思っているが、最近の勝ちっぷりを見ていると、先崎説もうなずける。  つい先日も、谷川の将棋を見ていて感動させられた。それは第2図の場面での指し方だった。  第2図はA級順位戦の、谷川竜王対真部八段戦で、真部が6一飛と金取りに打ち込んだところ。  例によって棋士室の予想をいえば、金取りだから、谷川は5二銀と受ける。すると、6四飛成5四歩《ふ》。次どう指すか、先のことばかり考えていた。つまり、金を取らせてどうか、という発想が浮ばなかったのである。  第2図からの指し手。 4六馬 4一飛成 4三桂《けい》  以下谷川竜王の勝ち。  奇《く》しくも第1図と同じく、王手で金を取らせる手である。常識ではあり得ない手を谷川は見せてくれた。  4六馬が解説不能の名手。この一手で真部玉は受けなしになっている。だから、4一飛成と取られても、4三桂と受けて勝ちなのだ。  理由を、例えば、4三桂の次、3七銀と受けても、2四歩……といった調子で書けば、二頁《ページ》はたっぷりいる。それほどの変化を一瞬で読み切るのは感嘆するしかない才能で、先崎の言いぐさじゃないが、並の棋士より大駒《おおごま》一枚強い。まるで、太刀先紙一重を見切って踏み込む剣豪のようではないか。  スレスレの線を行くのは升田も同じで、こちらは剣豪らしい風貌《ふうぼう》、豪快な手つきだが、谷川は首を傾《かし》げ、頼りなげな手つきで指すから、かえって凄味《すごみ》がある。大向う受けを意識して指すのと、知らず4六馬を選ぶのとの違いともいえる。  ただ、天才にしても4六馬は会心の一手だったらしく、局後、感心して見せたら「5二銀はあやしいんですよ」と、嬉《うれ》しそうに言った。  これで谷川はA級順位戦五勝一敗となり、米長、内藤の四勝一敗より一歩先んじた。最終戦で、米長と内藤が当っているから、組み合わせでも有利。名人になれば、本当の第一人者だ。  負けた真部は六連敗。A級残留は絶望的となった。痛ましいほどのスランプで、今期は通算成績でも二勝しただけである。少年時代から才能を認められ、ミス東京の草柳文恵さんと結婚するなど、華やかな話題をまいた。その後、首が回らなくなり(病気で原因不明)、そして離婚。棋士のなかでは人生の苦労を知っている方だが、それにしても、負けた後の「このごろは酒が弱くなった」には哀切なひびきがあった。  大山も将棋を指すことに疲れてきたようだ。今期は順位戦五連敗。A級残留には、四局で三勝一敗の星が必要だから苦しい。将棋史上特筆大書さるべき瞬間が近づきつつある。  疲れといえば、羽生の敗因の一つに、対人関係の疲れもあっただろう。竜王になったら、将棋だけ指していればいい、では済まなくなった。世間の大人との付き合いで嫌な思いをしたとは想像できないが、会っているだけで気疲れしたのかもしれない。  昨今の若手棋士達を見ていると、人生経験がマイナスになるような気がしてならない。谷川も羽生も、人柄、地位からして喧嘩《けんか》を知らないで過してきただろうが、いずれ経験する。さらにきびしい男女関係を知ったら、将棋はどうなるだろう。いらぬお節介だが、なにやら心配になってくる。   大山が笑った  今年の将棋界はどうなるか。  内部事情はほとんど変らないだろう。大山会長から二上達也会長に代って二年。今年は会長、理事の改選期だが、誰かが代るとか、大山が復帰する、といった話はまだ出ていない。  多くの棋士は、人事、将棋界のGNPと将棋人口の減少、制度の改正などなどの問題に無関心である。いや、関心があっても手の打ちようがないのだ。ひたすら、我が身の既得権を確保しようとする。かくして、将棋連盟は、格別の変化もなく、時の流れに身をまかせているだけ、の有様が今年もつづく。  一方、だれがタイトルを取るか、といったファンの目にふれる部分は、めまぐるしく代るだろう。今期の名人は? 竜王は? の予想はまったくつかない。いつも書くように、本当に強いのは誰か判《わか》らないのである。さしあたっては谷川が最強だが、いつ調子を崩すか判らない。  そんなことより、もっとも注目されているのは大山の星である。なにしろ、引退がかかっている。  ここ数年、順位戦が始まる前の話題は、大山は助かるだろうか、であった。挑戦者はだれか? ならともかく、陥落の話だから、だれもおおっぴらに言わないだけだ。  危ないと言われながら、毎年しのいできたが、年々、苦しさがつのっている。やむを得ないこととはいえ、衰えはかくせないのである。  特に今年は苦しい。順位戦は五連敗。さらに他の棋戦でも勝てず、通算でわずかに五勝しただけである。いくら順位戦だけは本腰を入れるといっても、そううまく行くものでなく、全体的に勝っていないと、順位戦も勝てない。  将棋に執念が感じられず、文化功労者に選ばれて、功成り名遂げたの想《おも》いが生じたかとも思われた。  そういえば、孫のような若手棋士にも気を遣い、地方にいっしょに行ったとき、さりげなく土産を持たせたそうだ。また、林葉直子さん(女流王将)に「オジサン、カワユイーッ」と言われてニコニコしていたとも聞く。  私には、その光景を想像できない。あの近づき難く、怖い大山はどこへ行ったのか、と言いたくなる。大山の将棋から人間的な威圧感を引けば、並の棋士とかわらない。今期はいかん、私だけでなく、みんなそう思っていた。  五連敗して、次の相手は南棋王。よりによって大の苦手と当った。もし負ければ、もう絶望的である。  ここで六回戦までのA級の成績を書いておくと、  順位一位から、谷川五勝一敗、高橋二勝四敗、米長五勝一敗、内藤四勝一敗、大山五敗、青野二勝四敗、塚田三勝二敗、南四勝一敗、有吉三勝三敗、真部六敗。  このうち成績下位の二名が落ちるが、真部は最下位だから、残り三局を全部勝っても助かる確率はすくない。  最近、真部と親しい鈴木輝彦《てるひこ》七段に聞いたのだが、真部の、首が動かなくなる病気は、正体不明のなにかが、首の筋肉をゆっくり時間をかけて、しめ上げているそうだ。これが本当の「真綿で首」だなんていうのは悪いしゃれだ。ちょっと寝ちがえただけでも、うっとうしくてかなわないのに、それがずっと続くとは、考えただけでやり切れなくなる。疲れて横になると、一人では起き上がることもままならない。長時間の対局は辛《つら》いに決っているが、真部は一言も泣きを入れない。それほどプライドが高い男なのである。 「勝負! と手術するしかないんでしょうが、リハビリに数年かかるっていうし、真部さんでは耐えられないだろうな」  鈴木はそう言ってうなだれた。手術することをすすめれば、「酒が飲めなくなるなら、生きていてもしようがない」、真部はきっと芹沢と同じことを言うはずだ。  大山なら、助かる道は手術しかない、と判れば平然と立ち向うだろう。そういった面での克己心は並はずれている。  そんな事情を知って、前回の谷川対真部戦を思い浮べると、一種の感動をおぼえる。あの見事な斬《き》られっぷりは、まさしく「人生の棋譜 この一局」であった。  話を戻して、A級陥落は、あと一人が問題ということになる。大山の競争相手は青野しかいないが、残り三局で、すくなくとも一勝はすると見なければならず、大山が残るためには三勝が最低必要である。南戦を入れて残りは四局。苦境は説明するまでもない。  大山・南戦は、暮の二十一日に行われた。  午後、私が将棋会館に顔を出すと、さっそく石田八段が来て、 「今日の大山先生はちがいますよ。口をきかないし、盤の前から離れない。いつもだと、顔を合わせれば一言二言話しかけるんだがな」  と伝えてくれた。  形勢は大山の作戦勝ちで指しやすい。中盤もうまくさばいて、ますます有利になった。野球でいえば、五回を終って三対一とリード、といった感じだ。しかし、勝負将棋では、そのくらいの有利さが、いちばん始末がわるい。勝ちを意識して、気持が揺れ動くからである。全盛時の、つまり勝つことになれている大山だったら、リードを確実に広げることも出来た。今はめったに勝てない人である。リードがわるく作用しかねない。  夜戦に入って、その危惧《きぐ》が現実になりはじめた。大山の指し方は妙にちぐはぐで、南の粘りをもてあましている気配がある。大山の玉は金銀三枚の堅陣で、当分攻められる心配はない。そういうときこそ、敵の駒《こま》が近づいてくるのを怖く感じる。快晴のとき、遠くに小さな暗雲を見て不安にかられるのと同じだ。棋士は、みんな現実派だが、こと将棋に関しては想像力が豊かになり、ありえないことにも怯《おび》える。将棋は大差、勝ちは動かぬとなれば、一回でも王手をかけられるのを嫌がる。本来、王手は怖くもなんともなく、王手を掛けてくれるのはありがたいくらいのものなのに、そう思えなくなる。実戦心理の不思議さである。  だから、南はジッとしていて、大山の不安心理の増幅を待っていればよかった。それを、不利な態勢から勝負に出た。一見強烈な攻めで、大山の金銀はあっという間にはがされ、玉は裸にされた。  こりゃ勝負形になった、と、観戦記者達は騒ぎ出したが、プロ棋士達は逆に見た。大山が勝てる流れになったと。  つまり焦点がはっきりしたのである。もう怖いのなんのといっていられない。自分の王様が詰むかどうかである。そういったギリギリの段階、紙一重の差を読むときプロは誤らない。前回の谷川と同じである。  大山は追いつめられて開き直り、すると全盛時の力が出てきた。金銀を取らせて攻め合い、第1図となっては、はっきり勝ちである。私は対局室へかけつけた。  大山が6六角と打ち、南が7七桂《けい》と受けたところだが、これを見て、大山はなにやらつぶやいている。やがて南が手洗いに立った。大山の独り言はつづき、「詰んでるんやろ……」と言っているように聞こえた。  第1図からの指し手。 7七角成 同 金 9六桂 8七玉 7八銀 (第2図)9六玉 8五金打まで、大山十五世名人の勝ち。  角を切って詰みである。7七同金で同玉は、8五桂8八玉7七銀以下バラして金銀三枚があるから詰み。  で、7七同金だが、9六桂と打ち、8七玉に7八銀と捨てたのが、詰将棋のような手筋である。パチリとこの銀を打つとき、大山の頬がかすかに緩んだ。  まったくうまい筋で、同玉は、8八金6九玉6八銀まで。同金は8六金まで。9七玉は8八銀9六玉8五金打まで。  ここで投げればきれいな投了図だったが、南はもう二手指して投げた。  南が「負けました」と言って頭を下げると、瞬間、大山はニッコリした。そんな顔は今まで見たことがなかった。  一つ勝ったら、にわかに前途が明るくなった。危ない状態に変りはないが、残り三局で二勝一敗は可能である。次の内藤は相性のいい相手だし、最終の真部は計算できる。八回戦の対青野戦が勝負ということになろう。こういったところの私の読みは外れたことがないから、楽しみにしていただきたい。  そんな星勘定より、一つ勝って正月を迎えるという、気持の明るさが大きい。全敗のままじゃ、ファンに挨拶《あいさつ》のしようもない。そして私達も星取表を見ての楽しみがつづくのである。もう一つ書き加えれば、この対南戦は、大山が多くの声援を背に戦った、数少ない例であった。  とってつけるようだが、挑戦者争いの方を予想すると、谷川、米長、内藤の三者が一敗で並んでいる。が、心情的には、内藤に勝たせたいところ。ただ、次の大山は苦手だし最終戦は米長で、ここで星の潰《つぶ》し合いになる。結局谷川が有利というわけだが、これも最後まで判らない。  話題をかえて、今戦われているタイトル戦は棋聖戦で、これは、屋敷棋聖に森下六段が挑戦している。  森下といえば、「ここ一番に弱い男」であった。入門した少年時代から師の花村九段に溺愛《できあい》され、何百番も平手で指してもらったそうだ。こんな恵まれた弟子もなく、それ故《ゆえ》、将棋や人柄に辛さがない。準優勝七回、挑戦者決定戦での負けが二回、順位戦の次点が二回。これほど惜しい星を落した男はいない。  それが、今年の夏、新人王戦で優勝してフッ切れた。新人王戦は三十歳、六段以下に出場資格がある棋戦で、トップクラスは出ていない。タイトル戦ではないが、優勝は優勝である。それなりの自信は得ただろう。秋になって棋聖戦で見事に挑戦者になった。そればかりか王将戦も、あと一番、南に勝てば挑戦者になれる。えらい変りようだが、もともと力はあり、このくらい勝って当然なのである。  屋敷との棋聖戦は、現在一勝一敗だが、内容は森下が勝っている。すばしっこく動く屋敷を、つかまえてしまうコツをつかんだようで、ゆっくりした将棋になれば森下のものだ。この春は、森下が二冠王になっているかもしれない。  研究熱心なこと棋士中随一。棋風も正攻法でジリッと押すタイプである。「中盤で一歩《ふ》でも得すれば負ける気がしません」とも言う。たいへんな自信だが、普段はそれを表に出さない。大言壮語は損、と固く自らに言いきかせているようである。で、仲間に好かれている。   相性について  大山十五世名人の勝負運の強さには驚く。そんなことは判《わか》りきっているが、引退の瀬戸際《せとぎわ》に立たされて底力を出すあたり、やはり史上最強の名人である。  前回、大山が南棋王を破ってニッコリした有様をお伝えしたが、勝ったとはいえ危機が去ったわけではない。とりあえず首がつながって年を越せた、というだけである。  思えば四十年にわたって幾多の名棋士達の最後を見て来た。それぞれ、勝負強さを誇っていたが、晩年はお返しをくらったような不運に見まわれた。たとえば、順位戦の昇降級には他力頼みがつきまとうが、そのとき、ありえないわるい目が出たりした。そして、それが引退につながった。  今期の大山には、それに似た兆候がはっきりあらわれている。勝つことに対する執念がうすれ、念力もきかなくなり、対戦する対手《あいて》に甘く見られているような感じがあった。だから棋士達は、対南戦のとき、同情と惜別の念を含めて大山に声援を送ったのである。  年が明けた一月二十六日、大山は内藤九段と対戦した。これはA級順位戦の七回戦。二日前に降級を争っている有吉九段と青野八段が八回戦をすませ、共に敗れ、三勝と二勝で止っている。大山に有利な目が出たわけだが、自分の星を伸ばさなければどうしようもない。  内藤は四勝二敗。米長王将が六勝一敗と走っているから、三敗すれば挑戦権は絶望となる。五十歳を過ぎ、名人位をうかがうチャンスはこれが最後かも知れない。こちらも負けられぬ戦いなのだった。  大山の得意芸は振飛車退治。それを承知で、内藤は飛車を振り、穴熊《あなぐま》にもぐった。意地を張っているのである。昭和四十五年、内藤は大山と棋聖戦五番勝負を戦ったが、三局目を終ったとき、大山は「内藤さんは、これからグングン伸びていく人。相手の得意なんかたたきのめしてやれ、ぐらいの気概を持ってほしかったと思う」と言ってのけた。活字と実際の言葉はちがうだろうが、内藤が大山の振飛車を嫌ったのを見下している気配があり、先輩の忠告とは取れない。内藤はカッとなり、第四局も飛車を振って敗れた。その因縁を今も引きずっているのである。  大山は例によって、内藤陣を圧迫しようと、積極的に駒《こま》を前進させた。ところが、気持だけがはやっていたのか、不用意な手を指し、内藤の痛烈な反撃を食らってバラバラにされた。  中盤から寄せに入って大差の形勢。夕食休みの時点では、大勢は決していた。このあたりの気持を訊《き》けば、「そりゃ、いかん思うた」と言うに決っているが、本心はどうだったか。棋譜を見るかぎり、負けを覚悟したかのように、時間を使わず、粘る手も指さなかった。  死んだふりにだまされるほど内藤は甘くない。一回長考を入れ、万全を期して寄せに入った。そして、終った、と思われた場面が第1図である。  後手の手番で、誰でも指す手は5八歩《ふ》成だろう。以下、2六飛4八と2八玉3九角1八玉3八と、までで後手が勝ち。  途中4八と、が、ちょっとした手筋で同玉と取れば4九角と打って受けなし。  このやさしい寄り筋を寄せの名手が逃した。  第1図からの指し手。 6七角 2六飛 5八歩成 2八玉 4八と 6四桂《けい》(第2図)  一手詰み(4九角成)を狙《ねら》って6七角と打った。大山は、しようがない、と2六飛。この瞬間、内藤はアッと声にはならぬ叫びを発しただろう。角を打って受けなし、と思い込み、2六飛と玉の逃げ路《みち》を作られるのをうっかりしていたのだ。信じられぬ錯覚だが、こういうこともある。  やむなく5八歩成とし、2八玉4八と、と進めたが、この形は正解手順と一手ちがう。第2図でいえば、盤上の6四桂と6七角がなく、角を持って内藤の手番のはずだった。で、3九角1八玉3八と、までで内藤の勝ちとなる。  プロの将棋は、どんなに差が開いても、結局は一手ちがいである。相手に二手指されたら逆転するに決っている。ただ、この将棋は後手があまりによすぎたため、大ポカの後でも難かしい局面があった。そこで運の強弱を思わせる場面があらわれる。  第2図から十五手進んで第3図。  大山が4四にいた馬を4五馬と一つ引いたところだが、これが絶妙手。攻めては8一金以下の詰みを狙い、守っては、2九と以下の寄り筋を防いでいる。  偶然にこんな痛快な手が生じては、内藤が負ける運命だった、というしかない。投了に至る指し手も見事なので特に記す。  第3図からの指し手。 2九と 1八玉 1九と 同 玉 1七香《きよう》 1八金 3九馬 1七金 同 馬 7五香 まで、大山十五世名人の勝ち。  どこまで行っても、ぴったり内藤が負けている。投了図を見ると、大山の飛車と馬その他の駒が、ウソみたいに働いている。対して内藤側は、なんとかなりそうでいて手がない。  投了図から粘るとすれば、2七桂同馬同馬同飛6三角などが考えられる。しかしそれは単に指しただけにすぎず勝ち味はない。内藤は悪あがきせず、自らの運命を暗示するような場面をもって投了の形とした。米長と内藤の将棋は、負けたときの形がきれいである。大山の負けたときは、こういう形にならない。  これを見て、勝負や人間関係における相性に思いが及ぶのは私だけではあるまい。  内藤は大山が大の苦手で、本局の負けによって順位戦の対戦成績は十二連敗となった。内藤がB級1組に落ちて対戦のなかった年を計算に入れると、十四年間も負け続けたことになる。大山の全盛時ならともかく、最近十年間の二人の総合成績を比べると、実力は内藤が上である。それで勝てないのは、大山コンプレックスがあるからではないか。  内藤が七段から八段に昇ったころの口ぐせは「ヤマさんを負かさなあかん」だった。将棋界では、名人以外、大きな顔はできない。えらそうな口をきき、我がままを通したかったら大山を負かすことだ、との意だが、奥に,東西の対抗意識と、大山に対する生理的な反感も幾らかは含まれていた。  棋士は人一倍自分につけられた値段を気にし、安く見られぬよう気を配っている。大山は特に敏感で、常に棋士が自分をどう見ているかを知っていた。物事にきちんとけじめをつけるたちで、頼ってくればそれなりのものを与えるが、反抗したり批判した者にはしっかり落し前をつけた。大山の対人関係を傍から見ていると、当人が意識してかしないでか判らないが、結果はそういうことになっている。  大山は内藤の気持を見抜いていた。当然当りがきつくなる。そこで一つのエピソードがある。  昭和四十五年夏、内藤は棋聖位に在り、大山の挑戦を受けていた。五番勝負の第三局を終って、大山二勝一敗とリード。カド番の第四局が行われる前夜、事件が起った。  産経新聞の記者で、棋聖戦の担当者であった福本和生さんは、いきさつを次のように書いている。 「弁慶橋そばの福田家別館に着いたのは午後六時半すぎだったと思う。二階の部屋に案内された内藤は荷物を置くと、すぐに一階の会食場へと軽い足どりで階段を降りていった。  会食場では大山康晴四冠王を囲んでマージャンが始まっていた。わたしは棋聖の内藤の到着を待ってのマージャンと思って、『どうも遅くなりまして……』と挨拶《あいさつ》して内藤とともに食事の席についた。ところがマージャンは続行で、なんと女中さんがお膳《ぜん》を新しくしようとしてかたづけ始めたではないか。すでに食事は終っていたのだ。内藤の顔がさっと変わった。無言で立ち上ると足音も荒く階段を駆け昇っていった。大山はその足音を背で聞きながら牌《パイ》を切っていた」  どうってことない事件のようだが、棋士にとっては重大である。顔を潰《つぶ》された、ということもある。棋聖戦中での棋聖は、主人公であり、大統領みたいなものである。それをないがしろにするとは何事か。当然内藤は怒っていいのに、それが出来なかった。大山の言い分をきいてこうなったのは判っている。喧嘩《けんか》を売られて買えない、そこで勝負はついた。  対局前にもかかわらず、内藤は銀座に出て酒を飲んだ。いやいやしながら、芹沢八段と宿を出て行く内藤の姿が目に浮ぶようである。  大山の方も、一ぺん勝負に出たともいえる。もし、「食事にしよう」と言って、担当者に「いや棋聖が来るまで待ちましょう」と断わられたら、内藤より安く見られた、ということにもなる。大山は、どうだ、俺の言い分を聞くか、と迫ったのである。そういうとき、誰も大山にさからえなかった。  内藤と親しい芹沢も、将棋連盟側担当でその場にいたが、何も言えなかった。ついでに大山は、両方にいい顔をする芹沢の顔も観察していたことだろう。  翌日の勝負は大山が勝ち、棋聖位を奪った。時に大山四十七歳。四回目の五冠王であり、第二期黄金時代の最後をかざる快挙であった。   まるで奇術  A級順位戦が終った。名人挑戦者は米長王将。降級は青野八段と真部八段だった。  今回は、その最終戦の話をしようと思うのだが、いささか景気がわるいので困っている。降級争いの話が主になるからである。  順序として挑戦権争いの有様を先にすると、最後まで圏内に残ったのは、米長、谷川竜王、南棋王の三名。米長が内藤を破れば文句なしだが、負ければ二敗で、挑戦者決定戦になるであろう、という情勢だった。  当日、戦いが始まってみると、まず南がおかしくなった。塚田が研究会で調べておいた筋に南が引っかかり、夕食休み前に敗勢。谷川は高橋九段と対戦しているが、うまく攻めてやや指しやすい形勢。問題の米長対内藤戦は、両者気合いよく戦っているが、どちらともいえない。  内藤は面やつれしているが、競馬でいえばギリギリに仕上っている、といった感じがする。背筋を常に伸ばし、大山と対戦したときとはまるで違っていた。  夜戦に入って、米長がおもしろそうだ、の見方が多くなった。途中、控え室の棋士達が予想しえなかった、玉の早逃げによって安全を確保したから、後はと金を作って手厚く攻めれば勝ち、という形勢である。  ところが、米長はそのと金作りをなかなか指さない。残り時間もたっぷりあることだし、慎重に考えているのだろうと思われたが、そうでなかった。一種の強迫観念にとらわれていた。内藤に対する苦手意識のせいだろうが、無謀な突撃をかけ、金銀を損して、いっぺんに敗勢となってしまった。昔、芹沢が観戦記の見出しに、狂ったか米長、と書いたが、それに似た驚きが控え室にあった。  そのころ、別室で谷川は攻め損なっていた。高橋の出来がよかったこともあり、こちらが先に終ってしまった。  南と谷川が負ければ、米長で決定である。そんなこととは知らぬ米長は、敗勢になりながら、なお粘っていたが、結末を知っていれば気が抜けた戦いである。候補者全員が負けて決定、は椿事《ちんじ》というべきだろう。  ぶっちぎりで挑戦者になるくらいでないと名人位は奪えない。これは中原名人の師、高柳敏夫九段の説である。米長も同じ考えだろうから、釈然としないものがあったらしく、打ち上げの席から早々と引き上げた。  名人戦で、中原に四度挑戦して敗れ、谷川にも負けている。今回で通算六度目の挑戦となるが、はたして悲願成るか。こればかりはなんとも言えない。  結局、今期A級順位戦のハイライトは、八回戦の大山十五世名人対青野八段戦であった。再三お伝えしたように、注目されたのは引退がらみの大山の星であり、対青野戦は、残留か陥落かの分れ目だったのである。  その一戦は、青野の誘いに大山が乗った形で戦いが起った。仕掛けて指せる、の判断はかならずしも誤っていなかったが、直後に、虫のいい手を指した。うまい話には間違っても乗らない、が信条の大山にしては考えられない指し方で、いっぺんに不利となった。  負けられぬ一戦で、日頃軽蔑《けいべつ》してやまない類《たぐ》いの誤りを犯せば、誰だってガックリくる。ところが大山は凡人でない。立ち上り、四球とエラーで五点か六点取られたところで自分を取り戻した。以後は守りをかためて失点を防ぎ、一点ずつ返しはじめた。  そうして終盤になった頃は、一点差まで追いつめたが、そこで突き放され、九回も二死、最後の打者がツーストライクを取られた、というのが第1図の場面である。ここまでの手数はちょうど二百手。プロ将棋の一局の平均手数は百十手から百二十手だから、約二局分戦ったことになる。青野の残り時間は一分。大山は十六分。  盤面を見れば、大山玉は絶体絶命である。とすれば、相手の玉を詰ますしか勝つ方法はない。みなさんもそう考えるだろうし、プロも同じである。青野も詰むや詰まざるやにしぼって考え、数手前から、詰みなし、と読んでいた。  大山の駒台《こまだい》には乗せ切れないほどの駒があり、王手はいくらでもかかるが、青野玉は意外に広い。攻める筋は6四飛だが、4五玉と逃げられ、3五、2五と駒を取りながら、2四から1三へもどる形になって詰まない。変化はいろいろあり、紙一重だが、そういった難解な変化を読むと、プロは誤らないのである。  第1図で大山は手を止めた。青野もいっしょに読む。逃げ方を確認しながらも、詰まないでくれよ、と祈っていただろう。  死線をさまよう大山はなかなか指さない。青野の確信はいよいよ固まる。十四分たち、残り二分を告げられて大山は指した。それは形容しがたい、プロなら思いつかない手であった。  第1図からの指し手。 6九銀 9五桂《けい》 8八玉 8九と 9八玉 9九と 8八玉 8九と 9八玉 9九と 8八玉 8九と 9八玉 8七桂成 同 玉 8八飛 9六玉(第2図)  長手順で手順を追うのは難かしいが、とりあえず、第1図と第2図を見比べると、意外や大山の玉は上部に抜けてしまっている。まるで奇術ではないか。  タネと仕掛けは6九銀であった。  これは指せない。単なる一時しのぎ、指しても無駄な手に思えるからである。  そもそも勝敗は、詰むか詰まないか、にかかっている。そこで受けに回るのでは、詰まない、と言ったのと同じ。そのうえ銀まで手放しては頓死《とんし》を食わせる可能性がさらにすくなくなる。  6九銀を見た瞬間、青野は、ありがたい、と思っただろう。と同時に気持が変になった。そしてやさしい寄せを逃がしてしまう。  今回は技術的な話ばかりで申し訳ないが、第1図から第2図までの手順中、やたらととの字が多いことにお気づきだろう。  8九と、9九と、の反復手順がそれだが、これは「連続王手の千日手」で、禁じ手とされ、三回くり返すと、王手をかけている側が反則負けとなる。  この三回というところが法の抜け穴みたいなもので、ルール上二回までは許される。  残り一分となり、五十八秒まで読まれて8九と、と指し、9八玉に、また五十八秒まで読まれて9九と。するとこの応酬で二分考えることができる。二回くり返せば合計四分稼げる。形は原形のままだ。  というわけで、プロなら誰もがこれをやる。しかし、本来三回やっていけない手は、一回でもやってはいけない性質のものである。二回までで止《や》めて時間を稼ぐのは、せこい手ともいえる。  余談になるが、リーグ戦の最終では自力と他力が絡《から》みあう。自分が勝ち、競争相手が負けてくれれば昇級とか、自分が負けても、同星の者が負ければ助かるとか、三人負けて自分が勝てば昇級など、いろいろなケースがある。順位戦は同時対局だから、他力絡みでちょっとしたドラマが生じる。  競争相手の形勢が気になるのは当り前で、臆《おく》せず様子を見に行く者もいれば、負けてくれよ、と念じていながら、そしらぬふりの者もいる。  つい先日のB級1組順位戦のときのことだが、森九段は、必至をかけられると、別室の鈴木(輝)七段対小野修一七段戦を覗《のぞ》きに行った。こちらも、鈴木が投了寸前まで追いつめられている。森は小野の後ろに立ち、盤面を見下して動かない。鈴木の視野に、盤面と共に森の姿も入っていただろう。やがて鈴木は耐えきれなくなって投げた。それを見とどけると森は盤の前に戻り、すぐ投げた。鈴木が負けて、自分が助かったからである。これほど堂々としていると、見ていて気持がいい。  青野はそういった他力を恃《たの》まない唯一《ゆいいつ》の棋士である。「自分が勝てばよいのだ。人の勝ち負けを気にするようではろくなことがない」と言ってはばからない。潔《いさぎよ》く格調が高い。そんな人柄に、さっき言ったせこい手は似合わなかった。森なら稼いだ四分を活用したろうが、青野の場合はマイナスになった。なまじ考えたばかりに迷いが生じ、8七桂成から、8八飛と打って負けにした。  正着は、8八玉に、7八歩《ふ》成同銀8七桂成同玉7八成銀で、これなら青野の勝ちだった。第2図となっては、9四歩と突いても、8七桂と受けて寄らない。  こうして大山は三勝となり、残留を決めた。この一週間後に、文化功労者受賞を祝うパーティーが開かれたから、話はうまく出来ている。  それにしても第1図での6九銀の受けにはたまげる。これこそ「人間は過《あやま》ちを犯す動物である」との哲学から生れた粘りというべきだろう。いまわの際《きわ》になっても執念を失わず、見事に復活する大山の恐しさが、対内藤戦と、この一局に赤裸な形であらわれた。この二局、大山後半生での傑作である。  勝負に、たら・れば、は禁物といわれる。たしかに、後悔したり、自分に言い訳を用意する勝負師は弱い。だが、見る側からすれば、逆の結果を想像してみるのもおもしろく、私はそんなことばかり考えている。  かりに、大山がここで負けていればどうなったか。最終戦の対真部八段戦が、首を賭《か》けた勝負になる。実際は大山が勝ち、有吉に負けた青野がやっぱり落ちている勘定だが、助かっているのといないのとでは、戦いの雰囲気がまるで違う。真部がすっぱり斬《き》ったかもしれない。  すると大山は引退。真部は大名人の現役最後の対戦者として棋史に名を残せる。  と、そういうめぐり合わせにならなかったところに、真部の運を感じる。  運といえば、南も最後に負けたあたりが頼りない。やはり、名人になる者、なれぬ者と運命が定まっているのだろうか。人の運命なんて判《わか》りっこない、を承知でこだわれば、負けて挑戦者になった米長は、強運の持ち主ともいえる。勢いはともかく、六回の名人位挑戦は凄《すご》い。升田のように、短かい期間であっても、名人になって当然の棋士に思えてきた。  名人中原は、体重の減少に首をかしげている。どこもわるくなければ羨《うらやま》しいような話だが、目方が減ると頑張りが利《き》かないそうだ。花粉症にも悩まされているが、それでも「名人戦をやっているときは、割り合い愉《たの》しいんです」と笑っていた。   捨て身技の構想力  升田幸三実力制第四代名人が亡《な》くなった。享年《きようねん》七十三歳だった。  たまたま亡くなった日、中原名人が大島映二五段と対局していたので、終ってから私と三人で新宿に出た。  酒を飲みながら偉大な先輩の死を悼《いた》んだが、淋《さび》しさはあっても、不思議に悲しみは感じなかった。それは中原名人も同じだったろう。立派な生涯を完結して逝《い》った、と思えたからである。  思い出話をしながら酒を飲み、帰ったのは明け方だったが、その日は眠れなかった。  私にとって升田という人は、地位をくらべれば雲の上の人であり、系統的にも縁がなく、付き合いもなかった。追悼文など書ける柄ではないが、四十年も同じ狭い世界に住んでいれば、思い出もすくなくない。この機会に、それらを書くことにしよう。木村、升田、大山……名は知られていても、本当の姿は伝えられていない。常々それを残念に思っていた、ということもある。  升田の死はその日の夕刊各紙に大きく報じられ「非運の棋士」「反骨の棋士」などと書かれていたが、はたしてそうだったか。  戦後間もないころは、実力随一をうたわれながら、木村、大山に敗れて名人になれなかった。そのまま終れば、たしかに非運の棋士だが、昭和三十二年には、大山を破って名人になると共に、王将、九段(現在の竜王)を獲得し、史上初の三冠王になっている。前後三年ぐらいの短い期間だが、将棋史上の花咲ける時代、すなわち升田時代があった。  私生活の面では、大山に負けつづけていたころ、うっぷん晴らしに酒を浴びるほど飲む日々だったと言われるが、少年だった私には、どんな有様だったか判《わか》らない。  しかし、将棋会館で見るかぎりでは、一番の実力者、大親分だった。廊下を歩く姿も、対局中も威風あたりをはらう感じがあり、とても失意の人とは思えなかった。  たしか昭和二十年代の終わりころ、経理担当理事(その人はA級八段だった)の多額の使い込みが発覚した。当時の棋界は、升田派、大山・丸田祐三派、木村十四世名人の流れをくむ渡辺派が主流三派をなしていた。経理担当理事は、大山・丸田に近かったが、事が事だけに救ってくれそうな気配がない。意を決して反対派の升田に泣きついた。話を聞いた升田は「わしにまかせておけ」ポンと胸を叩《たた》いた。  処分を決める棋士総会が開かれた。  すると、被告はすぐ、座の中央に進み出て「申し訳ありません」それだけ言って、畳に頭をこすりつけた。  すかさず「男が頭を下げたのだから、許してやれい」、升田が言い、けりがついた。これこそ、鶴《つる》の一声だったそうである。  理事を退き、使い込んだ金を返済。それだけで出場停止などのおとがめはなし。この体質は今も変っていない。  将棋界は、名人の発言力が強いのは当然だが、大山は運営面のあれこれには、あまり口を出さず、そちらは升田にまかせていた。升田には、それだけの人間的魅力と、政治力があった。  豪放磊落《らいらく》、傲岸不遜《ごうがんふそん》、反骨精神旺盛《おうせい》、野性味、升田にはそんなイメージがある。実際は、小心で気がやさしかった。骨太で、腕力もありそうだったが、人を殴ったという話を聞かない(昔はしょっちゅう殴り合いがあった)。本気で喧嘩《けんか》をしたこともなかったろう。ただ、毒舌は相当なもので、誰でも一度はカッとさせられた。しかし、それも計算ずくで、相手が本当に怒りだす寸前の、紙一重のところで、ニコッとし、褒め言葉をいった。威張ったり、我がままを言ったり、かと思えば甘えるなど、人心をつかむのがうまかったが、結局、いつも誰にでも好かれようと気を遣っていたのだ。  そうして、梅原龍三郎、坂本繁二郎、吉川英治、志賀直哉《なおや》、坂口安吾《あんご》、すこし後の五味康など文化人に愛され、時代の寵児《ちようじ》となった。昭和二十一年、新大阪新聞の、当代人気投票では、フジヤマのトビウオ、古橋広之進に次いで二位だったという。  そんな升田を、悪役にされた大山はどういう目で見ていたのだろう。  毒舌の被害と言えば、私にも思い出がある。  奨励会の対局日、フラッとあらわれた大先生は、私の将棋に眼をとめた。そして、みんなに聞えるような声で「アッ、この子はダメだ」。奨励会に入ったばかりの、河口六級の運命、いや格というべきか、は、ここで決ったのである。思春期の生意気ざかりだったが、そんな辛《つら》いことを言われても、なぜか怒りを感じなかった。しばらくしてまた私のところに戻り、さっきの局面を作って、こう指すものだ、と教えてくれた。さらに、その後の実戦の手から一手を拾い出して、「ええ手を指すやないか」とも言ってくれた。  升田は生れながらの役者であった。母親の物差しのうらに「名人に香《きよう》を引くまで帰りません」と書いて出奔した少年時代にはじまって、青年時代、木村名人の袴《はかま》のすそを踏んで振りかえったところ、ニヤリと笑った話。雪の日の高野山の決戦、ゴミとハエ問答、陣屋事件、五味康の筆禍事件、等々、生きながら伝説を作っていった。  出征時のエピソードにしても、南洋の小島で、 「もしあの中天にかかっている月が将棋を知っているのなら、月に託して木村名人と最後の一番を指して死にたい」  と祈った升田に対し、大山は、 「二十一歳の私は、軍隊生活から何一つ得ることはなかった。私にプラスしたものと言っては、少々体が丈夫になったことぐらいであろう。一年半の奉仕にしては、あまりにも小さい収穫であった」  である。誰か知らぬが、升田にはいい物語作者がついていたのだ。  それらのエピソードについては、いろいろな機会に書いたから、くり返しをさける。それより、偉大な部分、すなわち升田将棋にふれなければならない。が、これが難事である。名局の数々を並べて味わっていただくしかない。  ここでは、あまり有名でないが、構想力の豊かさ、切れ味の鋭さ、をしめした一局を紹介する。  第1図は、第十七期名人戦(昭和三十三年)第一局、対大山九段戦である。  局面は升田が3五歩《ふ》と突き捨て、同歩と取らせたところ。損を先にしているから、うまい攻めがないと升田が不利になる。升田将棋には、こういった捨て身技をかける、といった感じの局面が多い。  腰を引いて備える大山。升田が手洗いに立った留守に、「やっと穴に入っていた角が世に出た」と呟《つぶや》いたと観戦記にある。第1図の数手前に角を交換したことを言っているのだが、手はなし、と安心していた様子がうかがえる。  第1図からの指し手。 2八銀 4六銀打 3七銀成 同 玉 2五桂《けい》 4八玉 5五桂 同 銀 3七角 5八玉 5五角成 4六銀打(第2図)  第1図で2八銀と打ち込み、以下5五桂と捨てて角で銀を取り返したあたり、見事と言えば言えるが、この程度の手順はプロならすぐ組み立てられる。  そして、4六銀打と受けた第2図は先手有利と、誰もが思う。  第2図となったとき、控え室の面々は、また升田が自滅した、と思った。  タネを明かせば、第1図から第2図までは伏線なのである。次にドンデンがえしがある。  第2図からの指し手。 3七桂成  もし、史上最高の手を選べ、と言われたら、この3七桂成を候補に上げたい。それほどの妙手である。5五の馬は盤上最強の駒《こま》。それを取らせる、なんていう着想はだれにも浮ばない。取らせて、の仮定がなければ、桂成が見つかるはずがない。  3七桂成に5五銀は、7七歩同桂2四飛と転回して後手勝勢。飛車の成り込みを先手は防げない。  用心深い大山も、4六銀打まででよしと読みを打ち切っていた。すなわち読み負けていたのである。そのショックがありながら、次に3八桂と粘ったのもたいした精神力だが、実戦の進行をつづけているときりがないのでやめる。  こうしてみると、この両者は実に強い。今の、羽生、屋敷とは将棋の格調がちがう。升田の最盛期は、こんな将棋を指したのである。  升田将棋をゴルフにたとえて言えば、二百ヤード先の、グリーンはしの難しい斜面に立っているピンを、デッドに狙《ねら》う、といった感じである。外したときのリスクを考えて、グリーン中央に乗せる、などはしない。そして、しばしば五十センチか一メートルに寄せてみせたのである。  大山は常に確率を考え、危険をさける。池があって、落す危険が三分もあれば、迷わずきざみ、パーでよしとするのである。  将棋の難しさは最後の玉を詰ます部分にある。三十センチのパットが難しいのだ。升田のポカは、短いパットを外す類《たぐ》いのものだった。それを升田は「やさしい勝ちを逃したのは実力ではない。俺は五十センチにつけるショットを打てる。大山にはそれがないではないか」だから俺の方が強い、と叫びつづけた。それをファンは支持したのである。「俺は何事もスレスレの線を行く」が口グセだったが、その危うさをファンは理解していた。  その反面、チャレンジ精神は、言い訳にもなりうる。新手を試みたのだ、失敗したのはやむをえない、と。升田の勝負弱さは、なにか言い訳を用意して戦ったところにあろう。  第1図以下のような手順は、そういつもあるものではない。奇跡的な手順である。なのに、そればかり狙っていれば破綻《はたん》することの方が多い。七番勝負のうち、一局か二局は成功しても、四番は勝てない。升田と大山の通算成績の差は、そこから生じた。  極端な言い方をすれば、大山が百局指せば、九十五局は水準以上の出来栄《できば》えである。対して、升田は、九十五局が凡局。その代り、五局はとてつもない傑作だった、ということになろう。「棋譜は後世に残る」と常々言っていたが、そこには、将棋だけでなく、全生涯について、俺のいいところだけを見てくれ、の願いがこめられていたように思われる。   金の感覚  升田幸三元名人が亡《な》くなり、戦後の将棋界のあれこれを憶《おも》い出しているうち、塚田正夫元名人について語られることがすくないのに気がついた。  勝負師木村、大豪は升田、史上最強といえば大山。そうした大物達のかげにかくれがちだが、塚田には、名匠、がぴったりである。  野球でいえば、豪速球、制球力、多彩な変化球をあやつるなど、際立《きわだ》った特徴はないものの、球の切れが抜群、といったタイプで、玄人《くろうと》好みの芸風の持ち主だった。  第二次大戦のため中断されていた名人戦が再開されたのは昭和二十二年。挑戦者には塚田正夫八段がなった。  受けて立ったのは木村名人。この人の全盛時の成金趣味というか派手な暮しっぷりは今も語り草になっているが、一説によると妾宅《しようたく》を各地に四軒も持っていたそうだ。そういう人に戦後の物不足は人一倍こたえただろう。体力もなくなり、対局中に覚醒剤《かくせいざい》を打ったこともあるという。  日々の生活に追われている木村に対し、塚田は軍隊で苦労はしたものの、若いし、賢夫人が家庭をしっかり守っていたから、対局に専念できた。勝負はそこのところで決したのである。第一局、第二局と塚田は連敗したが、以後四連勝して名人になった。  新人類棋士は純粋培養型だが、考えてみると、塚田はそのはしりだった。将棋一筋、俗事に関りを持たず、人付き合いは気のおもむくまま。野球と映画を見るくらいが楽しみで、あとは奥さんと酒だった。  翌年の名人位防衛戦の相手は大山八段。これは格のちがいを見せつけ、四勝二敗で勝ち。そうして二年目に、今度は木村の挑戦を受けることになった。  このころは木村も生活が安定し、これが最後の大勝負、と胸中期するものがあった。  落ちた王者が返り咲くことは難しい。前評判は塚田絶対有利だったが、二勝二敗の後の決戦(この年だけ五番勝負)で木村が勝った。当時、奇跡の復活と大さわぎされたようである。  この勝負の第一局は塚田が勝ち。二年越しに対木村戦で九連勝した。木村は、棋界用語でいう「負け下」になったわけで、それが逆転するとは、誰も想像しなかった。  ただ、以後四十数年の将棋界の経過を見てみると、負け下、は死語になりつつあり、連勝、連敗は珍しくない。今戦われている、中原名人対米長九段の名人戦にしても、中原が二連勝しているが、なにがきっかけで流れがかわるか判《わか》らないのである。米長ファンは悲観することはない。  塚田名人対木村八段戦の第五局は「済寧館の決戦」といわれ、名勝負の一つとなっている。王者復活の他に、塚田の潔《いさぎよ》い負けっぷりも話題になった。  投了図は、まだ中盤のようだが、ここで塚田は投げたのである。これにはみんなたまげた。倉島竹二郎は観戦記で、 「五月二十五日午前四時すぎ、済寧館は突如、ドドドドッザーッと津波が押寄せたような音響をたてた。それは木村義雄が遂《つい》に塚田に勝って名人位を奪い返したせつなで、待機していた百名余りが対局場になだれこんできたからであった。塚田ファンが泣いている。木村ファンも泣いている」  と描いたが、周囲の興奮ぶりが目に浮ぶようである。当時の記事をさらに紹介すれば、「木村が挑戦者と決まるや、梅原龍三郎、志賀直哉、村松梢風、久米正雄らが、急遽《きゆうきよ》後援会を作り、物心両面から木村をささえた」とある。こうした背景は見逃せない。昔から名人位は、世論で決められていたのだ。  投了図以下指すとすれば、2四同歩《ふ》と取る一手だが、同飛2三歩3四飛3七金同飛(参考図)となり、次の3四桂《けい》が受からない。  と、たしかに将棋は塚田敗勢なのだが、それにしてもこの局面で名人位をあきらめるとは……。敗戦間もないという時代のせいか、当時の棋士には、きれいに負けよう、あるいは、惜しまれつつ引退しよう、の美学があった。「投げるのは最大の悪手だ」「C級2組から落ちるまで指す」の現在とくらべて、よき時代であったようにも思える。  痩身《そうしん》ながらひよわではなく、むしろ骨太ではがねの強さが感じられた。背を伸ばし、首だけうつむきかげんに考える姿は、独特の風格があった。寡黙《かもく》にして威厳があり、悪口を言わせなかった。  対局中は気難しく、子供心には怖い人だったが、時にはふっと顔をほころばせ、「どうもいじめられたな。しようがないから帰ってカアチャンをいじめるか」と独り言をもらし、周りがくすりとするや「負けた」と言って投げたりした。負けた場面ばかりが印象に残っている、そういった名棋士もいるものだ。  晩年は酒量が増え、というより酒に弱くなり、将棋会館で酔っぱらっている姿をよく見かけた。昭和五十二年没。六十三歳。肝臓ガンであった。酒を控えねば死ぬ、と判っていてもやめられない。周囲に甘え、駄々をこねながら死んでいった。升田元名人、芹沢博文九段、松田茂役《しげゆき》九段、坂口允彦《のぶひこ》九段、みんな同じである。  ところで、塚田、升田を元名人と書いたが、塚田実力制二代名人、升田実力制四代名人が正しい。なじめない肩書なので私は使わないが、公式にはそう書くことになっている。  升田の晩年、名人位をめぐって将棋連盟との間に確執があったといわれるが、一つは名人戦が朝日から毎日に移ったことに対する不満、もう一つは引退後の肩書であった。大山への憎しみは、口で言うほどではなかったろう。肩書なんか、傍《はた》から見ればどうでもよさそうなものだが、当人にとっては面子《めんつ》にかかわる重大事だったらしい。  名人は一人、これが棋界の不文律だが、別に名人位を五期以上保持すると、永世名人を名乗ることができる。木村、大山、中原が有資格者で、谷川浩司は四期、升田は二期しか保持していない。  初代名人は大橋宗桂。以後世襲によって名人位が受け継がれ、関根金次郎が十三世名人。この関根の英断によって、昭和十年に実力制名人戦が開始され、木村が初代名人となった。  と書くと、初代名人が二人いて妙なことになるが、本来は、大橋宗桂以下が正統で、木村十四世名人、大山十五世名人と名乗る。ただ、規定はどうなっているのか知らないが、常識的には、十四世、十五世とかは、引退後の肩書のはずである。しかし、大山は現役でありながら十五世名人という。これまた妙だが、大山ほどの大棋士が、無冠になったからといって、大山九段ではおかしいし、気の毒だ、との思いが棋界にあり、この案はすんなり通った。なんであれ、人によってルールが変るのが将棋界である。 「それはわかった。ならこの俺をどうしてくれるんだ」と言ったのが升田。「名人に香《きよう》を引いた俺が単なる九段か。B級以下の九段がようけおるのに、それと同格とは何事」というわけである。  もちろん升田に対する気遣いはあった。一案として、名誉名人では、と打診したが、「土居名誉名人と同じではいやだ」と受けつけない。といって他に案もない。当人は扇子の署名に、名人の上、とつけたが、公式に認められるものでなく、長い間この問題はしこっていた。  そうしているうち、なんとかしよう、の機運が生じ、すったもんだののち、名人の上に、実力制をつける案が出た。木村の次は塚田で、これが実力制二代名人。大山は三代目で、升田が実力制四代名人というわけだ。升田はいちおう納得したが、授賞式にはあらわれなかった。やはり釈然としないものがあったのだろう。  蛇足を加えれば、仮りに何年か後、中原名人が無冠になったとすれば、現役であっても、十六世名人を名乗るだろうか。これはそういう事態になってみなければ判らない。  肩書にふれたついでに、将棋指しの金銭感覚を書いておく。実をいうと、塚田といえば、ワリカン主義、が思い浮ぶのである。  将棋界の先輩は損なもので、将棋は勝てなくなり、したがって威張ることができず、勘定だけは後輩の分も払わなければならない。対局が終ったあと、数人でちょっと一杯となり、そこに中原や米長がいれば、全部の勘定を払う。大山は実利一点ばりと思われているようだが、そんなことはなく、出すべき金は惜しまない。無駄金を使う、と嘲笑《あざわら》われるのを嫌うだけである。  これ等の人達は、勝つし、収入もあるからまだいい。辛《つら》いのはクラスがさがった実年棋士で、収入を考えて付き合いをさけるようになり、必然的に老《ふ》け込むのも早くなる。  塚田は一貫してそんな気遣いをしなかった。どんなときでも、ワリカンを通した。二十そこそこの新四段と飲むときでも、はっきり「ワリカンだよ」とことわった。あやのいいことがあればおごったが、「今日はわるい将棋を勝たせてもらったから」と理屈をつけた。升田も同じだが、とことん自分の言い分を通せたのは、仕合わせな生涯というべきだろう。  ここで急に身近かな話になる。今年になって、中原名人の身辺に異変が起った。異変はオーバーだが、隣家が、土地を買わないか、と持ちかけたのを幸いと、買ったのである。第一人者だし、堅実な人柄だからそれなりの貯《たくわ》えはあるはずで、土地を買ったくらいではビクともしないが、とはいえ、小田急沿線で約百坪の買い物は容易でない。不本意ながらローンを組んだ。世間の常識からすれば当然ながら、中原は借金が嫌いなたちで、返済が気になってしようがないらしい。  名人に引退はついてまわり、中原も、将棋の内容がわるくなればいつでもやめる、の心構えでいたようだが、月々の返済を思えば、そうもいかなくなった。十六世名人といっても、引退すれば、月給、対局料収入がなくなる。決った金額が入ってこなくなったら、ローンの支払いをどうするか。そうなればなったで、どうにでもなる、と周囲は言うが、当人にすれば、やはり心配なのである。  結局、一年でも長く名人位を維持するのが最善ということになる。そして、四月以後、将棋がカラくなった。名人戦を含めて七連勝がその証拠。勝たねばならぬ状態で勝てるのは、さすがである。   坊主頭《ぼうずあたま》にする理由  名人戦は中原名人の防衛で終った。  中原三連勝のあと、米長が一勝を返したがそこまで。第五局は中原が勝ち、四勝一敗で終った。  中原は三連勝して、「気味がわるかった」と思ったそうだ。ことがうまく行きすぎている、と同時に、手応《てごた》えのなさに不思議な感じを持ったのだろう。米長の強さはよく知っている、こんなはずじゃない、というわけだ。  しかし、プロ棋士、ファンのほとんどが、第二局、中原が連勝した時点で、名人戦は終った、と見たようである。  米長の弟子の先崎が最近書いた文にあったが、将棋世界誌の、読者の名人戦予想では、中原勝ちが、八対二より九対一に近かったという。  名人戦の勝敗は常に世論が決める。結果的にそうなってしまう。今期もその例にもれなかった。  もう二十年くらい昔のことだが、将棋雑誌が定期的に人気投票をやっていて、いつも若い米長が一位だった。A級になったかならぬかのころで、升田も健在だったが、米長にはかなわなかった。そういえば、いつの間にか投票をやめてしまった。有力棋士からの圧力でもあったのだろうか。  そんなわけで、米長は常に大声援を背に戦い、勝ってきた。世論の力をもっともよく知っているのは米長であろう。だから人気を維持すべく気を遣いづめであった。棋士やファンとの付き合いから、新聞・雑誌の担当者へのサービスに至るまで怠らず、その代りなんと言われ、どう書かれているかを非常に気にする。  さっきの先崎の文は「偉大なる虚像」と題して、名人戦第三局について書かれたものだが、掲載前に、米長が目を通したと噂《うわさ》されている。要求したのか、編集部側が気を遣って見せたのか知らないが、いずれにせよ、米長はナーバスになりすぎていた。  将棋の力そのものは中原に劣っていないと私は信じている。その力を出せなかったのだ。  と、名人戦について私なりに感じていることはある。だが書こうとすれば、鬱々《うつうつ》たる気分になってしまうし、みなさんもおもしろくなさそうなので話題を転じる。  先崎学五段は羽生と同年の二十歳。ついこのあいだNHK杯戦で優勝した。準決勝で羽生棋王、決勝で南王将を破ったのだから立派なものである。テレビ棋戦といっても、人気番組だから、ここで勝つのはタイトル戦と同じくらいの値打ちがある。実力といい、負けん気の強そうなところといい、将棋界の貴闘力《たかとうりき》といったスターになった。  その先崎が、五月下旬のある日、将棋会館にふらりとあらわれた。見ると坊主頭になっている。  仲間達は「師匠に叱《しか》られたんだろ」と、見て見ぬふりをしていた。例の文章で米長を怒らせた、というわけ。私はまさかと思った。人にとやかく言われて坊主になるような、軟弱な先崎ではない。  とりあえず「どうした。失恋でもしたかい」と言ってみると、「いやとんでもない。明日、森さんと対局するからです」  私には事情がピンときた。こりゃちょっといい話だと思って、 「しかし、森君は、前日坊主になったんだぜ」と念をおすと、 「だから、今、床屋から来たんです」  先崎の文才はたいへんなもので、あちこちにエッセイを連載して大好評を得ている。今年、第三回将棋ペンクラブ大賞を受賞したが、山口瞳《ひとみ》、三浦哲郎、両選考委員が文章がうまいと褒めたから本物だ。ただ、もう一人の中原誠委員は、同意しつつも、将棋指しが本当にうまいのかな、という顔だった。  それはともかく、NHK杯戦で優勝した喜びを書いたのが「一葉の写真」という自戦記で、これには棋譜の解説はなく、自伝的エッセイに近い。  酒と麻雀《マージヤン》におぼれていた十五歳の少年が、ある夏の日の朝、一枚の棋譜に目を止める。  それは森〓二の指した将棋で、なに気なく並べはじめるや、 「中飛車からの強引な捌《さば》きと終盤の綱渡りのような受けの芸は、新鮮で、体じゅうが震えるようだった」  という感動を受け、それからは森の将棋をくり返し並べる日々にかわる。 「盤に向かうとき、僕は森〓二になりきった。手付きを真似《まね》、そして前に仮想敵を座らせた。室岡克彦邸の八畳間はその間だけ順位戦の対局室に早変りした。盤前の敵は、だいたい羽生善治で、気分により森内俊之になり佐藤康光になった」  そうして将棋に対する情熱が蘇《よみがえ》り、第二の人生がはじまり、四段に昇ることができる。  さらに引けば、 「四段になった。十七歳だった。滝先生に連れられてよく競輪に行くようになり、中村さん(修七段)と親しくなって競馬を覚えた。羽生とも親しくなり、自分でも驚くほど実に屈託なく話せるようになった。若いということは無理ができるということだ、という甘い囁《ささや》きを信じて倒れるまで杯を空ける日々がつづき、うなじの匂《にお》いに胸ときめかすことを覚え、その結果必然的に経験する肉塊の重力感を知った」  と、青春の文学を思わせるような一節もある。  このエッセイを読んで、私は人とはちがうであろう感慨をおぼえた。  一つは、仲間や先輩棋士達との関わりを描いているなかに、師であり、父親代り(十歳から十二歳までの間、内弟子生活を送った)の米長の名が出てこないこと。優等生的な棋士が、こういった類《たぐ》いの文を書けば、かならず師の恩を語るものである。それがこの世界のしきたりになっている。先崎は一つのタブーを破った。  第二は、影響を受けたのが、升田、大山でなく、米長、中原でもなく、森〓二だったという点である。そこに先崎らしい反骨心があらわれている。  森については、私も先崎と同じく、列伝中の棋士と高く買っている。特に、B級1組からA級になったころは凄《すご》い将棋を指した。神がかり的な逆転勝ちがつづき、つけられた名が「終盤の魔術師」。それがピッタリだった。  森が中原名人に挑戦したのは昭和五十三年。異能派棋士の登場を、棋界内部は恐《こわ》いものを見るような目で眺めていた。正統でない森の将棋で名人になるはずがない、と言い切れぬ雰囲気があった。  名人戦第一局が始まる朝、森は頭をツルツルに剃《そ》って登場した。前夜祭のときは、当時はやりの長髪だったのだ。中原は薄気味わるさを感じ、気圧《けお》され、フッ飛ばされた。  だが、第一局は快勝したものの、髪の毛が伸びるにしたがい、不気味さが薄れ、森は二勝四敗で敗れた。  このときがピークだったとは思いたくないが、次第に勢いを失い、棋聖になったものの、A級からも落ち、今はB級1組である。それも前期は降級の危険があった。  そんな有様を先崎はどう見ていたか。尊敬してやまぬ森将棋の今のていたらくを情けなく思っていただろう。  そこへ、森と戦う機会がめぐってきた。  森将棋に対する思いは、すでに文で伝えてある。坊主になったのは「森さん、坊主になった頃を思い出して下さい、そして、あの森魔術を私に見せて下さい」と願ってであった。  当日、対局が開始され、十数手進んで序盤の形が決まり、ホッと一息入れるころ、控え室に森が入って来た。私を見て、 「先ちゃん、またまずいことやったらしいね。坊主になるなら、刈るんじゃなく剃るのが本式だ、と言ってやったよ」  フフフッと笑った。  なにも判《わか》ってないな。私は肚《はら》が立った。 「そうじゃない、君と指せるから、と昨日坊主になったんだ。しっかりやれよ」  対局中の者にそんなことを言うのは、エチケット違反かも知れぬが、つい言ってしまった。  森は瞬間うつむき、やがて眼がうるんだような気配があった。黙って対局室に戻り、それからは人が変った。昼休みのときも、自分の将棋の盤が映っているテレビ画面の前から動かなかった。  そうして、中盤で絶妙手を指し、優勢になってからは、あせらず、ゆっくりと勝った。それは勝ち方の見本でもあった。貴闘力に相撲を取らせなかったのだから、立派な横綱である。  第1図は森九段対先崎五段戦の中盤の場面。先手側森陣は、1六に銀がはなれているなど、バラバラである。こんな悪形は、並のプロは指す気になれないが、これをまとめるのが森の芸。次の一手が素晴しい。  第1図からの指し手。 4八玉 6三歩《ふ》 9七角 8六歩 同 角 8八馬 5六飛(第2図) 「人生の棋譜 この一局」にそぐわない例題だが、プロが感心するのは、こんな指し方である。8八の銀を助けようとせずに、逆に取らせるところがにくい。  4八玉と、早逃げするのに気がつかない。というのは、銀を助ける順があるからだ。  すなわち、8二飛7一金8六飛成で、この順を指したくなる。  ところがその先を考えると、8五歩と打たれてうるさい。難しいあやだが、そういうものだと思っていただきたい。  銀を取れと4八玉が、いや味をなくして最善なのである。  先崎も一回はいやだと言ったが、結局8八馬と取らされ、第2図となっては先手が優勢である。最急所(5三の地点)に先手の駒《こま》の利《き》きが集中している。  終ると、「気合いを入れられたんでね。久しぶりにいい将棋を指せた」。森は嬉《うれ》しそうだった。  それから一週間後、森は真部八段と対戦した。順位戦の第一局である。そこで森は離れ業の逆転劇を見せてくれた。もしかしたら、坊主頭は、もっとも魅力的な将棋指しに活を入れることになったのだろうか。  とすれば、次は師匠を刺激するいい手を考えてくれたまえ。  私は、以上のいきさつをいい話だと思い、棋士のなかの物の判りそうな何人かに語った。  ところが、フンと言ったきり、誰も感心してくれなかった。やはり、坊主になったのは、師匠に叱られたのが原因と思っているらしい。   伸び悩みの局面  将棋界にちょっとした異変が起っている。羽生、屋敷等若手棋士が、順位戦でそろって負けてしまったのである。  しばしば書いたように、順位戦こそが本場所で、ここで勝ち、クラスを上げないと名人位に近づけない。その急所の勝負で勝てぬとはどういうことか。順位戦は年に十局のリーグ戦だが、昇級するためには、九勝一敗か、わるくとも八勝二敗が必要。とすれば、初戦の負けは実に痛く、致命傷になりかねない。  あんなに強く、将棋術を変えた、とまで言われた新人類棋士達はどう変ったのだろう。  まず羽生棋王だが、順位戦の初戦の相手は関西の中堅、東和男六段。正統派だが格からいってここは落せないところ。将棋の質も、飛び道具がないから、羽生には戦いやすいはずであった。  戦いは、矢倉模様から羽生が先制攻撃をかけた。よく見かける筋だが、心持ち無理という感じはあった。対して東は、怖がらず最強の受けで対抗した。  午後になってはじまった接近戦は、その後十時間あまりも均衡がくずれなかった。つまり、両者最善と思われる手を指しつづけたのである。将棋は、どちらかが悪手を指さないかぎり形勢が傾くことはない。東に乱れがなかったのは、胸を借りる、負けてもともと、の気やすさもあったろう。  プロ将棋は(囲碁も)強い者が勝つのではなく、強いと認められている者が勝つ。羽生の評価はすでに定まり、いずれ名人は確実と見られている。  そういう立場で戦うのは有利にちがいないが、反面、羽生自身にも負担がかかる。お手本になるような筋のいい手を指さねばの意識が生じた。それは竜王になった後のスランプ状態のときにも指摘したが、すくなくとも今のところ、よい方には出ていない。しがみつく指し方をしなくなったのと同時に、夢のような逆転劇も見られなくなった。投げっぷりがよくなったのも、いくらかは関係があるだろう。  早いもので羽生も順位戦は六期目になる。二上・加藤(一)・中原・米長・谷川などの六期目は、A級に昇っていた。まだB級2組と半分しか進んでいないのでは、だいぶ遅れている。ただ、森下六段や佐藤(康)、村山も遅く、また先輩の高橋九段や島七段などのペースと比べると羽生も劣っているわけでない。層が厚くなり、昇級が難かしくなっているのである。  とはいえ、今期はどうしても昇らなければならない。だから、東と対戦のときも、将棋は攻めているが、心理面では受け身になっていたのだった。長考がつづくのは順位戦では珍しくないが、それにしても萎縮《いしゆく》しているように見えた。  夜戦になっても羽生の攻めが続く。東もやはり正面から抵抗する。こう指して潰《つぶ》されるのなら仕方がない、と開き直っていた。  形勢はすこしずつ羽生が苦しい。初回に失った一点を返せないでいる。いつか羽生魔術が出るだろうと期待していたが、指し手は控え室の予想通りである。つまり、当り前の手しか指さないのだ。羽生の持ち時間はぐんぐん減り、先に一分将棋になった。  控え室で先崎が「まずいな、先に一分将棋になっては。苦しいと相手に教えているようなものだ」とつぶやいたが、顔は笑っていた。ライバルが負けるのはうれしいものらしい。それを言ってやったら、「自分が勝っていればそうでもないけど、自分が負けた時は、みんな負けろ、と思いますよ」  そのころ、羽生と並んで対局している森下もあやしくなっていた。  先崎が控え室の継ぎ盤を覗《のぞ》き込んで、必殺の寄せを発見した。その手を関根茂九段が指せば、森下は負ける。先崎の顔はいよいよ丸い。しかし、関根はその鬼手に気付かず、森下は危機を脱した。  羽生はジリジリと追いつめられ、最後はダメを押された形で負けた。スミ1の一対〇で負けたようなものだ。順位戦ではめったにない。デビューしたころの羽生なら、途中で変な手を指し、五点差ぐらいの不利になったとしても、混戦に持ち込んで逆転しただろう。僅差《きんさ》でも相手がまちがえる可能性のすくない形というものがあり、大山や羽生は、本能的にそれをさけていたのである。この将棋にかぎっては、“本格の弱み”がもろに出てしまった。羽生には、もう一度初心にもどってもらいたい。二十歳の若者に初心にとは変な言い方だが。  話を戻して、森下は勝ち形になったものの最後に悪手を指して負けた。お得意の「いただくものはなんでもいただく」の指し方をすればよかったのに、勝ち急ぎ、それが出来なかった。  羽生は上位なので、八勝二敗なら望みがあり、あと一敗の余裕があるが、森下は下位だから、残り九連勝しなければならない。すでにあとがないのである。  今年になってからの森下は、なんとなく存在感がうすれて来た。目立つ勝ち星がないからだが、群れからはなれ、我が道を行く、の毅然《きぜん》としたところがないと、単なるよく勝つ棋士で終ってしまう恐れがある。大先輩なら大山、後輩なら屋敷というよい見本がある。  森下のことではないが、棋士にも気前のよい者、わるい者がいる。遊びの勘定は先輩が持つことになっているが、年が若くても、それなりの地位に上れば自分の勘定ぐらいは出すプライドがなければならない。勘定をケチり、上位者にごまをすっているようでは、B級1組以上の地位を維持できない。どこかで甘く見られてしまうからである。 「新人類の鬼譜」(『一局の将棋 一回の人生』所収)で紹介した羽生以外の面々はどうか。  成績がよいのは村山五段で、昨年は「遊びをおぼえたのであかん」と師匠の森信雄が苦笑していたが、今年は体調がよいらしく、順位戦では、佐藤(康)五段、阿部隆五段と強敵を破って二連勝。他社棋戦の成績もよいから、なにかでかいことをやってくれそうだ。遊んでばかりいた一年がプラスになったのだ。身近にいて、うるさいことを言わず、むしろいっしょに遊んでやった森も偉い。  こういう話は書いていて気持がよいが、先崎の「一年間文章を書くのを自粛します」にはがっかりした。将棋界は、出る杭《くい》はすかさず打つ。なれ合い、もたれ合いの秩序を乱されるのを嫌うからだが、それに仲間内の嫉妬《しつと》も加わる。そうして異色の棋士がすぐ普通の棋士になってしまう。  森内五段も二連勝だが、相手に恵まれた感もあるので、これからが正念場。絶不調は佐藤(康)で、王位戦で挑戦者になり損ねたのがこたえたか、順位戦では大ベテラン北村昌男《まさお》八段にフッ飛ばされて二連敗。早くも一年が終った。  屋敷も初戦井上慶太五段に敗れ、二回戦は宮田利男六段に勝ったものの、宮田が詰みを逃がしてくれたからの辛勝だった。昇級の大本命にしては出足がわるすぎる。  C級2組では、先崎、郷田が負けた。  こうしてみると、新人類棋士達もその後輩も、なんとなく頼りなく見えてきた。順位戦で昇りそこなうとは、貴重な一年を失うことである。そういう、負けるとなにかを失う勝負の場では、優等生のひ弱さみたいなものが出てしまう。前にも言ったが、わるガキを優等生に変えてしまう将棋界の体質が変わらないかぎり、第二の升田、大山は生れない。大スターが現れなければジリ貧だから、考えてみるとこれは大問題である。  その大山だが、今年も大苦戦のすべり出しである。初戦は石田八段に完敗。二回戦も、南王将と対戦し、手中にした勝ちを逃がしてしまった。  第1図は逆転して大山が勝ちになった場面。と言っても難解だが、第1図で3三桂《けい》と打ち、同角3一飛1二玉3三飛成と角を取っておけば、先手玉に詰みがなく、はっきり大山勝ちだった。その次、4七銀成からの王手王手が気持わるいが、そういうきわどいところを読み切るのは、大山の得意芸である。それを生かせなかった。さぞくやしかったことだろう。  戻って、3三桂に1二玉は、4二飛1三玉4四飛成で先手勝ち。  第1図からの指し手。 3一飛 2二玉 4六金直 5九銀打(第2図)  大山は3一飛と打ってしまった。ここからはどちらが勝ちともいいがたいが、対して2二玉が妙手。読みにない手を指され動揺したのか、4六金直と、大山に大ポカが出た。  4六金直が控え室のモニターテレビの画面に映ったとき、これでも大山が勝ちという評判だった。そこで先崎が「凄《すご》い手がある」とさけんだ。それが5九銀打。羽生が十数手先をパッと読んで「詰まないよ」「そうかな」先崎が首をかしげると、「やっぱり詰みだ」。羽生が得点を返した。先崎にいい手を先に見つけられてしゃくだったのだ。  5九銀打は、ひどい筋悪なだけに気が付きにくい。先手玉は5七からの脱出を狙《ねら》っており、それのお手伝いに見えるから。  第2図からの指し手。 5七玉 6七金 同 飛 同銀成 同 玉 6八飛(第3図)まで、南王将の勝ち。  大山も5九銀打をうっかりしていた。指された瞬間、内心アッ! と言っただろう。羽生と同じく、十数手先の詰み形がひらめいたはずだ。それでいながら、銀で王手をかけられた盤面をじっと見つめていた。どうしたんだろうと対局室へ行ってみると、表情を変えずに考えていた。いや考えているふりをしていた、と言うべきか。その執念があるかぎり、今期も残留だろう。  今や、大山が現役で指していることに意義がある。成績は問題でない。頑張る大山の姿を見て、私も、と思っている高齢者は年々増えているのである。  第2図で3九玉は3七歩《ふ》で先手負け。第3図以下は、7七玉7八角成7六玉6七飛成8五玉8七龍《りゆう》8六歩6七馬8四玉8六龍まで。 一九九一年度 谷川絶好調、四冠王となる  大山肝臓ガンで倒れる。手術して復帰、奇跡の快進撃で、名人挑戦者決定戦まで勝ち進む。不屈の精神力は社会的事件となった。  谷川は二十一歳で名人になってから二、三年の間のころの力を取り戻した。  しかしA級順位戦の最終戦、大山に敗れ、名人挑戦者になれなかった。  名人挑戦者は高橋道雄九段、これも話題になった。  名人・中原誠 竜王・谷川浩司   昨今中国将棋事情  一口に将棋といっても、各国にさまざまな将棋がある。競技人口の多い順にいえばチェス、中国将棋、日本将棋、ここまでがビッグスリーで、他に、タイ将棋、ビルマ将棋、インドネシア将棋、朝鮮将棋などなど。  そもそも将棋は古代インドに発生し、それが西洋に伝えられてチェスとなり、シルクロードを経て東洋に伝えられた将棋は、各国で形を変えた、ということになっている。チェスは、インド将棋発生時の形をとどめているそうだが、東洋の方はなぜルールや駒《こま》の形がちがったのだろう、と、これは私の素朴な疑問である。  もっとも異説もあり、中国人は、中国将棋こそが本家本元であり、歴史もいちばん古い、と主張する。これにかぎらず、ゲームの話になると、各人各様得意なものの長所を挙げてやかましい。  日本将棋を指す人は、取った駒を使えるから、複雑で高度というし、チェスを好む人は、日本将棋は退化したしろもので、ノロノロしてまどろっこしい、という。中国将棋党には、さっきいった中華思想みたいなものに加えて、中国将棋には仏教の影響があらわれており、哲学だ、という人もいるらしい。  私などはそれぞれをおもしろがって聞いているだけだが、仲間達に、チェスや中国将棋はルールが単純だから、やる気になればすぐ強くなれる、と思っている者が多いのは解《げ》せない。取った駒を使えるから、高度で難しいというのは、手を使えるから、ラグビーの方がサッカーより、技が高度で難しい、というのと同じへ理屈である。  チェス、中国将棋、囲碁は、それぞれ秀《すぐ》れたゲームであり、開高健流にいえば、不屈の定跡と特有の奥の深さがある。でなければ、これだけ長く、多くの人に好まれるはずがない。  最近、来日中の中国将棋のチャンピオン趙国栄さんに会う機会があり、日本の将棋を教えたついでに中国将棋を教わり、中国の将棋界事情も聞くことが出来た。  中国では将棋が盛んで、競技人口は一億とも二億ともいわれる。対して囲碁人口は二千万人。当然囲碁と同じく将棋のプロ棋士がいる。といっても社会主義国だからプロとはいわず、身分は体育局の職員で、約百人いるそうだ。女性の棋士もいて、こちらは約五十人。囲碁の女流は男子のトッププロに引けをとらぬほど強くなっているが、将棋はレベルがちがい、男女が戦うことはないという。  私が、日本の将棋界の事情を話し、「やっぱり、碁とちがって将棋は女性に向いてないのかな」と言ったら、趙さんは「そうだ」と断じた。とはいえ、相応の力がなければ国が職員として給料を払うはずがないから、日本でいえば、プロの四、五段は指せるのだろう。日本の女流プロも、将来、その位までは行く。ただ、最高位の名人とか竜王を争うまでにはなるまい。  男子プロのいちばん上のクラスは、大師クラスで、十二人いる。日本でいえばこれがAクラス。そこでリーグ戦かトーナメント戦か、くわしく聞かなかったが、ともかく一位になると、国際大師。チェスならグランドマスター、将棋なら名人かタイトル保持者だ。おもしろいのは、中国では、二位に二回なると一位と同格、三位は三回で一位と同格、となる点で、第一位に対する考え方が、日本や欧米とちがうような気がする。そんなルールなら、米長や、森下、小林健二など、ずいぶん救われたろうに。  私は、チェスは知っている程度。中国将棋は二時間ばかり教わっただけなので、技術面の能書きはいえぬが、同じ将棋であり、共通の部分が多いようである。そして、向う側から日本将棋を眺めると、二つの特徴が見えてくる。  一つは、いうまでもなく取った駒を使えること。もう一つは、王様が強い駒であること。玉は龍《りゆう》や馬にはかなわないが、他の駒に対しては最強である。これに歩《ふ》でも金銀でも、駒が一つ応援に加われば威力が倍加する。六枚落ち、四枚落ちで上手側が勝てるのは、玉が強いからだ。また、そんなにハンディをつけて戦えるのも日本将棋の特徴で、中国将棋も駒落ちはあるというが、飛車二枚を落しては勝負にならないだろう。  と、考えるのは素人《しろうと》の浅見で、趙さんにかかったら、たちまちトン死みたいな手を食ってしまうかも知れない。  それはともかく、日本将棋の真のおもしろさは、王様を自由自在にあやつれるようになってわかる。趙さんにそれをいったら「中国将棋では将(玉)がいちばん弱い」と首をヒネっていた。  趙さんは一晩で日本将棋をおぼえ、二、三局指したら初段を負かしてしまった。驚くべき上達ぶりだが、本職の力が役立ったのにちがいない。将棋のプロだって、チェスや中国将棋にちょっと熱中すれば、アマ初段程度は負かせるようになる。ただ、本筋を知らないから、それ以上強くなれない。  それと同じでは困るから、趙さんには本格的に教えて、うんと強くなってもらいたいのだが、将棋連盟はどうも不熱心である。中国に将棋を普及させる、貴重な一歩であることがわかっていない。中国人が将棋の駒を見たとき、「これは自分の国のゲームだ」と思うはずで、その利を生かさぬという手はない。  趙さんも、日本の将棋はおもしろい、という。熱心に勉強し、来日して一ケ月、実戦数三十局ぐらいで、プロと二枚落ちで指せるまで上達した。  物はためしと、中田宏樹五段と二枚落ちを指してみると、趙さんが負けはしたが、珍妙な棋譜が出来上った。中盤で中国将棋の手筋らしき手が出たからである。見物していた斎田晴子三段は「瞬間アッケにとられたが、よくよく考えてみると、一理ある手でしたね」と感心していた。うんと強くなって、中国将棋の感覚を生かした新手筋を発見してくれるかもしれない。八月まで滞在するそうで、その間の上達ぶりは後日報告するつもりです。  話題をかえて、日本将棋界の最新事情。  タイトル戦関係では、王位戦七番勝負がはじまり、棋聖戦五番勝負が終った。  棋聖戦は、屋敷棋聖と南王将の対戦だったが、二勝二敗から最終戦で南が勝ち、棋聖位を奪った。  第1図は第五局の最後の場面。  商売だから棋譜を並べるのは苦にならないが、それでもこんな凡戦のときは、暑さがこたえる。  第1図からの指し手。 4六歩 5四歩 4七歩成 4四歩 同 飛 同 馬 同 銀 6三歩成(第2図)  なんの変哲もない平凡な手順である。みなさんが指してもこうなるだろう。最後の6三歩成(これが勝ちを決めた手)は難しいかも知れないが。  5五歩の金取りに対し、金を逃げることは出来ない。とすれば4六歩は仕方がないとも思えるが、以下第2図まで、はっきり後手負けだ。横利《よこぎ》きの駒がないから、先手玉に一手すきがかからず、したがってまぎれがない。  せめて4六歩では、6五銀と暴れるべきだった。5四歩6六銀同金6八銀。これなら一手すきである。といっても、先手側には受ける手があり、やはり南が勝ったろうが、実戦よりまし、ということはある。  こうして南は二冠王になった。「花の五十五年組」も最近はくたびれてきたらしくみんなパッとしないが、南だけは堅実に勝っている。島は「苦労がないからでしょうね」といっていた。  それにしても屋敷はさっぱりである。今期は順位戦も伸びず、見るべき星がない。化けの皮がはげた、とは思わぬが、将棋になにが出てくるかわからない、の不気味さが消えては、ただの若手でしかない。羽生など新人類棋士も含めて、二十歳前後の若手棋士達は、早くも難しいところにさしかかっている。  一方、ちがうグループから、中田宏樹五段が頭角をあらわした。  王位戦の挑戦者になり、谷川王位との七番勝負で二連勝している。若手棋士達に評判を聞いたら「内容もよく、中田君が王位になるでしょう」。不思議でないという顔だった。  中田と聞いてもご存知の方はすくないだろう。しかし、デビューした年に勝率一位になって、玄人《くろうと》筋では早くから買われていた。あまり注目されなかったのは、四段になったのが羽生と同年度だったせいである。以来、羽生が脚光を浴びている間、じっと力を貯《たくわ》えていた。  囲碁将棋には、修業する、というイメージがある。若いころは先輩にもまれ、付き合いの苦労を重ねながら腕をみがく。その伝統が、新人類棋士達の出現によってやぶられたのはご存知の通り。しかし、彼等が十九、二十歳でタイトル保持者になったのなら、二十五、三十歳のころには無敵の名人になっているかといえば、そういった気配はなく、むしろ伸び悩んでいるように見える。  対して中田は、二十一歳で四段とおそく、二十五歳の今期もC級2組にとどまっているが、最近の成績が凄《すご》い。十八連勝を含んで二十二勝三敗というからたまげる。四月から七月までで前半戦を終ったが、勝率、勝数、対局数の各部門でトップ。連勝部門を加えれば四冠王である。現在最強の棋士なのだ。  棋風は受け身で、派手さはない。しっかり読んで堅実なかわり爆発力がないから、十八連勝もしているなんて、誰も気がつかなかった。今、才能が開花した、という感じである。  人柄は温厚。棋士室にはあまり顔を出さず、たまに居ても、継ぎ盤を眺め、仲間が気の利いたことをいうのを聞いているだけである。といっても無愛想ではなく、なにか話しかければ、ニッコリしてきちんと答える。将棋会館の外でいっしょになったことがないのでよく知らないが、好青年だとは思っていた。特に群れたがらないのを好ましく見ていた。狭い世界で長く下位クラスに居ると、知らず知らず仲間や先輩に媚《こび》るようになる。するといちおうの心地よさはあるが、反面甘く見られて勝負に勝てない。一匹狼《おおかみ》を恐れぬ気持の強さがあれば勝てるが、それも度をすぎるといじめにあう。やっかいな世界だが、中田には、穏やかな中にもナメられない威圧感がある。それが大きな武器で、こういうタイプはきっと強くなる。   出るか、将棋界のロッキー  九月上旬のある日、東京将棋会館の対局室に、中原、谷川以下そうそうたる顔ぶれがそろった。  やがて夕方になり、田中(寅)八段が対局を終えると、彼は感想戦もそこそこに、森九段、小林八段など有力棋士に声をかけて回っている。近くで集ろうというわけ。中原名人も終り、隣でまだ対局している谷川竜王に、新宿で待合せを約束して席を立った。  対局が終ったあと、気の合った者が飲みに行くことはよくある(最近はそれもすくなくなったが)。それは自然の成り行きでそうなるのであり、この日のようにことさら誘うのは普通でない。  実は最近、突然、名人戦に主催者問題が起ったのである。現在は毎日新聞の主催で行われているが、これを他社に移そうというのである。主催者を移そうとの動きは、棋士にすれば生活に直接かかわる問題だから、動揺するのは当然だ。  こういう問題が起ると、最大の影響力を持つのは時の名人。と共に強い者、上位の者の発言力が強い。ただ、中原と米長、大山と中原といった巨頭同士が、さしで話し合うことはめったにないようである。中原と米長は対戦が多く、米長が四冠王になったころは、家内よりいっしょにいることが多い、とボヤいたくらいだが、二人きりで政治的な問題を話し合ったことは、一回だけだそうだ。つまり、中原は権謀術数を好まぬ人柄なのである。しかし、今回はそうもいかなくなった。  名人戦をめぐって具体的になにが問題になっているのかは、まだ書けない。いずれ結着がつき次第報告するが、話は始まったばかりで、この先どうなるか判《わか》らないし、棋士は内輪の話が外にもれるのを嫌がる気質がある。獲得賞金の公表すら許さなかったのもその一例である。余談になるが、名人位の賞金がいくらか知っていますか? 実は私も知らない。  私がいうのも変な話だが、将棋連盟とはいかなる時代でも愚直、よってなんらやましいところのない団体で、だから内情を全部将棋ファンに知ってもらえば、かえって助言やら支持を得られると思うのだが、逆にかくそうとし、損をしている。  そもそも名人位とはなにか。  これは一社が主催する棋戦のタイトル名というだけではない。この名称は、将棋界の唯一《ゆいいつ》といってもよい財産なのである。  かつて、京都の名刹《めいさつ》が、拝観料をめぐる税制に抗議して、門を閉じるということがあった。そのときオヤッと思ったのは、金閣寺・銀閣寺などにしても、法律的な所有権みたいなものは寺院側にあるのだろうが、本来それ等は、国と国民が大事に守ってきたもので、国民共有の文化財ともいえよう。とすれば、拝観停止という抗議の仕方は、筋ちがいということになる。お坊さんにはそんな意識がなかったようである。  名人位にも同じことがいえる。織田信長の時代から、徳川幕府の庇護《ひご》を受けつつ、えんえんと受け継がれてきたが、その間、将棋ファンも、これを棋界第一の地位と認め、守ってきてくれた。名人位は、プロ棋士だけのものではないのだ。名人戦をどうすべきか、は棋士が決めるにせよ、その前にファンの意向を聞くべきだが、そんな着想はまったく浮ばないらしい。私ごとき者が呟《つぶや》いても、てんで耳をかしてくれない。一般棋士の議論といえば、あっちからこっちへ移せば、契約金がいくらプラスになり、その代り棋戦が一つだか二つ減っていくらマイナスになるとかの足し算引き算ばかり。世の有識者で、一喝してくださる方はいないだろうか。  話題を転じて、勝ち負けの面でも、流れがやや変ってきている。  羽生、屋敷に代表される、早熟の天才型の勢いが弱まり、目立たないが着実に力をつけた新鋭が頭角をあらわした。前回紹介した中田(宏)五段がその例だが、つづいて小林宏《ひろし》五段が、竜王戦の決勝三番勝負まで勝ち進み、仲間をびっくりさせた。  まず、王位戦で谷川王位に挑戦した中田のその後だが、中田二連勝まではよかったが、第三局から第五局まで三連敗。ガラリ雰囲気が変ってしまった。  勝負所は第五局。谷川有利の中盤戦で、中田が敵玉頭に馬を捨てる勝負手を放つと、これが図に当って形勢逆転。寄せに入ったころは中田勝ちと思われた。  それが第1図。谷川が4三銀と打ったところだが、投げ場を作った手であろう。  では、この次の一手、どう指すか。  そんなの考えるまでもない。8五歩《ふ》に決ってるじゃないか、といわれるだろうが、そう、それが正解である。ところが、中田は歩を打たなかった。  第1図からの指し手。 4三同金 3二銀 5一玉 7三角成(投了図)まで、谷川王位の勝ち。  なんと、4三同金と取ったのである。すかさず3二銀と打たれ、以下7三角成と王手金取りをかけられて、瞬時にして終った。  手順中、5一玉で5二玉は、4三銀成同玉6一角成で詰み。投了図は、6二金と受けても、8四馬と抑えの金を抜かれて問題にならない。その場にいた者、棋譜を見た者、みんながアッケにとられた終り方だった。  第1図で8五歩と打てば詰んでいる。9七玉8六金同金7七龍《りゆう》左同角同龍8七金打8八角9八玉9七歩8九玉7九龍まで。他に変化はあるが、どれも追い詰めで、プロなら一目の筋である。詰まさないまでも、一本8五歩を打っておき、9七玉に4三金でもよかった。  なぜ誰でも打つ王手の歩を打たなかったのか。私なりに想像してみた。  どう指しても勝ち、と楽観したのだろう。勝ちを急がないあたりが中田の強いところだ。いや、詰まそうとしたが、9筋に歩が利《き》くのをうっかりしたのか、などなど。  中田が負けた数日後、いっしょに飲む機会があったので、そこのところを訊《き》いた。  彼は元気のない声で答えた。 「いやあ、負けと思い込んでいたので、相手の王様を見てなかったのです」 「それ本当?」思わず訊き返した。 「ええ」ますます声が小さくなった。 「ピッチャーゴロを捕って、悠々一塁へ投げたら大暴投、といったものか。しようがないよ」  慰めにもならぬことをいうと、「そう思っています」と笑った。合いづちを打つときちょっと笑うのと、最初に、いやあ、というのは、棋士独特のクセである。  それにしても本当のプロは、投げる前にいっぺん王手をかけてやれ、などとは思わぬらしい。私なんかは、だめと知りつつ、いっぺん王手をかけてみたい誘惑に負けることがよくある。  第1図の十数手前から中田必勝の局面になり、その後も最善手を指しつづけながら、負けと判断を誤っていたとは合点がいかぬが、谷川の威圧感に負けたのかも知れない。  痛い負けでカド番。このまま第六局も負けて引き下るのでは、挑戦の経験がプラスにならない。やっぱり格がちがうのか、のコンプレックスが残るだけである。四月から七月にかけて十八連勝もしたのに、八月の成績は二勝六敗と無残な星。調子は急降下だが、そういう場面で踏んばるのが真の強者である。大山も中原も、そこをしのいだから、今日の姿がある。中田頑張れ!  さて、今回の主人公小林宏五段。  四段になったのは昭和六十年、二十三歳のときで、どちらかといえば出世が遅い。将棋界は、素質を歳《とし》ではかるわるいくせがあり、そのせいでさほど注目されなかった。実際、勝ったり負けたりがつづき、見るべき成績もない。話題になったのは、将棋より山登りの方で、ある年の冬、谷川岳で行方不明を伝えられたりした。厳冬期の谷川岳で岩登りとは、並の趣味ではない。正直な話、どんな将棋を指していたかは憶《おぼ》えていないが、風雪にさらされた顔で対局に集中している姿は憶《おも》い出せる。それは苦行僧のように見えたものである。  四段になってからの数年、気がつかないうちに力をつけ、昨年、竜王戦のランキング5組で優勝。さらにC級1組に昇級して実力をしめした。  しかし、これだけの実績では、世間も仲間も強い、とは認めない。今年の夏、小林は島七段と対戦し、それが竜王戦の準々決勝と知って、へえ、そんなとこまで勝ち上っていたのか、とみんなが驚いたくらいだった。島は第一期竜王になった実力者で、小林も大苦戦した。だが、しゃにむに攻めて勝ち。  その翌朝、ヨーロッパへ旅立った。飛行機の中でうつらうつらしながら、前日の会心譜を思い浮べ、さぞよい気分だったろう。反対に、負けていれば記憶を失いたくなる気分になるから、至福の時は、得るべくして得た報酬というべきだ。  それはよいとして、夏休みにヨーロッパなんて優雅でうらやましい。モンブランに登ったというので、なんだその程度の山登りか、といってやったら、「とんでもない、酸素ボンベなしで四千米《メートル》以上の山を登るのは大変なんですよ。高山病にかかり、なにも考えられなくなる。気分がわるいとは、ああいうものかと思いましたね」といろいろ症状を語ってくれたが、それこそ雲をつかむような話で実感がわかなかった。  無事帰国して準決勝の相手は塚田八段。これも強敵だが、小林が終始うまく指し、快勝した。「まさかここまで勝てるとは思いませんでした」とは局後の感想で、正直でかざらない人柄があらわれている。  塚田と戦った日、私も将棋会館にいた。  勝った小林が控え室に入って来ると、待ちかねたように富岡英作六段が「さあお祝いだ」と声をかけた。小林はにっこりし「みなさんどうですか、今日は私がおごりますよ」と堂々といった。  こういう光景はありそうでない。棋士には勝った者を妬《ねた》む気持がどこかにあって、素直に、お目出度《めでと》う、といえない。勝った側も、その気配を察して、声をかけにくい。勝って淋《さび》しい思いをした者も存外多いはずだ。そこを「どうです」といえるのが小林の人柄である。こんなに誰からも好かれている棋士が、最高の位に手がとどくところまで勝ち上った、などは例がない。もし、森下六段、谷川竜王を連破して竜王になったりすれば、ロッキー将棋版だ。  そんなことを想像すると、わくわくしてくる。決勝三番勝負の相手は森下六段。最強の相手だが、対戦成績は小林の三連勝。肝心の棋風については、対森下戦の結末と共に次回で——。   健在なり、大山マジック  九月のある日、大山十五世名人と羽生棋王が対戦していた。  これはあくまで仮定の話だが、名人戦の主催紙を変える変えないの問題がこじれ、ついに将棋連盟が二つに割れたとする。  名人位は宙に浮き(実際は中原名人がいるからあり得ない)、毎日派と朝日派とで争い、将棋で決着をつけることになる。勝負の世界はこうでなきゃいけない。  現状維持派は、中原、米長、谷川などのなかから、だれを出そうかと協議していると、大山が代表を買って出た。  一方の代表は羽生だ。二上会長の弟子、という筋からそうなるだろう。  かくして、名人位を賭《か》けて、一番勝負となる。  そうなったら世間は沸くだろうな。いや昔とちがって、全然受けないかな。どんな将棋になるだろうか、大山がとっておきの技を出して、勝ったりしたらおもしろい。  などと想像をめぐらして楽しんだこともあった。だから、大山対羽生戦に興味をひかれたのである。  現実の大山対羽生戦は、そんな大勝負ではなく、天王戦の準々決勝で、大山は気楽に、根をつめて考えるでもなく、ひょいひょいと指していた。  中盤は大山がよさそうだったが、次第に羽生が力を出し、終盤は必勝形、もう勝ったと思われたとき、大山が手品のような手を指し、羽生がアレッ? と首をひねった時は、もう引っくりかえっていた。  昔のような凄味《すごみ》、迫力はなくなったが、大山マジックは健在で、すこし前には、絶好調、いちばん強い棋士の、森内五段をだましている。  話がそれるが、夏までは、いちばん強い棋士は中田(宏)五段だった。しかし、夏場の王位戦で谷川王位に挑戦し、出だし二連勝したあたりがピークで、以後四連敗。王位になり損ねた。代って登場したのが、小林宏五段。竜王戦の大活躍は前回お伝えしたが、決勝で森下六段に敗れ、将棋版ロッキーは出現しなかった。  ただ決勝まで勝ち上った実績は認められ、仲間うちで大きな顔(わるい意味でない)ができるようになった。  秋になると、森内五段の勝ちっぷりが目立ち、勝率部門のトップに立った。「オールスター勝抜き戦」で上位陣を相手に七人抜いたが、大山に止められた。この冬、誰が絶好調男になるのかは、見当がつかない。  大山に話を戻して——。  二年前の春、会長を退いて以来、文化功労者に選ばれたり、現役のA級で頑張りつづけたりで、名声はゆるぎないものの、連盟内部での影響力はすこしずつ薄れていた。  そんな有様のとき、名人戦問題が起った。大山は毎日と親密だから、移すなんてもっての外、の現状維持派。問題は、主流派ともいうべき、高柳系(中原・田中〈寅〉)、佐瀬系(米長・高橋)、内藤系(谷川)の意向だが、いずれも信義上、今移すのは好ましくない、との考え方を明らかにした。  こうして、大山と中原、米長は同じ立場になった。昨日の敵は今日の友、対局室にいても、かすかに感じていたであろうわだかまりが消え、座り心地がよくなったはずだ。  九月の棋士会に、加藤(一)九段が出てきて熱弁をふるい、朝日に移ることの利を説いた。その大演説が、となりの部屋で対局中の、大山と中原の耳に入り、苦笑していたそうだ。 「加藤さんが立場上ああ言うのはしょうがないよ」と大山は気にしなかったが、中原は肚立《はらだ》たしかったらしく、阿部五段と指した将棋はめちゃくちゃだった。  大問題が生ずれば、大山の存在感が際立《きわだ》ってくるのは当然だが、それにしても凄いのは、ここでやらねばならぬ、と思ったときの実行力である。うじうじ考えたりせず、体当りする。  たとえば、大山の平身低頭のエピソードは伝説になっている。  将棋連盟側に手落ちがあり、相手が激怒したことが何度かあった。そんなとき、大山は、言い訳をしたり、他人のせいにしたりはしない。自ら出向き「申し訳ありません」と、畳に頭をつけた。そして、相手が「許す」と言うまで、何時間でも頭を下げたっきりだった。  大名人にそうまでされては、たいがいの人は許す。問題は解決し、以前にも増して親密な間柄になった。  今回も似たことがあった。毎日への支持を得るべく、米長道場を訪れた。  運転手役をした田中(寅)八段は「予定があったのを変更してまで、行こう、と言われたんですよ。びっくりしました」と言ったが、それはそうだろう。大山が米長に会いに行くなんて、思いつかない。  大山は頭を下げに行ったわけではない。話し合いなのだが、米長だって、そうされればわるい気はしなかったろう。  こんなことがあって、今回の問題は、なんとなく現状のままで一件落着、となりそうである。そして、次期、大山が会長にカムバックするのではないか、の声も出はじめた。  大名人、大先輩の精神構造をあれこれ推測するのは、おこがましく気恥かしくなるが、あの精神面のタフさは、棋士という人種のなかでは異質という感じがする。  棋士のほとんどは感性が鋭く、年を取るとともに、被害妄想の傾向が強くなる。それが精神を急速に老化させるらしく、四十、五十あたりを境に、勝てなくなってしまう棋士が多い。  大山は棋士中の棋士であるからして、根っからの楽観派とは思えず、対人関係で小心なところを見せたりするが、被害妄想の気配がない。いや、生じてもそれを自分の心の中で打ち消す、自信と意志の強さがある。だから、あのように長持ちするのだ。  中原も、人の気持や思惑を気にしない方だから、棋士寿命が長い。  将棋界には、大人の世界には珍しい、いじめの構図があり、いじめにめげて勢いをなくしてしまう棋士もいれば、いじめと逆のことが起って、勢いづく棋士もいる。最近の大山の勝ちっぷりを見て、それを痛感させられた。  人付き合いとは難しいものだが、棋士は世間知らずである。常識にはずれる行いがあっても、世間の人が許してくれる部分もある。だから生きて行けるのであり、甘えるところがあるのは仕方がない。  大山の世代は、内弟子、入隊、戦後の混乱、と身をもって苦労を味わってきた。さっきの平身低頭にしても、人生の知恵でもあろう。さがって、中原、米長の世代までは内弟子経験者が多い。二人は子供の頃から才能を認められたエリートであり、大事に育てられたが、それでも師匠のもとでの生活は、人にいえない苦労もあったはずだ。  飛んで、花の五十五年組(三十歳前後)から新人類棋士世代になると、ほとんど苦労知らずである。たとえば、金の貸し借りの経験はまったくない。谷川、羽生といった超エリートはそれでも済むが、その他大勢の若手が、金の苦労を知らぬのでは、将来困る場面が生じるだろう。先のことより今、金を稼いでも、使い方を知らぬとはもったいない。  と、やきもきしても、それこそ余計なお世話というもの。どうにもならない。  この十月の三、四日、棋士の旅行会があり、愛知県の伊良湖《いらご》岬へ行ったが、宴会が終るころ、森九段が、ブラックジャックをやろうと、あちこち声をかけた。しかし誰も気乗りしない様子。「昔はあんなに熱中したのにな」とがっかりしていた。  で、夜なにをしたかといえば、ほとんどホテル内のカラオケバーに行ったらしい。それも、会費三千円。「あまり飲むと予算オーバーになりますから、その点よろしく」なんて幹事の注意があり、はなはだスケールが小さい。  またまた昔話になるが、二十年前の旅行会のときは、芸者を呼んでのドンチャン騒ぎ。あんまり気前のよいのに、幹事の若い青野君は恐れをなし、「すみませんが、十二時になったら芸者さんを帰して下さい」と言うと、「なにいうてるねん。わいが勘定払えばええやろ」と一喝された。  そして一夜明けると、莫大《ばくだい》? な花代、飲み代《しろ》は誰も知らん顔。律義《りちぎ》な青野君は、責任上自分が弁償しようと思ったそうだが、結局、連盟が払った。以来、青野八段は、棋士くらい、いいかげんな人種はいない、とボヤキつづけている。  酒も飲まず、博奕《ばくち》もやらず、囲碁、麻雀《マージヤン》大会もあったが、参加者少数。男ばかり、なんのための旅行か判《わか》らず、私は翌日のゴルフに備え、早々と寝てしまった。  元来、将棋指しは遊び事が好きでうまかった。囲碁、将棋、チェス、麻雀、それに花札の室内五種競技をやったら、大山、真部は有力なチャンピオン候補だろう。  次の機会に、棋士の、室内ゲーム上達法や、ゴルフはどうやったら上達しないか、の例を紹介しよう。  さて、今回の棋譜は、A級順位戦の谷川竜王対米長九段戦で、三連勝同士の対決。  第1図は谷川が1五桂《けい》と打った場面だが、これが決め手だった。  第1図からの指し手。 1五同馬 同 歩《ふ》 8八金 同 金 同歩成 同 玉 8六飛 8七歩 同飛成 同 玉 7五桂(第2図)  1五同歩と取るのは、1四銀と打って詰み。だから同馬だが、同歩と取って後手玉は必至。そのとき、桂を渡しても自分の玉は詰まない、と読み切ったところが強い。太刀先を見切った剣豪のようである。  第2図からの指し手。 7八玉 6七銀 同 銀 2八飛成 4八香《きよう》 6七桂成 同 玉 7五桂 7六玉(投了図)まで、谷川竜王の勝ち。  投了図以下、6七銀8六玉8五歩9七玉8七金同馬同桂成同玉。これで持ち駒《ごま》は角一枚。6九角と打っても、9七玉でとどかない。  このように、4三馬が受けに利《き》いて、わずかに詰まない。詰みを読むのではなく、詰まぬのを読み切って勝つ。プロの勝ち方の典型である。   将棋指しがゴルフをすれば  以前、囲碁の観戦記を書いていて困ったことがあった。上村邦夫対趙治勲戦だったが、若いころの上村君は気風《きつぷ》がよく、布石の手ちがいに嫌気がさしたか、五十手あまりで投げてしまった。  ご存知のように、新聞観戦記は一局を七回ないし八回に区切って掲載するが、五十手では一日数手しか進まない。書くことがなくなり、窮余の策で、実戦とは関係なく、初段になるまで、と題し、囲碁上達法を書いた。定石に頼るな、自分の信じる手を打て、プロの打ち碁をひたすら並べろ、といった具合である。観戦記としては邪道だが、幸いに好評を得た。  素人《しろうと》の私が、なんでえらそうなことを書けたかといえば、将棋上達法の将棋を囲碁に代えただけにすぎないからである。どちらも上達のコツは同じなのだ。  では、将棋指しが碁も簡単に強くなれるか、同様に碁打ちも将棋が強いか、となると、そうともいえない。升田、大山、花村、丸田、米長、真部、と県代表にあと一歩、といったクラスもいるが、三十代以下の若手はレベルががくんと落ちる。碁に興味がない、というわけでもなさそうだが、急速に強くなる者が出てこない。競技人口と強豪の割合は、一般の人に比べて特別高いということもなさそうだ。  碁と将棋は親戚《しんせき》筋、共に頭を使って勝負する商売だし、上達のコツも同じなら、もっと強くなって当然だが、強くならない理由は私にも判《わか》らない。野球の選手がゴルフをやると、びっくりするような球を打つが、それと似た感じがないのである。  囲碁将棋には「定石」「定跡」というお手本がある。で、それを覚え、その通り打てばうまくなれると思うのは誤解で、定石に頼るのはむしろ害になる。特に将棋の場合、相手が本に書いてある手を指してくれるはずがないからだ。  結局、物を言うのは応用力で、定石を知った上で、選別能力を働かせ、自己流を作り上げるしかない。となれば、碁と将棋はちがうゲームで、強くなるには、それなりの才能を必要とするのである。  もう一つ強くなるコツは、凝る、ことだ。  前にも書いたと思うが、囲碁、将棋は、短期間でよいから、凝らないと強くなれない。スポーツとか美容体操は、時間はすくなくとも、休まず長期間トレーニングをつづけることが効果的なのだろうが、将棋は毎日休まず一時間勉強し、それを六ケ月つづけても、さして強くならない。それより四六時中将棋のことばかり考える生活を、三ケ月もつづければ、だいたい初段になれる。それほど熱中できるか否《いな》かも、また才能なのである。  若手棋士を見ていると、いまだに将棋に凝っている。もちろんそれは立派なことだが、余技を知らずして、人生おもしろいのだろうか。人ごとながら、いらぬ心配をしていたところ、どうした風の吹き回しか、ゴルフ熱が発生した。世間のブームがさめかかったころに始めるのが将棋界らしいが、羽生棋王はすでにゴルフ場でプレーし、森内新人王も近くコースに出るそうだ。先日も控え室で佐藤(康)五段が誰かに「そんなに練習して、すこしはうまくなった?」とからかわれていた。顔はたしかに日焼けしている。  他に中田(宏)五段、中川五段、郷田四段等々、本欄でおなじみのスター候補生もやりはじめたらしい。  ただ、先崎五段は、酒を飲んでの議論が、森下六段は、使うより貯《た》める方が好きらしく、ゴルフをやったとは聞かない。すこし先輩の、小野(修)七段や中村七段も数年前に始めたが、今はやらない。上達しないので、つまらなくなったのだろう。  グループの幹事役は、武者野勝巳《むしやのかつみ》五段、泉正樹《まさき》六段で、こちらは十回以上ラウンドをこなしている。自信がついたかコンペをやることになり、私も誘われた。大体は察しがつくから恐れをなしたが、野次馬根性は人に負けないから参加した。結果は思っていた通りで、参加六名中、四人が1ラウンド130以上叩《たた》いた。  そもそも将棋指しの性格的特徴は、強情で人の意見に耳を貸さないことである。その点は、上は中原名人から、万年Cクラスの棋士に至るまで、程度の差こそあれかわらない。  だから、立派な体格の二十代の若者が、ハーフ60以上叩くなんて恥だぞ、と言ってもこたえないし、いわんや、グリップをどうしろ、肩を回せ等々の助言は無駄なこと。ウンウンとうなずくが、みんな耳を素通りしている。私がヘボなせいではない、プロが教えても同じだろう。  以前、対局中の雑談でゴルフの話になった。練習場へ行くのはいやだ、プロに教わるのはバカらしい、なんて言っているので「基本だけでも教わった方がいいと思うけどな」恐る恐る言ったら、すかさず遠くで長考中の大長老から一言出た。 「君はそういうけど、将棋指しに教わって強くなった人いるかい」  ま、いくら叩こうと勝手だが、チョロチョロ、モタモタしていれば、後ろの組が追いつき、不愉快になるだろう。みんな貴重な時間とお金を使ってプレーしているのだ。そこに気が回らない。自分がいくつ叩いたか数えていればよい、ぐらいにしか思っていない。考えてみると、他人への気くばりとかマナーにうるさいゴルフは、将棋指しにもっとも向いていないスポーツなのかも知れない。だから、始めてもすぐやめてしまう人が多い。  棋士でうまいのは、大内延介九段と米長九段。大内九段はかっこはわるいが、パットの名手で勝負強い。反対に米長九段は、プロの教えをまもり、練習熱心でフィニッシュもピタリ決っている。マナーもよく、アベレージゴルファーのお手本だ。二人とも1ラウンド80から90の間で回る腕前。  囲碁将棋に、その人の性格があらわれる、とは言えないが、ゴルフには人柄が出るかもしれない。  個性的なのは大山十五世名人。なんでも二十代のころ、健康によいから、とすすめられたが、そのときは「こんなおもしろいものを覚えると将棋にさしさわる」と言ってやめた。多分、打ってみたが当らないのでおもしろくなかった、が本当だろう。ただ将棋にさわると思えば、どんなことでもやめられる克己心はたいへんなもので、今のエピソードも真実味がある。  熱心になったのは二十年くらい前からで、そのころ、大山夫妻といっしょにプレーする機会があった。  大山夫人はゴルフスクールにかよって腕をみがいた正統派。あるショートホールで見事1オンした。ティーグラウンドを降り、クラブをパターに持ちかえて、旦那《だんな》のショットを見ると、これがチョロ。打ったご当人はわるびれずすたすたと歩いて行き、構える間もなく打てば、またもチョロ。すると夫人は近寄り「なにもたもたしてるの」パターでおしりをちょんと叩いた。威圧感並ぶものなき大名人も形なしだが、見ていて微笑《ほほえ》まずにはいられない夫婦愛であった。  大名人は、健康のためにゴルフをする、がモットーで、早く歩くことを第一とする。5番アイアンを主武器に、着実に前進し、パットはどうでもよし、スコアは二の次、とにかく、歩け歩けである。  それでも、勝負師であり、人に軽蔑《けいべつ》されるのをもっとも嫌う性格だから、内心スコアがわるければおもしろくなかったはずだ。自己流をみがいて、今はハーフ50台は楽々、1ラウンド100を切ることもしばしばと聞く。そこまでうまくなれば、もうやめられない。対局が優先順位の第一で、第二がゴルフだそうである。  怒らすと怖いのが将棋指しで、カッとなればとことん熱中する。若手に碁の強豪があらわれぬのは淋《さび》しいので、碁を打っていれば、悪口雑言を浴びせ、カッとさせようとするのだが、どうも成功しない。今度はゴルフで、誰かをカッとさせたいのだが、新人類棋士の感性は計りかねるので自信がない。  もし、挑発が成功し、羽生でも森内でもよいが、凝ったなら、シングルになるだろう。一人とび抜けるとどうなるか。負けるもんか、と競《せ》り合うのでなく、みんなやめてしまうのである。  棋士の心底には、将棋の強い者は、なにをやっても弱い者よりうまいはずだ、の固定観念があり、ゴルフで差をつけられれば逆の論理で、将棋で差をつけられたような気分になり、しゃくにさわるらしい。  ことゴルフに関しては、囲碁棋士は感じがちがう。こちらのゴルフ熱は尋常でなく、武宮十段以下、シングルが十人以上いる。  みんな定石をきちんと学ぶところは将棋棋士と大ちがいだが、凝ると恐ろしいところは同じで、対局中も休み時間になると、日本棋院の玄関で、火花を散らしながら、アイアンの素振りをしているのを見かけたことがある。碁が強ければゴルフも……の観念がうすく、その分大人なのである。  今回はとりとめのない話になったが、紹介する局面も同様。私の言わんとするところを理解していただけぬかもしれない。  第1図は、森下六段対森内五段戦で、新人王戦の決勝戦第二局の中盤。  先手の飛車が5七にいて、後手が4五桂《けい》と飛車取りに打ち、先手5六飛と逃げた局面だが、森下は、5六飛と浮かれるのをうっかりしたと言う。そして局後に、「第1図は後手に勝ちがありません。どうやっても私が負けです」と断じた。  当り前の5六飛を見損じたとは解《げ》せぬが、それがポカというもので仕方がない。  それより驚くのは、この段階で勝敗の決着を見きわめられる判断力である。相手が森内で、終盤の正確さからして間違えてくれそうもない、というばかりでなく、自分が先手側を持てば、以後誤りなく勝ち切ってみせる、とも言っている。五回、一点リードすれば逃げ切れる、と言ったのと同じである。  第1図からの指し手。 3七桂成 同 角 6四歩《ふ》 7四銀右 2四歩 1四歩 同 香《きよう》 2五歩 同 歩 5四桂 3一角 1六歩 同 歩 1五歩(第2図) 「三歩持てば継ぎ歩と端攻め」の例で、森内は持ち歩を使い、2五歩以下香をせしめた。  第2図は先手香得だが、歩切れなので、それほどの差ではない。しかし、森内はこの後誤らず、二度目の新人王戦優勝を決めた。強すぎる将棋は、逆転劇がないのでつまらない、とはひねくれた見方だろうか。   人格の勝利  大山十五世名人が、肝臓ガンで、入院手術した。  以前大腸ガンの手術をし、回復して順位戦に復帰するや、名人挑戦者になって、世間をアッと言わせたのは、昭和六十一年のことであった。  それがあり、ガンの転移再発には細心の注意をはらっていたが、二、三年前から肝臓に影が認められた。考えた末、手術を見送ったが、今度入院すると決めたとき、「やり損った。あのとき切っとけばよかった」と呟《つぶや》いたそうである。そして、有吉九段との対局中の雑談で、「肝臓がなくなったら、どうなるのかねえ」と笑っていたという。恐るべき、というのか形容の言葉がないほどの気力で、落ち込むどころか、ガンという難敵と戦うのを楽しみにしている気配さえ感じられる。十二月上旬に手術したと聞くが、きっと元気な対局姿が見られるだろう。  さしあたって気になるのは、大山の順位戦の星だが、それについては、今回の棋譜でふれることにする。  ガンとの戦いといえば、連想されるのは囲碁界の藤沢秀行王座で、ガンにおかされて十年になる。くわしいことは知らないが、リンパ腺《せん》のガンで、体中に転移しているらしい。そんな状態だから、食事も満足にとれず、うどんかけをすするだけ。文字通り、骨と皮だけになり、座っているのがやっとに見える。  ところが気力充実、碁は全盛時より上っていると評判だ。その証拠に、名人戦リーグ(A級順位戦と同格)に入り、今年、王座戦の挑戦者になり、羽根泰正王座からタイトルを奪った。六十六歳にしてタイトル獲得は囲碁将棋界を通じて史上初。まったく恐ろしい人はどの世界にもいるものだが、いくら碁に明るいといっても、あの体力では、タイトル戦は勝てないと誰もが思う。それが勝てたのは、人徳のたまものであった。  王座戦の第三局は箱根で打たれた。たまたま同じ日に、武宮十段は指導碁を打つことになっていたが、約束を延期できないだろうか、の打診が観戦記担当の私にあった。秀行先生の碁を見に行きたい、というのである。他の人とのからみもあり、結局延期できなかったが、指導碁を打っていても、なにか心残りの様子だった。同じ想《おも》いの棋士は大勢いただろう。対局場へ行ったからとて、対局室に顔を出すわけではなく、応援のしようもないのだが、雰囲気は対局者双方に伝わる。それが大きく作用するのだ。いつも言うのだが、プロの囲碁将棋の勝敗は、世論が決める部分が多いのである。  十数年ぐらい前から、秀行さんの酒量が増えだした。もともと大酒飲みだったが、この頃は昼夜をおかず、浴びるほど飲んでいた。アルコール依存症があらわになり、あたりかまわず、「オの字ではじまる四文字」を連呼する有様。ついに誰れも近よらなくなった。  あるとき、日本棋院にいると、院生の少年少女達が「秀行先生が見えた!」と叫びながら階段を逃げて行った。大先輩に対してなんたる非礼、といい気持はしなかったが、私だって一言あいさつして逃げ出したのだから、とやかく言えた義理ではない。  ついに家族からも見放され、代々木にアパートを借り、一人住いのはめにおちいった。ちょうど冬で、ストーブをつけたまま酔いつぶれてしまう。身を案じて、林海峰さんは、毎夜火を消しに通ったそうだ。  林さんの人柄をあらわす話だが、そういう人間に育てた秀行さんも偉い。  そんな日々でも、明け方眼をさまし、一瞬酒が切れたときは、かならず盤に向った。いい手を見つけたり、疑問が生じたりすると、すぐ林さんや武宮さんに電話した。「あれだけは参った」と武宮さんが苦笑していたのを思い出す。  根っから碁が好きで、情熱は失っていないといっても、四六時中酔いつぶれていては勝てるはずがない。連戦連敗で小銭にも窮した。当時は棋聖位を持っていたが、これは棋界一の高額賞金の棋戦で、収入源はこれのみだった。  棋聖戦は年末から年始にかけて行われたが、開始一ケ月ぐらい前から禁酒をはじめる。その禁断症状たるや、発狂するほどのもので、一日中、頭の中をむらさき色の蝶《ちよう》が羽音を立てて飛び回っていたという。入院もせず、独力で頑張るあたり、大山に劣らぬ気力だが、甲斐《かい》あって、毎期不利と予想されながら、棋聖位だけは守った。一年を四勝で暮す男、なんて書かれもした。  しかし、五期粘ったものの、ついに失う。深酒はやまず、生活はドン底に落ち、さらにガンにもおかされた。  逆説的な言い方になるが、そのガンが秀行さんを救ったように思える。身体《からだ》はむしばまれたが、酒が切れ、精神が平常に戻ったからである。そもそもガンだって細胞だろう。とすれば、ガン細胞に生かしてもらうことだってありはしないか。とはわるい冗句だが、ガンにおかされて十年の秀行さんを見ていると、そんな気さえする。大山がガンと闘う人ならば、秀行さんは、ガンと上手に付き合える人なのである。  元来、親分肌で情にあつく、特に下位の者にやさしかった。さっきの林さんだって辛《つら》い時代、秀行さんにかばってもらったことがあったにちがいない。私も子供の頃、お小遣いをもらったり、碁を褒めてもらったりした。落ちこぼれの少年にとって、碁の天才の褒め言葉は、なによりの励ましになった。秀行さんは、碁が強いだけでなく、教育者の資質も持っていたのだ。  そういう人柄だから、信望を取り戻すのも早かった。碁に対する探究心はますます強まり、自然に秀行さんの周りに若手棋士が集まるようになった。  それが「秀行塾」となり、今や東西の棋士がこぞって参加するようになっている。  師と門人が盤をはさんで正座で対し、門人が自分の打った碁を並べ、師が講評する。他の門人はそれを取り囲んで聞き入る。江戸時代の坊門を彷彿《ほうふつ》させる光景である。 「ああ、そんなのは嫌だ。耐えられない」という棋士もいる。しかし、門下生に加えられたいと願っている棋士が圧倒的多数なのはたしかである。  人は群れたがる。囲碁将棋界も例外でない。しかし、日本独特の、究極の村社会であり、勝ち負け以外の個人的な利害関係がすくないが故《ゆえ》に、グループを作る難しさがある。成り立たせ、和を保ちつつ長つづきさせるには、門下生を心服させる見識と、人徳がなければならない。それに無私の犠牲的な精神も必要だろう。そうしてグループが大きくなれば、力が生じる。  すると、グループ外の、のけ者にされた者の嫉妬《しつと》がうるさい。  地位のある先輩が声をかければ、後輩はいやと言えない。義理で顔を出すが、その先輩に人徳がなければ、一人抜け、二人抜けして、結局主宰した者が傷つく。厚意でやったのに、と言っても、それはあんたの勝手、と横を向かれる。グループを作り、数は力なり、の影響力を持とうなどは最悪で、たちまち下心を見破られ、軽蔑《けいべつ》されるだけだ。棋士達は、そういった点、実に敏感なのである。残るのは取り巻きばかり、最後はその連中に食い物にされる。そんな例はいくつもあった。  升田・大山は、ついにグループを作ろうとしなかった。指導力に自信があっても、対人関係の難しさを知っていたからだろう。  そういったことを考え合わせると、藤沢秀行という人間の偉大さが見えてくる。秀行塾の有様がどんなものか見なくとも、若手棋士が自然に集まるという事実が、すべてを物語っている。全盛時の戦績は、ライバル坂田栄男に劣るが、後世の史家は、秀行塾を高く評価するだろう。蕉門《しようもん》、松下村塾《しようかそんじゆく》、漱石《そうせき》山房のごとくに。  かつて囲碁界の人がくやしがった。囲碁界が将棋界に劣るのはただ一つ、山口瞳の「血涙十番勝負」がないことだと。  今度は私が言おう。将棋界が囲碁界に劣っているところの一つは、秀行塾がないことだ。  大山に話を戻して——  入院しなければならぬと決り、大山は日程をくり上げ、対有吉戦の二日後に、対小林健二八段戦を強行した。きっかりではなくとも、順位戦の予定はだいたい決っていて、それを理由に、小林がくり上げを断ることも出来た。予定通りを主張すれば不戦勝もありえたが、いくらなんでもそんな不人情はできない。当然事情は知らされており、対局に臨んで胸中複雑だったろう。  体がわるくちゃ負けてもしようがない、とばかり、大山はさして考えず指し進めれば、小林も相手の体調を思いやって早指しで応じ、夕食休み前に、第1図まで進んでいた。  5一角成と敵陣深く成り込み、これで寄り筋、早く終った、と小林は思った。  ところが大山は3一飛とお得意の自陣飛車を打って粘る。  第1図からの指し手。 5二歩《ふ》 3三角 4五歩 3四金 2五銀 2二桂《けい》(第2図)  3三角、2二桂としぶとい。肝臓ガンと知って、よく粘る気力があるものだ。普通の棋士だったら、指す気にもならないだろう。  形勢は第1図のところで、小林が指し切り模様らしい。局後の研究でそう結論が出たそうだが、本当はどうだろうか。第1図を一目見て、後手優勢と言った棋士が多かった。すくなくとも、第2図以下粘れば大変な将棋である。  それなのに小林はさして考えもせず指し、大ポカをやって夕食休み前に負けてしまった。  小林は常に全力投球、時間一杯使って粘るタイプである。首のかかった順位戦で、二時間以上も持ち時間をあまして投げるような男ではない。大山が元気だったら、深夜まで粘っただろう。病人と知っていたから、それが出来なかった。そこに小林のやさしさと、ある種の甘さがあるのだが、そのあたりのあやは次の機会に語ることにしよう。問題は大山の星である。  小林に勝って三勝三敗。万が一残り三局を不戦敗して三勝六敗となっても、九分通り助かっていよう。降級は二名。塚田、内藤が五連敗。下位に、有吉、石田が二勝三敗、小林が三勝三敗と、現在大山より分《ぶ》のわるい者が五人もいる。星のつぶし合いもあり、その内の四人に抜かれることは考えられない。その意味で、対小林戦の勝ちは大きかった。これで心おきなくガンと闘う態勢が出来たのだから。   名人位よりもでかいタイトル  昨年十一月から暮にかけての、谷川竜王の勝ちっぷりは凄《すご》かった。主な成績を拾ってみても、十一月は棋聖戦の挑戦者になり、順位戦の星を伸ばした。十二月になるとさらに勢いづく。南棋聖との棋聖戦五番勝負は二連勝で、あと一勝で奪取と迫り、竜王戦は森下六段を四勝二敗と下して竜王位を守った。他に、王将戦は四人の同星決戦になったが、米長九段、中原名人を破って挑戦者。棋王戦も敗者復活戦に回って勝ちつづけ、もし、高橋九段、南棋聖、森下六段を連破することにでもなれば挑戦者だ。  かくして十二月の成績は十二勝一敗。高橋に順位戦で負けただけである。一ケ月に十三局も対局するとは、ほとんど連日対局したに等しい。中に竜王戦、棋聖戦とタイトル戦が含まれ、これは、二日制だったり、旅行日があったりで、数日かかるという事情がある。おかげで大《おお》晦日《みそか》も中原名人と対局するはめになり、ファンを呆《あき》れさせたが、これも勝ちまくっている棋士の宿命である。対戦成績を書くと、南、森下と同じ名前が出てくるが、かぎられた人が忙しくなるわけで、売れているタレントと似たところがある。  これだけ勝つと、新たな楽しみが生れた。  将棋界の新年度は四月から始まるが、開幕戦になる名人戦は、前年度の決算ともいえる。そして、棋聖戦は年二回の特殊戦だから別にすると、事実上のタイトル戦は、夏の王位戦からで、王座戦、竜王戦の順番となる。  平成三年の谷川は、まず王位を守り、王座は福崎に奪われたが、竜王を守って二冠。四年になって棋聖戦は星からして固いだろうから、これで三冠。つづいて、王将戦七番勝負も、同じく南との対戦だが、絶好調の谷川に対し、南は不調だから四冠は有望。さらに棋王戦は、挑戦者になるまでが大変で、タイトルを持っているのが羽生だから容易でないが、ここも勝てば五冠王。問題は名人戦だが、現在、高橋と並んで六勝一敗とトップに立っており、挑戦者になる可能性が高い。そして中原を破れば、六冠王だ。  こんな風にタイトルを一つ一つ潰《つぶ》しながら勝ち上っていったら壮観だが、はたして実現するだろうか。  棋力そのものは文句なしだ。歴代の大名人にくらべて劣らず、格調の高さでは随一とも思われる。谷川がいちばん強かったのは、史上最年少の名人になった頃の数年間だが、その後停滞の時期があった。しかし、なんということもなく、今は当時に戻ったか、それより強くなっている。  なにか復調の原因があったか、といえば身辺に変ったことがあったわけでもなく、特に研究に打ち込んだ様子もない。スポーツ選手なら、トレーニングの効果が出たとかいわれるが、谷川の好調には理屈がつかない。理屈などどうでもよいが、結局、勝ちつづけているうちに、負ける気がしなくなったのだろう。  暮の三十日、南対森下戦が行われていたとき、ひょっこり谷川が控え室に顔を見せた。  十二月二十四日、箱根で棋聖戦第二局を戦い、翌二十五日、山形県の天童に飛んで二十六、七日の両日竜王戦第七局を戦って、防衛を決め、二十八日東京に戻り、二十九日、王将戦の挑戦者決定戦を米長と戦った。  その強行軍のなかで、みんな勝ってしまったのだから驚く。しかも一くせも二くせもある強者と対してである。相手も疲れているのを計算に入れてクソ粘りでもなんでもやろうと待ち構えている。それを、粘らせずに、スパッ! と斬《き》ってしまう。  勝った棋譜を並べていると、なるほどこんないい気持になれるなら、疲れも残らないだろうな、と思う。  それにしても、対局した次の日だし、翌日は中原との勝負将棋を控えているのだから、ホテルで休んでいそうなものだが、会館に出てくるあたり、若さと共に、精神が高揚しているからだ。  自分にいいことがあれば人前に出たくなるのは人情で、将棋会館に用もないのに顔を出すのは、勝っている棋士だけである。不調の棋士は対局か特別な用事でもないかぎりあらわれない。そして、顔を出していれば、不思議に勝てるようになる。  谷川は、南対森下戦を最後まで見とどけ、感想戦にも加わり、私達といっしょに食事をして赤坂のホテルに帰っていった。彼にすれば、充実した一日だったわけだ。それを思い出して、私も感心せざるを得ない。将棋の駒《こま》ばかり見ていてよくあきないなあ。  かつて芹沢九段は、谷川が名人になったとき「出されたみかんをすっと取るように名人になった」と言ったが、勝ち方にもそんな感じがある。血のにじむような精進とか、何かを犠牲にして将棋に打ち込んでいる、といった気配がない。升田、大山、中原、米長等の大天才の人生には、勝つための努力が濃厚にあらわれているが、谷川にはそれがない。結局、棋才がけたちがいなのだろう。  しかし、今のままでよいかと言えば、そうでない。谷川は今年三十歳になる。棋士としていちばん難しい年頃にさしかかる。  エリートと言われる棋士は、みんな純粋培養型である。子供のときから大事に育てられ、いやなことを経験せずに大人になった。谷川も悪口の類《たぐ》いを耳にしたことはないだろう。  話がまたよこ道にそれるが、棋士の自己防衛本能はすこぶる敏感で、ちょっとした損得や悪口に過剰反応する。年に数万円の稼ぎでも、他人のせいで失ったと知れば、どなり込むし、批判されれば、ヒステリックに仕返しをする。聞き流せば済む、どってことがない悪口なのに、なんでムキになるのか、と不思議に思うことがしばしばある。  中原は、絶対に人の悪口を言わない、を信条にしているそうで、事実、酒席を共にしたことも数え切れないほどだが、陰口を言ったのを聞いたことがない。人柄がいいのはいうまでもないが、そこには、悪口を言わないが、悪口も言わせない、の本能が働いているとも思える。谷川もその点は同じで、仲間の誰からも尊敬され、嫌われることがない。  ところで、棋界の代表者になれば、千駄ヶ谷村に閉じこもって、居心地のよさを味わってばかりもいられない。将棋界を代表して、世間と関わる場面が多くなる。今は、大山や中原、米長がいるからいいようなものの、遠からず、先輩達のやった事をやらなければならなくなる。  将棋ファンに対してなら、どんなヘマをやろうと、常識外れの言動をやろうと、大目に見てもらえる。しかし将棋を知らない人にとっては、大名人もただの人、という現実もある。一芸に秀《ひい》でた人、という雰囲気を持つことが、谷川の課題なのである。  今は棋才だけで勝てても、三十すぎれば、それだけではもたない。人間的な幅の広さが必要になる。まず東京に出てくること(升田、大山を見習うとよい)。世間と広く付き合い、人脈を作る。遊び方を知る。その他、第一人者に対する注文は色々あるが、とりあえずは、早くお嫁さんを決めてもらいたい。家庭を持つと、新しい対人関係を知ることになり、それが将棋にプラスになる。女の味を知ると勝てなくなる、の俗言があるが、恋愛をして弱くなるような棋士は、もともと大した者ではないのだ。  もし谷川が婚約すれば、名人位より大きな値打ちの物を得たことになるだろう。  と、あれこれ書いたが、どうも谷川はエピソードが少なく、書くのに苦労する。人間的な幅と関わりがあるのだが、とりあえず、今の谷川の素晴しさを知っていただくには、将棋を紹介するしか手がない。  第1図は、中原対谷川戦の終盤の場面。  これは、王将戦の挑戦者決定戦であるばかりでなく、大晦日の対局、中原が勝てば千勝、谷川が勝てば六百勝と、記録面の話題もある一戦だった。  その前のリーグ戦についてふれると、最終段階では、米長の挑戦者が決定的と思われていた。一人だけ一敗で、最終戦の相手は、全敗ですでにリーグ陥落が決っている森下。一方は消化試合だから、米長がすんなり勝って当然だが、緩めたらあかん、後で報いが来る、が将棋界の常識である。意地悪をしたわけではないが、森下が勝ってしまった。  こうして、中原・米長・谷川・森内が二敗で並び、流れからして、すべり込んだ森内が有望と見られたが、中原にやられた。  このチャンスをつかめなかったあたり、まだ甘いところがあるか。ただ、森内にかぎらず、かつての新人類棋士が勝ちまくっているのはあいかわらずで、あれほど谷川が勝っても、十二月末現在の勝率は三位である。一位は森内、二位は村山。  さて第1図だが、中原が華麗な手筋を駆使し、6八歩《ふ》と焦点の歩を放った場面。角の利《き》きを止めて、金取りになっている。  控え室の評判は、7五歩と金取りを受け、6九歩成4八角が相場であった。  谷川は、そんなはっきりしない指し方は考えない。  第1図からの指し手。 2二歩 8六角 2一歩成 4二玉 2二飛成 4三玉 2五桂《けい》 3二金 1一龍《りゆう》 4二金右 2二と(第2図)  将棋の強い弱いは、目のつけ所のちがいにある。才能とは第一感ともいえる。  第1図で、普通だったら、金取りを受けることにとらわれてしまう。逆に、金を取らせる、とは考えられない。2二歩以下谷川の指した手順を見れば、そうかとうなずけるが、コロンブスの卵で、実戦ではそれが浮ばない。中原だって、手を抜かれるとは読んでいなかったろう。  金は取られても、2一歩成から飛車を成り込んで谷川よし。  第2図まで、香《きよう》を取ったり、と金を引いたりと、難しい手を指したわけでないが、ちゃんと勝勢になっている。難しい寄せをやさしく見せる、そこが名人上手の味である。  最後に朗報をお伝えしておく。  心配された大山十五世名人の病状は、肝臓を半分切り取る大手術だったが、経過はすこぶるよく、十二月末には元気に退院したそうである。  一月下旬には対局もするとかで、超人には、ガンも風邪と同じなのかもしれない。  若手棋士のゴルフ熱はますます盛ん。谷川も加わればよいのだが、あの忙しさでは、とてもそんな時間は取れない。   逆境における強さ  大山十五世名人のガンとの闘いは、ガンに病む人への最良の励ましになろう。  もっとも表面だけ見れば、ガンと闘っているなどの悲愴《ひそう》感はない。ちょっと風邪でも引いたという顔である。一月二十七日、高橋九段と順位戦を戦っていたときも、顔色こそゴルフ焼けがはげて白くなっていたが、姿勢はいつもと変りなく、座っている辛《つら》さなども感じさせず、にこやかに雑談に応じていた。精神面も含め、すべてに余裕たっぷりだった。  升田元名人の全盛時は病みあがり、もしくは病んでいることがほとんどで、見るからにしんどいという顔をしていたし、ボヤキもした。大山の場合は病気が病気なだけに、傍《はた》も気をつかって、様子はいかがですか、と声をかけにくい。すると、気持をすぐ見抜いて、自分から右の脇腹《わきばら》をさすりながら、 「肋骨《ろつこつ》を一本取ったので、なんか変な感じだ」  と笑っていたそうである。  ガンに冒された肝臓を半分切り取る、という手術をしてから、わずか二ケ月しか経《た》っていない。寒さも厳しいことだし、今期は対局をあきらめ、暖かくなってからボツボツと思うのが普通だろう。年だってもう七十に近いのだ。  ところが、いついかなる状態になっても自分を甘やかさない。言い訳を用意する勝負師はろくなもんじゃない、と常々書いているが、大山は絶対に言い訳を口にしない。  もし仮りに、高橋と戦い、終盤優勢になりながら、粘りまくられ、寄せを逃して負けたとしよう。多分終るのは深夜になっているはずだ。そんな時でも、「体がえらくなり、考えられなくなってしまった」という類《たぐ》いのことは間違っても言わないだろう。四十歳以上の棋士なら、十人が十人それを言ってしまう。稀代《きたい》の勝負師と並の棋士との差は、そこにある。  一月二十日、まず勝浦九段と対戦し、これは負けたが、内容は悪くなく手応《てごた》えはあった。  そして一月二十四日の対高橋戦。A級順位戦で、これが勝負将棋である。この時点のA級順位戦は、谷川竜王が六勝一敗、高橋九段が五勝一敗で挑戦権を争い、降級争いの方は、二人のうち、内藤九段が決定し、あと一人は、塚田八段が一勝六敗、大山が三勝三敗、石田八段が三勝四敗という形勢。こうしてみると、塚田が危なく、残り二局を勝ち、大山が三連敗か、石田が二連敗してくれないと助からない。大山と石田に一番勝たれたら、その瞬間首が飛ぶ。  星から見て、事実上大山は助かっているに等しい。棋士達はそれを読んで、高橋に、今度の大山戦は頑張ってくれよな、と声援を送っていた。大山憎しではなく、今やその逆だが、それでも順位戦らしいスリルを望むのは当然の弥次馬《やじうま》根性である。さらに、高橋が負けると谷川が楽になってしまう。レースをおもしろくするには、どうしても高橋に勝ってもらいたいのだ。  大山には緊張している様子がなく、対局が義務といった感じだった。発病前までは、順位戦だけは別、との雰囲気があったが、今はそれがない。どういうことだろう。心境に変化が起ったのだろうか。  しかし、大山はまだ枯れていなかった。勝つことへの執念をあからさまに見せたのが、駒組《こまぐみ》段階の第1図の局面である。  まだ海のものとも山のものともつかないこの局面で、百七分も考えた。専門的に見れば、先手がやや指しやすい。一歩《ふ》得して桂《けい》もさばけた形だ。そして7五歩の狙《ねら》いもある。野球なら二回を終って一点リード、といったところだろう。  だが、将棋というゲームでは、この程度のリードは有利なうちに入らない。  時間はこのとき午後二時である。終局を夜の十一時ごろとすれば、先は途方もなく長い。病み上りの体であれば、すこしでも早く終らせたいから、この辺りは時間を節約したいところだ。大山の明るさをもってすれば、指す手はすぐ決められただろう。  第1図で大山は3七角と上ったのだが、6五歩なら、同歩同飛6六歩6三飛4五歩でよし、と読んだもの。この角出は難かしくない。プロなら第一感の手である。それを百七分も念を入れたのが尋常でない。体は心配ない、将棋を絶対にわるくしないぞ(大山の場合はよくするぞではない)の気迫が感じられるのではないか。  高橋はそれに負けた。これ以後ずるずると後退し、夕食休みのころはどうにもならなくなっていた。ドラマを期待して観戦に来ていた棋士達も、ほとんど帰ってしまった。最後の場面は後に示すが、結果は大山の完勝だった。  大山のこれまでの人生を見ていて痛感させられるのは、逆境における強さである。並はずれて恵まれた人生を送っているように見えるが、長い間には何度かピンチがあり、苦汁を飲まされた時期があったように思える。第一に入隊、次に升田に叩《たた》きのめされた時は根も葉もないスキャンダルで嘲笑《ちようしよう》された。そして大腸ガンにかかり、今度は肝臓ガンである。そのピンチをことごとくしのいだばかりでなく、それを前進のきっかけにした。全盛時代は、実に升田にタイトルを全部奪われた時から始まったのである。今回の勝利もまた、棋歴に輝かしい一頁《ページ》を加える出来事というべきだろう。  話題を変えて、羽生棋王等新人類棋士達の近況をお伝えしよう。みんな二十代になり、新人類なんて呼び方は似合わなくなった。  活躍が目ざましいのは森内五段で、現在も勝率一位を保っている。あの谷川を抑えてのトップだからたいしたものだ。将棋会館にいつ行っても対局しており、いつも勝っている。なにしろ、一月末日までの勝率が、五十六勝十四敗、ちょうど八割というもの凄《すご》さ。他に勝数、対局数も一位で、現在三冠王だ。暮の王将戦では惜しくも挑戦者になりそこね、タイトル獲得こそないが、順位戦は、みんなより一足先に終了し、十連勝で見事B級2組へ昇級した。将棋界の仕組からして、昇級は、タイトルを取ったのと同じくらいの値打ちがある。  C級1組は、上から数えて四番目、下から二番目の下位クラスだが、森内の他に屋敷六段、村山六段、佐藤(康)五段、それに日浦市郎五段、井上慶太六段、阿部隆五段、泉正樹六段などなどの秀才が集まり、有数の激戦区であるから、互いに星を潰《つぶ》し合って混戦になると思われていた。  ところが、屋敷、佐藤の本命が意外に不振で、森内、村山、井上の三人が、全勝で突っ走った。八回戦を終ったところで、森内九連勝(一回早く進んだ)、村山、井上が八連勝、日浦、坪内利幸六段が七勝一敗の展開。順位が一番上の日浦五段も、九勝一敗でも上れそうにない、と泣きを入れる有様となった。それより辛いのは森内で、最終戦で負け、九勝一敗になると、順位が下位のため絶望となる。九連勝もして決定しないのではあまりにも酷だ。その上、最後の相手は屋敷である。このところ不振だが、昨年春は棋聖だった男であり、いちばん強い、と思われていたのは、ついこの間のことである。  二月四日に、二人の決戦が行われた。中盤から屋敷がうまく指し、夜戦になった頃は、屋敷が勝ちそうな形勢だった。寄せの鋭さは日本一、もう逃すまい、と思われたが、森内も時間を惜しみなく投入して粘る。そのうち屋敷が変な桂を打った。  控え室で、羽生と先崎五段が首を傾《かし》げた。どう見ても好手でない。ヘボな棋士が指したなら辛辣《しんらつ》な批評が飛ぶところだが、屋敷に対しては一目《いちもく》も二目《にもく》も置いている。「意表、意表に出る屋敷流か」ですんだ。  ともあれ、森内が互角に挽回《ばんかい》した。最後は両者一分将棋の競《せ》り合いとなったが、勢いに乗る森内が勝った。  屋敷が投げてから、十秒ぐらいして、森内がうつむいた。どうしたんだ? と思っていると、彼の目が潤《うる》んでいた。感激のあまり涙ぐんだ棋士を見たのは初めてである。テレビゲーム感覚で指しているから強い、なんて言えなくなった。  思えば数年前、「新人類の鬼譜」と題して「小説新潮」に紹介をはじめてから、ずいぶん大人になったものである。たとえば、秀才の典型のような佐藤少年が、ゴルフに熱中するなんて想像もできなかった。先日、坂田信弘プロが、教えてあげましょう、と言ってくれたので、若手に声をかけたら、なんと十一人も集った。佐藤も参加したが、フォームを見るなり「こりゃ気が強そうだな」と坂田さんは微笑《ほほえ》んだ。ちょっと意外な気がした。日常の言動は穏かだし、将棋も強気強気で押しまくるタイプでない。してみると、ゴルフに本当の性格が出るのだろうか。  少年のころから苦労をしたし、病弱でもあるので、村山には人間味がある。昨年秋、大山に教えてもらうことが出来たと、大感激していた。得た教訓は「将棋とは馬を作るものなり」だそうで、さすがに天才は目のつけ所がちがう。勝負は、村山がしっかり勝った。  この三人に羽生を加えた四人のうち、最初に名を上げたのは森内だった。全日本プロトーナメントで時の名人谷川を破って優勝した。つづいて、羽生が竜王になり、佐藤が王位戦の挑戦者になるなど活躍しはじめたが、それが一巡して、また森内が脚光をあびている。次は羽生の番で、棋王防衛戦が開始されるが、多分勝つだろう。  さて、今回の棋譜は珍しい局面をお目にかける。第2図は大山対高橋戦だが、4筋に駒が縦に並んだ。めったにないことで縁起がわるいと言われている。まして場所が死(四)筋でなおさらだが、これは迷信にすぎない。そういえば、第1図も大山陣の歩は横一列になっていた。これも珍形で、大山という人はなにかと話題にこと欠かない。  第2図からの指し手。 4四同金 同 歩 5一桂 3九金 5八成香《きよう》 7五角 4九と 同 金 同成香 5八銀(第3図)まで、大山十五世名人の勝ち。  最後に受けを決め手にするあたりが大山らしい。文字通りの完勝であった。   背後世界の息づかい  三月二日、A級順位戦の最終戦五局が行われた。  A級順位戦が終る日は、将棋界の一年のしめくくりみたいなもので、ここで名人挑戦者が決り、四月新年度は名人戦七番勝負で始まる。  ただ、ここ数年は、挑戦者は誰か、もさることながら、大山の星がいちばんの話題になっていた。年は争えぬもので、成績がかんばしくなく、最後に負けると、降級、引退の危機がなんどかあったから。  そして今年は——。事情をあらためてお伝えするまでもない。ガンにおかされた肝臓を半分切り取る大手術をしてから、約二ケ月後には戦線に復帰し、高橋九段、米長九段を連破、降級どころか挑戦者の可能性が生じた。大山が勝っただけでなく、谷川、高橋、米長などが星を落したからである。  最終戦を迎えての形勢は、谷川竜王、高橋九段が六勝二敗。大山十五世名人、南九段が五勝三敗。大山と谷川が対戦するから、大山が勝ち、高橋が塚田八段に敗れ、南が内藤九段を破ると、四人同率になる。まさかの期待が現実味をおびてきたではないか。  朝から控え室は妙に活気があった。見知らぬ顔がたくさんいる。普通、人が集まりだすのは、勝負が白熱しはじめる夕方からである。対局開始のときは、大勝負といっても見なれた光景でしかなく、カメラマンが数人と関係者だけしかいない。  ところが、この日にかぎっては、テレビ取材を含めて、カメラマンの数も多いし、専門誌以外の記者も大勢来ていた。これこそ大山人気の異常な高まりをしめすものでなくてなんであろう。ある人は「こんな場面を取材することが出来て感激しています」とわざわざ私に言ったくらいだ。  四階の二つある対局室は、今日だけA級専用。私も坪内六段と対局だったが、五階に上げられた。中原名人も定席の特別対局室を、大山対谷川戦にゆずって五階で対局している。  午後、戦いが中盤にさしかかるころ、大山対谷川戦を見に特別対局室に入った。  軽く会釈《えしやく》した私を見て大山は、「今日は」とちいさく答えた。表情も姿勢も、手術前とさして変ってないように見えた。顔色も退院直後の対高橋戦のときは、白っぽく見えたが、今は前に戻っている。だが、さすがに色つやがよい、というわけではない。  盤上は、大山の振り飛車に対し、谷川は居飛車穴熊《あなぐま》。ただし、谷川には長期戦に持ち込んで体力勝負、との感じはなかった。  すぐ対局室を出て、ついでに二階に寄ると、解説会場の席を取ろうと、三時間も前なのにかなりの人が集まっている。将来、大山がいなくなったら、将棋会館にこんなにも熱気あふれる日があるだろうか、ふとそんなことを思った。  夜戦に入った。自分の将棋が切迫しているので、下の控え室を覗《のぞ》くこともままならぬが、形勢は大山がすこしいいようである。  九時ごろだったか、有吉九段が、ふらっと五階の対局室を覗きに来た。石田八段と対局していて、今日は首斬《くびき》り役である。どうも表現が荒っぽいが、石田が負け、塚田が勝つと石田が落ちるから、そんな役まわりということになる。いつもなら、この勝負も注目されるのだが、大山の奮戦の前には影がうすい。 「おや? 終りましたか」私が訊《き》くと、「いや」首を振ってニヤリとした。余裕たっぷりなのは勝算があるからだ。有吉は大山の一番弟子で、師の形勢も気がかりだが、そちらも有利で、気をよくしていただろう。  十時ごろ私は対局を終え、さあ大山を見ようと、四階に下りた。  特別対局室は異様なほど静まりかえっていた。両対局者の表情や盤面など、見たが見えなかった。どんな有様だったか思い出せない。私も雰囲気にのまれてしまったのだ。  控え室は超満員になっていた。ここだけでなく、将棋会館はどこも人であふれている。大山は徐々に差を拡《ひろ》げているようである。午後十一時を回ったころの局面は第1図。今、大山が5四の歩《ふ》を5三歩成としたところだが、控え室では、この手は指さないだろうと予想していた。  というのは、谷川は龍《りゆう》と角を利《き》かせて、7七角成を狙《ねら》っており、それを許してはうるさくなるからである。で、とりあえず7七角成を防ぐ手を調べていた。  それを大山は、5三歩成とやった。この手がモニターテレビにうつった瞬間、控え室で悲鳴が出た。解説会場もどよめいただろう。焦《あせ》ったらやられる、と。  第1図からの指し手。 4一角 6七金 7三桂《けい》 6三歩成 3二角 5四歩 6五桂打 同 桂 7六龍 同 金 7九飛 4二と(投了図)まで、大山十五世名人の勝ち。  谷川は4一角と逃げた。それもノータイムだった。なんたる無抵抗。この手を見たとき、私は、やはりそうだったのか、と内心うなずいた。  5三歩成と、こんな急所にと金を作られて黙っているプロ棋士はいない。誰だって7七角成と暴れるだろう。それで負けとしても、4一角と逃げれば、もっと勝ち目がないのは判《わか》りきったことだ。  4一角を見て、大山は6七金と受けに回った。「受け潰《つぶ》しの手が出た」と歓声が上ったが、これは私のような三流棋士でも第一感で浮ぶ手。長びかせれば自然に勝ちが転がり込んでくる、という、プロがもっとも有難がる流れになっているのだ。  大山ならぬ、谷川陣はガンにおかされたのと同じで、5三のと金は、さしずめ肝臓に巣くったガンというべきか。そうなって4一角は谷川が手術を恐れたようなもの、というのはわるい冗談だが、ともあれ、局面と指し手を解説すればそんなことになる。  以下の手順は言うこともない。4二と、と入られて谷川は投げた。午後十一時四十分だった。  対局室に報道陣がなだれ込んだ。ライトが照らされ、シャッターの音がたてつづけに鳴る。いつもの通りである。大山も谷川も淡々としていた。「すこしずつわるかったようです」と谷川が言えば「そうだったね」といった会話が交されていた。終局の興奮はなく、私はすぐ部屋を出た。階下の解説会場では、大山勝ち、と決ったとき、拍手が起ったそうである。同じころ、高橋は塚田に敗れていた。  蛇足を加えると、投了図は早い投了のようだが、4二同金と取れば、3四桂と打たれ、4一金2二桂成同玉の次、7三と、と桂を取られ、3四桂の詰みを狙われる。対して大山陣は手つかず。谷川の駒《こま》は近づけないでいる。指しつづければ惨《みじ》めになるだけで、投了図はよい投げ場だった。いや、もっと早く、4一角のとき、谷川は頭を下げていたのだ。  それにしてもこの棋譜は異様である。将棋であって将棋でない。勝ち負けを争う、といった感じがまるでない。中盤で王手飛車取りがかかるという派手な場面があったが、それも、将棋を進める一つの儀式にすぎなかったように思える。  プロの将棋は、結局のところ読みの探り合いだが、その決め手は、気持のありようを知ることである。よいと思っているか不利と見ているか、疲れているかいないか、怖がっているか楽観しているか、早く勝とうと焦っているか、あるいはもてあそぶ気持になっているか、等々は、相手の呼吸を計ることによって知れる。その息づかいは、対面している同士だけが感じ取れるのであり、盤側からは判らない。  大山が退院して一ケ月後に対戦した高橋、この日の谷川が、大山の息づかいから何を感じたか。訊いても本当のことを答えてくれるはずがないが、恐らく、いままでに経験したことのない気配を感じたはずだ。そこで、同情とか憐《あわれ》みとか、そんな感傷的でない、別の感情が生じたのではないか。一方、大山頑張れの声は高まっている。気持の上でのやさしさと合わせて、谷川も高橋も勝てない雰囲気になっていた。  朝十時から夜中の十二時近くまで、じっと座りつづけた大山もしんどかったろうが、谷川の方がより辛《つら》かったと思える。十数時間、勝てない将棋を、投げるによい時間が来るのを待って指しつづけたのだから。  それにしても大山の強さはどうだ。退院後に指した、A級順位戦の三局は、全局ミスらしいミスがない。将棋はミスのゲームであり、好手とミスが合わさって好勝負になる。ミスがなければ本局のような大差勝ちになるのは当り前のことだが、誤りを犯さぬということは、人間的感情を超えた境地に大山がいるように見える。そうして、最近の三局の棋譜からは背後世界すら感じられるのである。  大山の戦いが終ってから三十分くらい経《た》っていた。対局室では、まだ感想戦をやっている。体のこともある、早く帰った方がいいのに。そんなことを思いながらエレベーターの前の椅子《いす》に座っていると、先崎が来て「凄《すご》い、まったく凄い人だ」とうなった。「とにかくビールを飲みたいな」と仲間を探しに控え室へ飛んで行った。私は4一角と引いた(引かせたというべきか)谷川と大山のことをしゃべりたくてしようがなかった。うまく話の合いそうな人が数人見つかり、連れだって玄関に出ると、大山が独りまっすぐ立っていた。手に夏みかんが数個入ったビニール袋を下げている。 「車が来るんだ」と言ったが、手配がわるいのか、なかなか来ない。こういうときは、たった数分でも、はたは気にするものだが、大山は意に介さぬようである。そもそも部屋で待たずに、玄関まで出てくるところが大山らしく、以前と変っていない。 「いろんな所から取材を申し込まれているが、もうすこし待ってくれ、いうて全部断った。一つ受けたらきりがないもの」  問わず語りにそんなことを話してくれたが、そこには、時とともに体はよくなる、と断固として信じている気持があらわれていた。  こんな大きな勝負に勝って、いい気持を長く味わおう、などと甘ったれないのが並の棋士とちがう。すでに、次の対局のことを考えているのだ。  プレーオフは、大山対高橋戦から始まり、その勝者と南、さらにその勝者と谷川が戦って、名人挑戦者が決る。大山はどこまで勝ちつづけるのだろう。   “ジキルとハイド”名人誕生か  名人戦の挑戦者は、高橋道雄九段と決った。  A級順位戦の最終戦で、大山十五世名人が谷川竜王を破り、高橋が塚田八段に敗れて、谷川、南九段、高橋、大山の四者が同星。あらためて挑戦者決定戦を行い、高橋が、大山、南、谷川の順に三連勝したのである。  奇跡の復活を見せてくれた大山が敗れた顛末《てんまつ》は、後に棋譜と共にお伝えしよう。  高橋は名人戦七番勝負には初登場。ここ数年、中原、谷川、米長の常連ばかりで戦われていたから、新鮮な感じがする。そして新顔の登場は一つの興味を生む。  名人位は、よきにつけあしきにつけ、将棋界の伝統を象徴している。いってみれば村の長《おさ》を決める行事、という側面があり、大勝負という雰囲気は意外にない。すなわち、名人は選ばれた者がなると決っていたからである。  とはいえ、名人にふさわしい男だ、と思われている者が二人いたとして、それが対決したときはどうなるか。これは本当に凄《すご》い勝負になる。  過去の、木村対升田、升田対大山、大山対加藤(一)、大山対中原、若いころの、中原対米長、中原対谷川の挑戦者決定戦などがその名勝負だった。  こうして数えてみると、かなりあるようだが、戦後四十五回の歴史を思えばずいぶんすくない。ほとんどの名人戦は、世論で勝ち負けが決っていたのである。結果論でいえばそういうことになる。  たとえば、谷川が加藤(一)名人に挑戦したときは、谷川に勝たせたい、の声が圧倒的だった。だから、芹沢九段が言ったように「出されたみかんをすっと取るように名人になった」のである。この言葉には、名人を夢見て果たせなかった、芹沢の羨望《せんぼう》の念があらわれている。  谷川にとって関門がなかったわけではない。A級順位戦で中原と同星となり、挑戦者決定戦を戦った。これに勝って、名人にふさわしい者、と認められた。だから本舞台の七番勝負は儀式みたいなものだった。  では、今回の高橋はどう評価されているか。それが私には判《わか》らない。名人になるべき者、といわれていたわけではないが、過去の例のように、では勝てないか、と言えばそうとも言いきれない。  そもそも、高橋と南九段は気になる存在であった。何度もタイトルを取り、抜群の成績を残し、人柄もよい。それなのになぜ名人の声が出ないのだろうか。  高橋が初めてタイトルを取ったのは、昭和五十八年、C級1組五段のときだった。  内藤九段を破って王位になった。C級がA級を負かしたのだから、大番狂わせのようだが、そうではなかった。私も第三局を見に行ったから憶《おぼ》えているが、高橋が勝つべくして勝った、という印象だった。  高橋が勝った後の打ち上げの席で、内藤が「いやな将棋や」と呟《つぶや》いたのを憶えている。これは仲間を評するに最大級の褒め言葉だ。  さらに「一番勝ったら、『四タテを免れてホッとしてます』なんて言え、と米さんか誰かから教わったんやろな。とんでもない、四タテを心配しているのは、こっちの方や」と苦笑したものだ。  もちろん、高橋が早々に自分の部屋に引き上げて後の、酒がまわってからの話だが、こういったリップサーヴィスがあるから、内藤は好かれる。対局場の空気は、内藤に勝たせたい、が優勢だった。  これも再三書いたことだが、プロ将棋は声援の多い方が絶対に有利なのである。他の勝負に比べてその度合いが大きい。大山が谷川に勝ったのも、世論が勝たせたとも言える。  そんなことは誰も言わぬ。言わぬが判っている。だから対局中は、観戦の棋士も記者も公平にと気を遣うのだが、胸の中をさとられまいとすればするほど、対局者に察しられてしまう。  高橋も空気を感じ取っていただろう。そのハンデを負いながら完勝した。棋風も、腰が重く、容易なことでは負けそうもない。高橋は強い、このとき認められた。  以後の高橋は順調で、王位に加え、棋王、十段のタイトル保持者になり、A級に昇った。昭和六十年前後は、高橋の全盛期で、棋界最強の棋士であった。  今年三十二歳の高橋に全盛期だったとは失礼な言い方だが、さらに強くなるはずの二十代後半から、なぜか失速してしまった。タイトルをすべて失い、挑戦者にもなれない。羽生、屋敷等後輩に抜かれ、ライバルの南にも差をつけられた。  身辺になにか変化があったわけでもなさそうなのに、なぜ勝てないのか不思議に思っていたが、昨年あたりから、なんとなく復調のきざしが見えてきた。将棋に高橋らしい重みが出てきたのである。本人は好調の原因を「また将棋が好きになったからでしょうか」と、他人事《ひとごと》みたいに言っているが、勝てるようになったから、好きになったに違いない。超一流の棋士だって、好不調の原因なんて自分では判らない。  高橋といえば、南と並んで地味な棋士の代表である。棋風も堅実なら、恐ろしく無口なのだ。将棋会館にいるときは、必要なこと以外口をきかない。対局中黙っているのは判るが、観戦に来て、控え室の継ぎ盤を見ているときも、めったに意見を言わない。人がああだこうだ言っているのを眺めているだけである。  強いから、私なんかは意見を聞きたくなる。で、訊《き》くと、笑って一言二言呟く。無愛想ではないが、なんともそっけない。それでいて勝負が終るまで見ている。ま、棋士にはこういった内気なタイプが多いのだが、あれでおもしろいのかしら、といらぬ心配をしてしまう。  そう、まったくいらぬお世話で、将棋会館を一歩出ると、快活な青年に変身する。よくしゃべり、よく歌い、スポーツも楽しむ。独身時代、一人で全仏オープンテニスを見に行ったとか、旅行社のツアーに参加してカナダに行ったとか聞いて、へえーと思った。おばさん連といっしょに外国の観光地を見て回っている姿など想像できない。  結局、仕事と私生活をきっちり分けているのだろう。その区分けが独特かつ極端なのだ。カラオケが好きでも、棋士仲間と飲みに行ったなんて、聞いたことがない。  群れたがる棋士は弱い、と相場はきまっているが、高橋にはそんな甘えがまったくない。これまた、あいつは強い、と思われている理由の一つである。  ざっと、こういった高橋が、中原に挑んで勝てるだろうか。  参考までに対戦成績を調べたら、十七回戦って、中原の十三勝四敗。高橋の五段時代は勝ったり負けたりだったが、最近数年は、中原の十勝一敗と、一方的になっている。  どうも高橋の分がわるいが、今期にかぎりいい勝負になると見ている。しばらく低迷していた者が盛り返してきた活力を買いたいのである。  昨年起った、名人戦を毎日から朝日に移したらどうか、の問題は、毎日と契約することで一件落着したが、その経過での棋士の議論を聞いていると、名人位というものに対する想《おも》いが、昔と違ってきた。名人位を単なる高い金を取れる棋戦の一つ、と考えているふしがある。将棋界独特の権威主義が、かならずしもいいとは思わないが、名人戦が単なる高額賞金の棋戦の一つであったならば、中原と高橋は互角である。うがった見方になるが、今回の名人戦は、その権威を問われる、ともいえよう。  では、今回の棋譜。  四者の同率決戦は、大山対高橋戦から始まった。  あの歴史的な決戦から一週間ぐらいしかたっていなかったが、大山に疲れた様子がなく、顔に赤味がさし、むしろ元気になっていた。  指し方も最近の傾向とちがって積極的に自分から動いた。駒《こま》がどんどん前に進み、中盤の戦いが終り、寄せ合いに入った第1図のところでは、大山はっきり有利。それどころか必勝の順が発見されていた。  第1図で2一飛と回る。先手は飛車成りを防げないから5二歩《ふ》成と攻め合うが、2九飛成と成り込み、これがほとんど必至に近い。後手玉は6四銀と攻められても8三玉で詰まない。つまり、第1図から三手で後手が勝てたのである。  控え室では、当然大山がそう指すものと思い、まったく強い、全盛時より強いくらいだ、と感心するより呆《あき》れ返っていた。  第1図からの指し手。 8八歩 同 金 2八飛 5二歩成 同 銀 7五歩 5三銀 3三角成 6六金 7八金打(第2図)  大山は絶好球を見逃してしまった。8八歩から2八飛は、これでもよさそうに見えるが、7八金打と粘られた第2図は、はっきり勝ちともいえない。  この直後、大山に大失着が出て、形勢はいっぺんに傾いた。  第1図の局面のすこし前、夜の八時ごろ対局室を覗《のぞ》くと、大山は「あと三番も勝たなきゃならんから大変だよ」と笑った。  そんなに勝つのはしんどい、というより、余裕を見せたように感じたが、その人間くさい呟きを耳にして、高橋の呪縛《じゆばく》が解けた。  そうして、7八金打と、人間に通じる粘り方をし、それが成功した。  投了図は、詰みまで指した、という珍しい局面である。この一手前、大山は3七角成と指したのだが、そのときはまだ粘れる、と思っていた気配があった。1六飛の一手詰を見落したのだろうが、なにか気になる終り方ではないか。  こうして高橋は命拾いし、次の対南戦も苦戦のすえ降《くだ》し、対谷川戦は、のびのびと指して快勝した。 「大山先生のとき、あきらめてましたから、後は気楽に指せました」と挑戦者に決ったとき言ったが、その気持を持ちつづければ力を出し切れるだろう。   盤上のターミネーター  名人戦七番勝負は、挑戦者の高橋九段が好調で、二連勝している。今のところ、プレーオフ連勝の勢いに乗っている感じだ。  先日、将棋会館に行ったとき、今回の名人戦はどうだろう、といろいろな人に聞いたら「今なら、どちらにも乗れますね」みんな同じことを言っていた。  二連敗していい勝負とは、中原名人の力がばかに高く買われているようだが、それもあるにせよ、名人戦特有の雰囲気を、事情通は重く見ているのである。  まったく、あと一勝で名人位というときの一勝の壁たるや、まことに強大なもので、名人戦の長い歴史は、それにまつわるエピソードをいくつも残している。  問題は、その壁が高橋に意地悪をするかどうかである。そこが誰にも予想できない。つまり、高橋という挑戦者は、これまでの挑戦者と、すこしちがうところがある。名人になるべく選ばれた者のようにも見えるし、そうでないようにも見える。  ともあれ、第三局が今期の名人位を事実上決める一番になることは明らかで、高橋もその決意で臨むだろう。ここで壁に直面するわけである。これを抜けぬなら、この先三勝まで行ったとしても、最後の一番を勝てるはずがない。  一方、中原名人も不調ではない。名人戦の合い間にも対局があり、二連敗した後のゴールデンウイーク中に、土佐浩司七段、島七段と対戦し、快勝した。  そういえば、島が中原に負けたあと、控え室に顔を出したので、名人戦に水を向けたら「高橋さんが名人になれば、私は名人に大きく勝ち越している棋士ということになりますね。塚田君もそうじゃないかな。勝ち越している人がたくさんいますよ。いままでそんな名人はいましたかね」  これが棋士らしい物の言い方である。  ついでに言えば、中原と島が戦っているとき、高橋は中原と顔を合わさぬよう控え室で指し方を見ていた。情報収集というわけで、それを当然やるべきこと、という風潮になってしまった。せめて将棋だけは、ここ一番に備えて、必殺の一手を編み出す、という感じであってほしいが、そんな率のわるい考え方をする棋士は、もうあらわれないだろう。終ったあとの感想で、誰と誰との対戦棋譜を知っていたのが勝因ですとか、知らなかったのが敗因ですなどと言われてはしらける。  中原はどうか。高橋の近況を調べているかも知れないが、知っていても知らない顔をするだろう。それより、体調をととのえたり、戦う気持になるよう、スケジュールを調整する。そこは長年の経験である。  島に勝った夜、中原は久しぶりに銀座に出た。竜王戦という大きな一番に勝ったあとなので機嫌がわるかろうはずがなく、珍しく女性を相手に碁を打って遊んだりしたが、それでも、どこか気持に引っかかるものがあるらしかった。  しかし、中原にせよ大山にせよ、長い間名人戦を戦っていれば、絶体絶命のピンチは何度もあった。中原にしても、出だし二連敗は今回がはじめてでない。  昭和六十二年、米長九段と対戦したときも二連敗した。相手が相手なだけに、今度ばかりはいかんと思われた。  私も愛知県の蒲郡《がまごおり》まで見に行ったが、中原には追い込まれている、という気配はなかった。それどころか、洒脱《しやだつ》とも思える奇妙な指し方を見せ、米長のカンを狂わせてしまった。そうして、二連敗のあと四連勝したのである。どうやら、大名人と言われた人達は、こと名人戦に関しては勝つノウハウを知りつくしており、かなり楽観しているように思える。常に世論を味方につけている強味を知っているのだ。  それは判《わか》っていても、星が片寄ればファンは気をもむ。王者が追い詰められたときどんな戦い方をするか、これこそいちばんおもしろい場面である。  大山十五世名人が危なかったのは昭和四十四年、弟子の有吉八段との対戦だった。  当時のA級は、升田、塚田元名人が健在で、他に、山田道美《みちよし》八段、丸田八段、加藤博二八段、二上八段、花村八段、内藤八段、大友昇八段、関根茂八段、というメンバーだった。二十数年たった今、升田、塚田、山田、花村は亡《な》く、加藤、二上、大友は引退している。A級あるいはB級1組の上位を維持しているのは、有吉と内藤、それに大山だけである。力の持続が実力の証《あか》しとすれば、有吉も相当な棋士だと今になって判る。  有吉は三十歳を越えたところで、当時の感覚で言えば指し盛りだった。猛烈な攻めを恐れられていたが、本領は、苦戦にめげない気の強さにあった。ただ、名人になる器とまでは買われておらず、同世代の加藤(一)や芹沢より素質は下と見られていた。時の評価は誤る、という例である。  であるから、挑戦者になれたのは番狂わせであった。戦前の予想は、大山の全盛期でもあり、勝負になるまい、と思われた。  第一局は有吉快勝。これはよくあることで誰もおどろかない。いつもの大山ペースだから。そして、第二局、第三局と大山が連勝するに及んで、もう終った、という感じだった。将棋の内容にも「格」のちがいがあらわれていた。  ところが、第四局、有吉が粘り勝ちしてから様子が変った。第五局も、不利になりながら、有吉は頑張り抜いて逆転勝ちした。この一局は、有吉生涯の傑作で、大山の猛攻に耐え、最後は穴熊《あなぐま》の形にもぐって一手残した。盤のすみっこで競《せ》り合いながら、実は、有吉陣の中央の厚みが、遠くから影響を与えた、という将棋で、見ていた芹沢が「これが本当の将棋だ」と感嘆したのを憶《おも》い出す。  第五局を終って有吉三勝二敗と勝ち越し。まさかが起りそうになった。  そして第六局。箱根で行われた決戦を私は見にいった。大山が負けるような気がしたからである。特に戦いの前夜の様子を見たかった。  棋士の誰もが言うのだが、大勝負の始まる前が嫌な気分である。負けると降級、という勝負も、盤の前に座ってしまえばふるえるようなことはない。で、前夜の過し方に神経を使うのだが、旅館やホテルの対局ではそこが自由にならない。関係者や戦う相手といっしょでは、好き勝手に過せない面がある。そこで大山流の盤外作戦が展開されることにもなる。  ただ、有吉は愛弟子《まなでし》なので、大山の方がかえってやりにくかったかも知れない。有吉はゲーム室でみんなが遊んでいるのを眺め、頃を見はからって自室に引き上げた。大山は麻雀《マージヤン》を打つでもなく、早々と自室に引きこもってしまったらしい。大勝負の前の緊迫感など、どこにもなかった。  対局当日の朝七時ごろ、芹沢と二人で食堂にいると(私達の方が興奮して眠れなかったのだ)まっさきに大山が来た。さっぱりと早寝早起きの顔に見えた。これからの人生が変るかも知れない勝負を戦う、といった重苦しい感じはまったくなかった。  結局、大山は自信があったのである。対して有吉の方が固くなっていた。急戦をさけ、玉を固める持久戦を選んだ。  一日目は型通り駒組《こまぐみ》だけの戦いで終り、二日目になったが、依然有吉は動かない。自信を持って待っている、というより、怖がって腰が引けているように思えた。  これも棋士心理の典型だが、決戦を恐れて逃げ回っているうち、残り時間がなくなると、突如強気になる。有吉にもそんな気配があって、午後三時ごろ急に激しい戦いとなった。第1図がその局面。  大山が8四歩《ふ》と打って飛車先を止めたところだが、6筋と8筋を破り合って、ただではすまない形になっている。プロはこのあたりで詰みまで読み切る。  有吉は第1図で8四同角と取る手を読んだ。以下、同角同飛5三と7八と6二飛成8九飛成と、攻め合いになる。その先を深く読んで、有吉は自分が負けと判断した。とにかく5三と、と寄る手が早い。なんとか、と金寄りに対抗する手はないものか、と探しているうち、うまい手が見えた。  第1図からの指し手。 9七と 同 桂《けい》(第2図)  香《きよう》を取る手がばかにうまそうに見える。 5三とには、6一香がある。先手には歩がない。  有吉はこれに飛びついた。無理もないと思う。先手の指す手は5三との一手、と思い込むのは当然の実戦心理だ。  この9七と、が敗着。9七同桂とぼんやり取られ、一ぺんに終ってしまった。  第2図は有吉に指す手がない。8四角は、同角同飛8五歩と止められて(桂が働いている)いけない。やむなく、第2図で4二角と上ったが、6四歩と打たれ、次に8八飛で勝負にならない形になった。  まったく9七同桂とは気がつかない手である。これこそコロンブスの卵で、第2図を見ればやさしい手に思えるが、実戦では大山以外に指せない。詰むや詰まざるやのギリギリの読みくらべ、速度争いをしているとき、こんなソッポのと金を取る手なんか思いつかない。これを見たとき、世の中の価値観が引っくり返ったような、不思議な恐怖をおぼえたものである。  戻って、9七とでは、8四角と取れば有吉が勝ちだった。8四同角のとき、先に7八と、と入る妙手がある。これを同飛は8四飛で問題にならぬから、6五飛と逃げるが、8四飛5三と8九飛成の攻め合いは、3六桂がきびしく、有吉がはっきり一手勝ちだ。  9七同桂の一手パスが盲点なら、取れる角を取らずに7八と、も盲点になる手である。大山将棋には、どこかにそういう仕掛けがかくされている。そういった意味で、世に知られていないが、この一局は大山の傑作の一つなのである。  本局を凌《しの》げばもう大山のもの。第七局も勝ち名人位を守ったのはいうまでもない。  関西で、有吉、内藤と言えば並び立つ存在である。なにかにつけて派手な内藤にくらべ、地味な有吉は損をしている面もあるが、無駄な金は使わない性格で、芦屋の有吉邸は豪邸という評判だった。なんでも山の中腹に建っているそうだが、内藤の家はその下の方にあった。なにごとにも張り合う仲だから、いつも見下ろされているようで内藤はしゃくでしょうがない。で、一念発起したかどうか知らぬが、数億円を投じて有吉の上に家を建て、これで毎日愉快に過せると会心の笑みをもらしたとか。  こうした対抗心がよい刺激になって、今も二人は一流の地位に踏み止《とど》まっている。  特に有吉は五十歳をはるかに過ぎてA級の地位を維持している。それどころか、還暦A級を目標にしているとも聞いた。  棋士寿命の長さは才能を計る物差しである。五十歳以上のA級棋士は、過去数えるほどしかいなかった。こういったことは、年月を経て、棋士の一生のおおよそが見えてこぬと判らぬものだが、今になってみると、有吉の才能もたいしたものだったと判るのである。   高橋ワールドへようこそ  名人戦七番勝負は第五局を終り、挑戦者の高橋九段が三勝二敗とリードしている。  経過は、第一、二局は高橋勝ち。第三局中原勝ち、第四局高橋勝ちで三勝一敗。中原はカド番に追いつめられた。  次の第五局は、中原が会心の指し回しで一勝を返したが、まだ苦しいことに変りはない。  ちょっと専門的な話になるのをお許しいただきたいが、中原の大苦戦に首を傾《かし》げるプロ棋士が多い。将棋の内容が中原らしくないのである。  第一、二局は矢倉で戦われたが、この戦法こそ将棋の代表的なもので、いちばん多く指される。相撲でいえばガップリ四つに組んだ形で、両者十分に力を出し切れるし、力の強い者が勝つ。  だから超一流といわれる棋士は、みんな矢倉を得意にしているし、これで勝てぬとなれば、実力が劣っている、ということにもなる。晩年の升田、今の大山は振飛車戦法ばかりで矢倉を指さないが、若いころ全盛期は矢倉を十八番としていた。年をとって矢倉を指さなくなったのは、衰えのあらわれなのである。  もちろん、中原、高橋共に矢倉を得意としている。だから第一、二局は矢倉だった。そこで中原は連敗した。これは星以上のダメージを受けたことになる。  しかし、中原連敗で五分五分、第三局からが本当の勝負、という評判で、それほど中原有利と見られていたのである。  問題は第三局で、ここで中原がどういう勝ち方をするかが注目された。つまり、中原が三度矢倉を選んで勝てるかどうかであった。  中原は、矢倉の他に「中原式相がかり」という独特の戦法を持っている。かつて名人戦で谷川を悩ませたものだが、名人が多用するにしては真似《まね》する者がすくない。どう考えても優れた戦法とは思えないからだが、それを指しこなすのが、名人の芸ともいえる。  第三局は中原の先手番で、矢倉、相がかり、どちらでも好きな方を選べる。私は矢倉と予想したが、指されたのは、相がかりだった。  結果は中原に吉と出た。しかし、勝ったからよかった、とも言えない。矢倉という、いってみれば相手のエースを打ち込んで勝ったわけではないからだ。高橋は、相手が矢倉をさけた、という点で自信を得ただろう。第四局は、矢倉で戦い、完勝した。  意味のない後講釈になるが、第三局は矢倉で戦ってもらいたかった。三連勝すれば名人位を手中にしたに等しい。とすれば、高橋にいちばんプレッシャーがかかるのが第三局である。事実、中盤優勢になった所で、指し方がちぐはぐになり、終盤のチャンスもつかみそこねた。明らかに固くなっていた。  それを思えば、中原が矢倉で戦い、かりに中盤不利になっても勝てただろう。いずれ矢倉で勝たねば名人位を防衛できないのだから、ここで相手の自信をくだいておきたかった。  名人になるような棋士は、強情で意地っ張りだ。ある戦法で連敗したりすれば、ムキになってそれをくり返す。で、七番勝負が全部同じ戦法、なんていうことも何回かあった。今期、連敗した戦法をさけたあたりに、いままでと違う中原の姿がある。  と、いろいろ言ったが、傍《はた》が勝手な理屈をこねたにすぎず、当人はいろいろ考えているに決っている。ただ、こだわるようだが、矢倉で一回も勝ってないとは、敵の主力部隊が無傷で温存されているわけだから、矢倉になることが予想される第六局は中原が苦しい。三勝二敗の星以上に、高橋が有利と見る人が多いようである。もし、この後高橋が連敗することがあるとすれば、気持が欲と不安で揺れたときだろう。  それにしても高橋には理解できぬところがある。名人挑戦者になったとき、将棋雑誌のグラビアに、一家団欒《だんらん》の有様が紹介されたが、それを見てたまげた。部屋中、縫いぐるみでいっぱい。そこに赤いセーターを着て、子供をはさんで奥さんと座っている姿は、名人位を争う勝負師とはとうてい思えない。  対局室での高橋は、どんなときでも難かしい顔で、口をきかないだけでなく、手にした扇子も開かない。ごていねいに新品の扇子にかけられている紙のわっかもはずさないでいる。心も口も扇子も、なんであれ絶対に開かないぞ、の気構えをしめしているように思える。だから、強い、と感じるのである。その姿と家庭内の姿とではあまりにも違う。  もっとも、家にいても、将棋の勉強は、別に借りてある部屋で気合いを入れてやるそうだ。仕事の場、家庭内、研究の場、それぞれ三つの顔を持っているわけで、普通の棋士と感性が違う。  私などは、名人位には武士道精神が似合うと思うし、争う者には風格を求めたくなるが、そんなのは感傷でしかないのだろうか。  そういえば、今期あたり、名人位そのものが変りつつある。昨年起った名人戦をめぐる議論と無関係でないが、もし、名人位の持っている重みとか、格とかが落ちたとすれば、そこに中原が苦戦している最大の原因があろう。それについては、名人戦が終ってからもう一度考えてみたい。  話題を転じて、棋聖戦で郷田真隆四段が、挑戦者になった。スターが誕生したわけである。  二十一歳でタイトル挑戦は、羽生や屋敷の例もあって特に早いわけでないが、それでもエリートコースに乗ったとは言える。  四段になったのは平成二年四月で丸山四段と同期。この年は新人の当り年と言われ、デビューするや二人とも凄《すご》い勢いで勝ちまくった。二年経《た》った今もそれは変りないが、勝ち数の割りに、目立つ実績を上げられなかった。ここ一番で勝てなかったからである。  郷田について言えば、四段になってすぐ棋聖戦の決勝まで勝ち上ったが、森下六段に敗れた。屈せず次の期も決勝まで行ったが、南九段に敗れた。そして今期、三度目の正直で、阿部五段に勝ち、晴れの挑戦者になった。  将棋界は下位者がなにかにつけて不利な仕組みになっており、Cクラスが、本戦トーナメントに進出するには、一次予選、二次予選を勝ち抜かなければならない。一次予選は若手の潰《つぶ》し合いになるから、ここを抜けるだけでも容易でない。くわしく調べたわけでないが、郷田が決勝に出るまで十連勝ぐらいしただろう。  それを三度もくり返したのだから、実力は十分証明されている。その他に王位戦リーグでも活躍し、あと一勝で挑戦者決定戦に出場、というところまで勝ち進んだことがある。最後の一局の相手は安西勝一五段で、こちらはリーグ戦から陥落が決定しており、まさか郷田が負けることはあるまいと思われたが、萎縮《いしゆく》しきって完敗した。  たまたまその有様を見ていて、エリートにありがちな勝負弱いタイプとの印象を受けた。仲間に聞くと、やはり奨励会時代から昇級の一番に弱く、だから卒業するのに七年もかかった。秀才といわれる少年達は二年か三年でかけぬけるのに比べて郷田はずいぶん遅い。  ただし、足ぶみしたのは、奨励会の幹事に、たまたま下士官タイプがいて、それにいじわるされたからだ、と言う者もいる。  くわしい事情は知らないが、苦労を知っていることはたしかで、そこが、なんら屈折なく四段になったエリート達と一味違うところである。  棋風は、正統派中の正統で、文句のつけようがない。相手の気持を読むとか、盤外作戦を考えるとかはせず、いつもマイペースで戦う。序盤から納得が行くまで考えるから、たいてい一分将棋になるが、そうなってもめったに誤らない。  秒を読まれ、パッと浮んだ手が正解というのは、神様から授かった才能というしかなく、そんなところは加藤(一)九段に似ているが、加藤は、ためらって時間を浪費している気配があるのに対し、郷田は、無駄と思われるところまで念を入れて読んでいる点が違う。貴公子的な風貌《ふうぼう》と合わせて、大スターの素質は十分である。  加藤の名が出たついでに、郷田との対戦成績を書けば、郷田が三勝一敗と勝ち越している。他に、中原には郷田が四連勝。米長には二連勝、佐藤(康)にも二連勝。羽生とは一回戦って郷田勝ち。  谷川棋聖とは今度が初手合わせだが、実績からして郷田が勝っても不思議でない。  その谷川はこのほど婚約を発表した。急にまとまったそうだが、これは目出度《めでた》い。将棋界にとって、今年一番の明るい話題である。  話を戻して、若手棋士達にゴルフが大流行しているが、郷田も凝りはじめ、将棋連盟のコンペに参加した。私と同じ組だったが、聞けば、コースに出るのは初めて、クラブは前日買ったばかりだと言う。それがえらく豪華なのでたまげたら「中島常幸プロが使っているのと同じのです」とこともなげに言った。呆《あき》れるのはそれだけでなく、初ラウンドでハーフ50台を出し、ぶっちぎりで優勝した。  腕前の割りには飛距離も出る方で、単なるやさ男ではない。今度の棋聖戦でも、びっくりするような和服をあつらえて、タイトルをさらってしまうような気がする。  今回の棋譜は、名人戦第五局から取材。  第1図は第一日の封じ手直前の局面だが、すでに中原が有利となっている。高橋陣にはなれ駒《ごま》が多く、なにか手がある。  第1図からの指し手。 2二歩《ふ》 同 金 7四歩 同 歩 9四歩(第2図)  2二歩は総攻撃の準備で、同金と取らせて形を乱しておく。  そうして、7四歩、9四歩と突いてあっさり手にしてしまった。2二歩と打たれたところで高橋が封じたが、その晩はくやしくて寝つかれなかったろう。  第2図で、9四同歩と取れば、9二歩同香《きよう》 9一角で先手よし。手筋講座によく出る手筋である。  実戦は第2図から、3六歩4八銀3三玉と粘ったが、9四歩と取れないのではよいはずがなく、9三歩成以下一方的になった。  これを見ると、中原の腕が大分上のようだが、こういうのは実力を計る目安にはならない。第六局、矢倉で戦ったときどうなるかが見物だ。   「鈍さ」はパワー  名人戦は中原が勝った。一勝三敗からの三連勝は、力を使い切っての防衛であった。  名人戦が終った後、二日おいて中原は郷田四段と王位戦を戦ったが、その日の夜、銀座のなじみのクラブに鈴木七段と来た。  王位戦の準決勝で大きな一番だし、郷田は長考派だから、遅くまでかかると予想していたので、十時前に現れるとは意外だった。そんな私の顔を見て「どうも……切れてしまったよ」。中原は照れたように笑ったが、その気持も判《わか》る。早く終ったということは中原の負けで、ついでに言うと、郷田は、この次佐藤(康)六段も破り、王位戦の挑戦者になった。  前回でも書いたが、一勝三敗と追い込まれたときは、ほとんどの人が、中原の命脈は尽きた、と思った。若手棋士達が酒を飲んでいて名人戦が話題になり、一人が「千円と一万円でどうだ」と言ったら、「それでも高橋に乗る」と受けた者がいたそうだ。本当に賭《か》けが成立したかどうかは知らないけれど。  プロ筋は、星の差もさることながら、将棋の内容を見て、いかん、と思ったのである。矢倉で勝てぬということは、エースが打ち込まれたに等しく、立て直す拠《よ》り所がない。  将棋の勝敗の八割までが終盤の攻防で決まる。これはくどいほど言ってきた。だから作戦を誤り、出だしで多少不利になったとしても、さしたるダメージでない。しかし、戦う前は、すこしでも有利な駒組《こまぐみ》で戦いたいと思うのは人情である。で、いろいろ考える。考えたって、急にいい戦法が見つかるはずもなく、新手が簡単に浮ぶわけでもない。そう判っていても考え、戦う前の不安な日々を過すことになる。  中原も第四局まではそんな気持だったろう。それが、矢倉戦法を捨てる、といういわば面子《めんつ》をかなぐり捨てたところでふんぎりがついた。  結果論になるが、第五局が勝負所だったようである。高橋の出来がわるく、一方的に敗れ、ここで中原は息を吹き返した。  高橋にすれば、負けたのはともかく「中原式相がかり」が通用する、の確信を与えたのがまずかった。前回で紹介した局面は第一日の封じ手の直前だったが、後で聞いたら、高橋は封じ手に「投了」と書きたかったそうである。 「中原式相がかり」には先手番でないとならないが、第五局の快勝がヒントになり後手番のとき「横歩《ふ》取り戦法」があるのを思いついた。だいたい似たような筋の戦法で、有利にならないが、不利にもならないとの見通しも立った。こうして、中原に戦う態勢がととのった。  名人戦は歴史をくり返しているように思える。現役として晩年にさしかかっていた木村名人が、日の出の勢いの升田の挑戦を受けたとき、尋常な手段ではかなわぬと見て「筋ちがい角」という奇策に出た。稀代《きたい》の勝負師の最後の大はったりだったが、それが通じて木村は名人位を守った。升田は目くらましを食ったような気持だったろう。青年名人という印象の中原も、気がついてみると四十四歳。あのときの木村とさしてちがわない年齢になっている。正攻法、ガブリ四つでは力負けすると自認せざるを得ない年になっていたのだ。  そういった、中原や高橋の胸中がファンに読めるようになり、名人戦は第六局からにわかに盛り上った。  大の将棋ファンの山口瞳さんが「男性自身」で「中原名人は果たして矢倉を避けた」と書いたが、予想が当ればテレビ観戦もおもしろい。高橋も「横歩取り」を予想していたろうが、それにしては駒組が変だった。金銀が前に進まなかったのはどうしたわけだろう。  二日目になり、多少の紆余曲折《うよきよくせつ》はあったものの、中原が差をつけたまま勝った。  これで三勝三敗。ここまで追い込めば中原有利、が大方の予想だったろう。技量は互角としても、勝負運はどう見たって中原の方が強そうだ。  ところが、その第七局の序盤で中原がしくじった。  第1図は、第一日目の封じ手の局面だが一歩損の上、中原陣は圧迫された形になっている。さっきの、歴史はくり返す、ではないが、十七年前の、中原対大内戦もこれと似ていた。  三勝三敗のあとの最終戦、第一日目にして中原が不利になってしまった。  一日目に戦いが始まり、優劣がはっきりしたりすると、途中に長い空白時間があるので味がわるい。で、一日目は駒組だけでやめておき、戦いは二日目に入ってから、がこれまでの慣習だった。たまたま駒組が早く進んだりすると、午後二時か三時ごろに封じ手を行い、六時までの時間は二人が等分に考えたことにして、消費時間に加える、というようなこともあった。  中原対大内戦のときは、エキサイトしており、そんななれ合いの入り込む余地はまったくなかった。気合いよく指していたら形勢に差がついていたわけだが、その日は、楽観派の中原も寝つかれなかった。深夜、床を出て窓の外に眼をやると、庭ごしに大内の部屋に燈《あか》りがついているのが見え、やっぱり彼も眠れないんだ、と気が楽になった、という話も伝わっている。  第七局のときの高橋も、大内と同じく寝つけなかっただろう。三勝一敗、もう名人になったも同然と思われてから、一月あまりもおあずけを食った恰好《かつこう》になっている。当人は、名人なんて簡単になれるものではない、と覚悟しているからいいが、親類縁者やファンはそうでない。いまかいまかの期待は、ずいぶん高橋の負担になっただろう。  ほっと一息入れて盤面を脳裏に描けば、よい手がいろいろ浮ぶ。どれを指そうか考えているうちに迷いが生じる。家族の喜ぶ顔が浮んだりしたら、もう寝つけない。さらに封じ手(6八金だった)が消極的すぎたか、の悔いもあったかもしれない。  一方、中原も指しにくくしたとは思っていた。しかし、ここが重要なのだが、プロ棋士が四分六分か、それ以上の差、と見ていたほどは、不利と思っていなかったようである。  第1図の局面をゴルフでいえば、高橋は第一打をフェアウェイ中央にナイスショット。中原はラフに打ち込み、しかもグリーンを狙《ねら》うには木が邪魔になる、といった状態で、第二打を打つ時点では、明らかに高橋が有利である。当人にも、ギャラリーにもはっきり判る。  将棋の場合はちょっとちがう。形勢判断は主観的なもので、当人がどう見ているかが問題になる。極端なたとえになるが、中原には自分がラフ、高橋の球はいい所にある、という状態が見えていないような感じがある。中原特有の鈍さ、ともいうべきものであり、それこそ中原の強みなのである。  中原はラフから確実にフェアウェイに出した。不利な立場と知っていれば、ギャンブルショットもしようが、高橋の状態が判っていないようなものだから、平然としている。  そんな中原の態度を見ていると、高橋ならずとも、自分が判断を誤っているのではないかと思ってしまう。そして第二打をビビリ、第三打を打つときは同じ条件になっていた。 「鋭い」といわれる人、たとえば、升田や内藤だったら、状況が読めるから、一《いち》か八《ばち》かをやり、運わるく木に当って自滅しても、勝負に出るよりなかったのだ、と自らを慰めただろう。  大山はまた違う。ラフから確実に出すのは中原と同じだが、相手の球の位置も知っている。それでも相手は、第二打をミスするか、三パットするかしてボギーを叩《たた》くだろうと確信している。だから、自分が三オンでボギーになっても負けないのだ、と。勝負は勝たなくともよい、負けなければよいのだ、が大山の哲学である。  結局、升田、内藤に負けた者は、技量の差で負け、大山、中原に負けた者は、人間性に負けた、とも言える。  高橋は、挑戦者になったとき、私のような者が名人になってよいのだろうか、と考えたそうである。それが事実とすれば、稀《まれ》な鋭いタイプであり、中原とは相性がわるすぎた、というほかない。  第1図から高橋は6八金、6七銀と自分から後退し、たちまち互角になってしまった。第1図で、7八角の味が気になるのなら6八玉がよく、強引に7四角と攻めてもよかった。  第2図は最後の場面。すでに中原が勝勢になっている。  第2図からの指し手。 6五桂《けい》打 同 歩 同 桂 同 桂 5四歩 4二玉 3一飛 8六角成(第3図)  第2図で3五桂は4二金で攻めがつづかない。6五桂打は、ドキリとさせる攻めだが、4二玉が正確で、逆転に至らない。   第3図から、3七金7六馬8三と4九馬まで指し、高橋は投げた。  第2図から第3図まで、取り立てて言うほどのこともない手順だが、高橋の運命があらわれているように見える。どうしても一歩及ばなかったのだ。  名人戦が終ると、A級順位戦が始まる。中原は、順位戦を指さずにすむのでホッとしているだろう。防衛には、金と名誉以外のメリットもある。  対して高橋は辛《つら》い。すぐ順位戦を指さねばならない。つい先日、将棋会館の事務室で、ひとり棋譜を並べている姿を見かけたが、大きな勝負を負けたという感じはなかった。  A級順位戦にふれておくと、一回戦は、米長九段、塚田八段、田中(寅)八段、有吉九段が勝っている。  米長が谷川を破ったのは大きく、気の早い話になるが、来年は名人戦での、最後の中原対米長戦が見られるかも知れない。 一九九二年度 大山死して巨匠の時代終る  七月二十六日、大山死去。享年《きようねん》六十九歳。  羽生、谷川を破って竜王に返り咲く。不調を脱して上昇に転じた。  村山聖も王将戦で挑戦者となる。異色の人のつぼみがふくらんだ。しかし、谷川王将に四連敗した。  米長邦雄九段、七度目の名人挑戦者になる。中原に挑むこと六度、遂《つい》に名人となる。  羽生A級に上る。  名人・中原誠 竜王・羽生善治   不世出の大名人  大山十五世名人が亡《な》くなった。七月二十六日夜であった。  肝臓にガンが転移しているのが発見され、手術を決意したのが昨年の暮。手術をして一ケ月後に退院し、一月二十日には順位戦を指した。  入院直前の慌《あわ》ただしい日程のくり上げもそうだが、なぜそれほどまでに対局、特に順位戦にこだわるのか不思議に思えた。これまでの赫々《かつかく》たる戦績は、あらためて紹介するまでもなく、一昨年には文化功労者になった。いってみれば功成り名遂げているのである。生死に関わる大病を患《わずら》ったのなら、休んでもよいではないか。  大山くらいの勝負師になると、なにを考えているか凡人には想像がつかない。後に聞いたところでは、大山は不戦敗を嫌がっていたらしい。戦わずして負けるのをいちばんの恥と思っていたようである。  そうだろうな、と納得できる心情であろうが、将棋界の常識は、一般社会のそれとはちょっとちがう。棋士にとって、戦って負けるより、戦わずして負ける方が恥でない。だから、たいした病気でもないのに休む棋士が、昔はかなりいた。つまりずる休みである。おとがめはなし、一局分の対局料はそっくりもらえる。  大山は、そんな人達とは性根が違う。あれだけ勝つにはいろいろな理由があった。  手術をすると決めたのは十一月下旬。入院すれば、十二月に予定された、対小林戦は不戦敗となる。  それは嫌だと強引に日程をくり上げ、入院直前に対戦したが、小林にすれば、日程が決っているからと断ることもできた。しかし、ガンが転移したと聞かされては、いじわるをしているようでノーとはいえない。当然のことながら、最後の時が近づいたのではないか、の思いは誰にもあった。  この対小林戦は、数ある大山の傑作のなかの一つであろう。全盛期のときのような、なにがなんでも勝つ、の気迫があらわれている。  といっても、大山将棋は屈折しており、闘志を表に出すのではなく、逆に、やる気がないように見せるのである。意地のわるい言い方をすれば、重病を利用したのだ。体が保《も》たないと言わんばかりに、たいして考えもせず指し進め、小林がお付き合いして早指しで来た一瞬のすきに不意討を食わせた。わるい意味でなく、勝つために手段を選ばぬのが大山将棋なのである。この対小林戦は、それまでの大山流の延長線上にあった。  大山の生涯は、素晴しくよく出来た芝居のようである。  小林に勝って三勝三敗。手術をすませて退院と同時に引退を表明する。順位戦の残り三局を不戦敗としても、立派にA級残留の星だ。A級のまま終れば棋歴にきずがつかない。引退せず、翌年は休場しても、ずる休みだなんて言われることはない。  手術後静養し、そのまま復帰することなく逝《い》ったとしても、勝負師としてこれ以上はない立派な生涯であろう。  ところが、不世出の大名人(この言葉は大山にこそふさわしい)は、思いもつかぬ、フィナーレを用意していた。  退院して間もなく、一月に将棋を指す、と聞いてみんなたまげた。そんなに早く元気になれるものだろうか。  一月下旬、順位戦の対高橋戦のとき、たまたま私も対局だったが、気おくれして、容易に大山が指している対局室に入れなかった。午後になり、意を決して入ったが、その瞬間の不思議な感覚は今も忘れられない。肉感的で脂《あぶら》ぎった大山はすでになく、顔は白く、澄みきった感じで、ひっそりと座っていた。大病を患った人、という先入観があるせいか、この世の人とは思えぬ感じもあった。  高橋は見かけと違って、感性鋭い。尋常ならざる気配を感じ取っていたに違いない。気の毒で、まともに戦う気になれなかったとも思われる。力を出せず、刃《やいば》をまじえることなく敗れた。  この頃から将棋界全体が、大山に魔法をかけられたような有様になった。  谷川、高橋、南、米長といった名人挑戦者候補がバタバタと星を落しはじめ、大山が伸びて、最終戦で大山が勝てば同率に並ぶ、というところまで迫った。小林と指すときの大山の成績は二勝三敗。谷川は五連勝、米長四勝一敗、高橋四勝一敗だった。それが、最終戦では、谷川六勝二敗、大山五勝三敗になっていた。そして、この二人が当っていたのである。もし、大山が勝ち、高橋が塚田に負ければ三敗で並ぶ。  決戦が行われたのは三月二日。将棋会館は朝から大入り満員だった。こんなにファンが熱狂したのは、中原が加藤(一)に名人位を奪われたとき以来のことである。文字通り十年に一度の大勝負だった。  形の上では大山の一方的な勝ち、であったが、谷川が勝てない雰囲気になっていた。大山に対する大声援は谷川と高橋も感じており、勝ったりしたら悪者にされてしまう。そんな無用な気遣いを棋士はするのである。  こうして大山、谷川、高橋、南の四人の再戦が行われ、大山は高橋に敗れ、その高橋が、南、谷川を連破して名人挑戦者になった。このときの大山対高橋戦も、大山が絶妙の指し回しで勝勢になったが、そこで欲が出て、決め手を逃してしまった。  奇跡を行って見せた。今度こそ静養すると思っていたが、大山は休まなかった。対局を行ったばかりでなく、普及活動その他の雑用を小まめにこなした。スケジュールは元気な頃とあまり変らなかったのではないか。  休めばよかったのに、と言う人がいる。大山も再入院するとき「手術した後、休むんだった」と舌打ちしたそうである。  しかし、大山は休むことの出来ない人であった。何をやっても、これでよし、これで一区切り、ということがなかった。次から次へと目標を変え、それに向って走りつづけた。  イメージが違いすぎ、突飛なたとえだが、死ぬ直前の大山とモーツァルトは似ていたように思える。大山は最後まで、生きることに執念を持ちつづけたが、肝臓にガンが転移していると知って、余命いくばくもないことを悟っただろう。そして命あるうちに、やれるだけのことはやっておこうと覚悟を決めた。  五月になると、急に体がしぼみ、顔色も悪くなった。それでも順位戦を戦い、名人戦の立ち合いも引き受けた。その頃は、食事を満足にとれなくなっていた。だが疾走をやめない。親しい人達と旅行したり、講演に行ったり、色紙を書いたり、動き回っていた。  七月、ついに再入院。いちばん古くからの友人である丸田九段は「怖くて見舞いに行けない」ともらした。みんな最後の時が来たことを知ったのである。  升田元名人が亡くなったとき、棋士の生涯を考え、みんな仕合わせな人だったと思った。言いたいことを言い、やりたいことをやった一生だったのだから。  大山はちがう。言いたいことの半分しか言わず、やりたいことも半分しかやらなかった。将棋連盟内部の全員に好かれようと努めたが、それも報われなかった。大山が好んで書いたのは「忍」の一字だが、まさしく忍の人生だった。なんのために忍んだかといえば、将棋に勝ちたいからである。そもそも、生きることが、勝つためだった。日常の一挙手一投足にいたるまで、勝つことに結びついていた。その意味で、真に偉大な将棋棋士であり、こんな天才は二度と現れないだろう。  生涯勝数千四百三十三勝、タイトル獲得と優勝回数合わせて百二十四回。この記録を、囲碁界の天才坂田栄男名誉本因坊の、優勝回数六十六回と比べてみれば、いかに大山の勝ちっぷりが凄《すご》かったかが判《わか》る。ところが、その大山の真価は、半分、いや三分の一くらいしか知られていない。まったく残念なことである。  今回の棋譜は、大山の生涯の名手を紹介しようと思ったが、すぐ浮かばない。  名局は数知れないほどだから、なにかあるはずだと頭をヒネったがない。升田や、米長、中原なら、たちどころに十や二十は出てくるのだが……。逆に言えば、鬼手がない所に大山将棋の特徴がある。  いろいろな人に聞いてみたが同じこと。中で数人が共通して上げたのが、第1図の局面での次の一手である。  もったいをつけたが、見れば、なんだ、と言われそうだ。王様がどこに逃げるか、だけの問題なのだから。  第1図からの指し手。 8一玉 8三飛成 8二歩《ふ》 7三桂《けい》不成 7一玉 6一桂成 同 銀 7二歩 同 銀 5三龍《りゆう》 6一銀打(第2図)  第三十一期名人戦(昭和四十七年)大山名人対中原八段戦の第二局である。この年大山は名人位を中原に奪われ、第二期黄金時代にピリオドを打つのだが、右の手順に全盛時の強さは十分あらわれている。  8一玉と逃げたのが、控え室をアッ! と言わせた手。中原は7三飛と打って勝ちと読んでいたから、自信ありげに、8一玉と引かれて、愕然《がくぜん》としただろう。  もっとも、これ以外の逃げ方は簡単にだめだし、三通りしか手がないのだから、誰か気がつきそうなものだが、不思議なものである。  ま、理屈をつければ(9三桂不成と王手で角を取られる)、8一玉は、第一感いちばん見込みのなさそうな手だから、うっかりしたとは言える。  8三飛成以下、6一桂成と金を取り、7二歩から5三龍と金を取って攻めをつないだが、6一銀打と、一手すきを防がれた第2図は後手勝ちとなっている。  後手玉にどうしても一手すきがかからない。対して、先手玉は、6九と同金7五桂と攻められると受けなしになる。  大山将棋の本領はこのようなもので、相手の読んでない筋を探し出すカンは、升田にも中原にもないものである。  大山という人は、裸の姿を人に見せなかったし、本音ももらさなかった。人生哲学は指し手であらわしたのだが、それはこのように難解である。真の姿を知ってもらえなかったのは、天才の宿命であろうか。  告別式で升田未亡人にあいさつしたら、「もうこのようなときでないとお会いできなくなりましたね」と言われ、こみあげてくるものがあった。将棋史上の黄金期というべき、升田、大山時代は終ったのである。   新人類は、今  羽生棋王を代表とする、かつての新人類棋士達が大活躍している。  竜王戦の準決勝に、羽生、村山六段、佐藤(康)六段と、三人が進出したのは嬉《うれ》しい。大山亡《な》き後、彼等が話題にならなければどうにもならない。  六月ごろだったか、対局中に、控え室で一息入れている羽生を見かけた。  盤からはなれて気分をかえるのは誰もがやることで珍らしくないが、そのときの羽生は表情が妙に険しかった。壁によりかかっているが、しばらくするとため息が出そうな感じもあった。といっても、何かに肚《はら》を立てているわけではなく、誰かが声をかけると、我にかえり、笑顔で応じた。きっと指している将棋のことを考えていたのだろう。  棋士は盤の前だけで手を読むのではない。違うところにいても、盤に対しているのと同じように考えられる。  調子のよい棋士の雰囲気はそんなものである。いつどこにいても将棋を考えられる。で、ちょっとやつれたような感じになる。馬でいえば、ぎりぎりに仕上っている、といったところか。成績を見たら、やはり十連勝中だった。  その日の対局も勝ち、以後、七月、八月と勝ちつづけ、九月一日までで、二十連勝中である。今期(四月から)は初戦に負けただけで、二十勝一敗ということになる。  その間、王座戦で挑戦者になり、福崎王座との五番勝負の第一局で勝ち。竜王戦は決勝三番勝負に勝ち進んだ。他に順位戦で四連勝。A級へ昇るのは確実と見られている。今や、誰が連勝を止めるかがいちばんの話題になっている。  このように勝ちまくるのはいいが、羽生くらいの棋士になると、課題が生じる。  デビューしたころ、ある人が、強いのは認めるが、人間的魅力が足りない、との不満をもらした。天才らしい、発散するものがない、というのだろうが、お説の通りであっても、まだ十代だし、これからだと思っていた。  以来七年。竜王という名人位と同格のタイトルを取ったのを頂点に、ちょっとしたスランプを経験し、今期竜王を奪い返そうか、との勢いになっている。技術的にどこか変った、ということはない。四段になったとき、今と変らぬくらい強かったし、これ以上技術が上るということもあるまい。  結局、大山十五世名人が常々言っていたように「強さをいかに長く維持するか」が課題なのだ。その面での進歩は、残念ながらまだ見られない。勝っているのは、昨年秋から正月にかけての谷川と同じで、調子の波に乗っているからだ。波が終ればまた元の姿に戻ってしまいかねない。  大名人になるには、ライバルが必要である。大山には升田、中原には米長がいた。  将棋界のライバル関係は不思議なもので、実力はいい勝負のはずなのに、戦績が片よってしまう。升田は全盛期の二年間をのぞいて、ほとんど大山に勝てなかったし、米長は名人戦で中原に六回挑み、全部負けている。だからといって、升田や米長を弱いと言う人はいない。ごく少数ではあるが、升田を史上最強と言う人もいるくらいだ。  つまり、真の天才同士が競い合い、勝った方が加速をつけて力をつけるのであり、ライバルがいて、いつもそれを負かすことによって、力を維持しているようなのである。  そこで現在の棋界を見ると、谷川にはライバルがいない。候補はいたが、A級を抜け、名人のレベルにまで達しなかった。谷川がどことなく伸び悩んでいるように感じられるのは、ライバルがいないせいだろう。  では羽生はどうか。こちらにもいない。  すこし年上に森下七段。同期に、村山六段、森内六段、佐藤(康)六段。後輩に屋敷六段、さらに郷田四段と、候補者は大勢いるが、どれもぴったりしない。谷川とは逆にライバルが多すぎるのである。  これからのタイトル戦は、谷川と羽生で戦われることが多くなろう。しかし、この二人はライバルになりえない。羽生が奨励会に入ったころ、谷川は名人になっていた。棋歴に差がありすぎる。  ライバルに恵まれるか恵まれぬかは運であり、谷川、羽生がいかに精進しても、どうなるものではない。そこが気にかかる。  羽生のライバル候補として期待するのは村山である。  まず、東と西ということがある。一方が貴族階級なら、一方は庶民階級(おことわりしておくが、将棋界内での育ち方、育てられ方をたとえたもので、身分とは無関係だ)。将棋の才能も甲乙つけがたいのはプロが認めている。  ここまでは申し分ないのだが、惜しむらくは、村山に実績が不足している。タイトルを取ったこともなく、挑戦者にもなっていない。病弱のため成績にムラがあるからだ。  天は二物を与えず、体が丈夫でさえあれば、と残念に思っていたところ、今年は体調がよいのか、新聞棋戦の成績がよく、竜王戦で準決勝まで勝ち上った。そして羽生と対戦することになったのである。  この一番だけは村山に勝たせたいと思った。ここで勝てば因縁が生じ、世間も羽生のライバルと認めてくれる。これからの将棋界も希望が持てるというものだ。  村山も生涯をこの一局に賭《か》ける、の意気込みで臨んだ。羽生もその気迫を真正面から受けて立った。  第1図は、羽生対村山戦の中盤の場面。  後手の村山が8七歩《ふ》成と成り捨てたところだが、これを同銀と取れば、5七桂《けい》成同玉8四歩同飛7五角で王手飛車がかかる。  第1図からの指し手。 7二と 同 飛 8三角 6二飛 6五角成(第2図)  当然、羽生は狙《ねら》いを見破った。手抜きして7二と、が厳しい。同飛の一手に、8三角と打ち、次に7二角成同金8一飛成となればお終《しま》いだから、村山6二飛と逃げるのは仕方がない。  そこで6五角成と味よく銀を抜き、羽生がはっきり優勢となった。第2図から、7八と8一飛成でよい。  第2図から十数手進んだところで村山が投げた。総手数は僅《わず》か六十七手であった。  大勝負に名局なし、という。手数が長ければおもしろい、というわけでもない。気合いが入りすぎてこんな将棋になることはままある。  とはいえ、あまりにもあっけなかった。これでは村山を応援していたファンは納得しないだろう。いや負けた本人がいちばん辛《つら》いんだ、と言っても、ファン心理は違うし、プロたる者それに応《こた》えなければならない。  昨年秋、村山は大山十五世名人と対戦する機会に恵まれた。初対局で、彼は大いに喜んだ。ところが、対局日の前日、突如脱力状態におちいり、身動きできなくなった。なんたる不運、と嘆いたそうだが、対局当日になると、奇跡的に体が動き、無事対局することが出来た。村山が勝ったのはいうまでもない。 「大山先生の感想を聞いていて気がついたのですが、馬を作るのが好きな人ですね。将棋は馬を作るのがいいんだな」  後日、村山はそんなことを言っていたが、せっかくいい教訓を得ながら、なぜ今度の勝負将棋に生かさなかったのか。馬を作るような展開になれば、二人の実力が十分発揮され、それこそ見応えのある競《せ》り合いになったろうに。終ったことをこれ以上言っても仕方がない。次の対決に期待するとしよう。  村山が二十歳になったとき「この年まで生きられるとは思っていなかった」と言った。村山について書く度にこの言葉が浮かぶ。そして、早熟の天才の一生、というものを考えてしまうのである。  シューベルトは三十一歳、モーツァルトは三十五歳で死んでしまった。では彼等がもうすこし生きたとしたら、傑作を加えることになったろうか。素人《しろうと》考えにすぎないが、どうもそうはならなかったような気がする。天才は、生きた年数にかかわりなく、やるべきことをやり終えて死ぬのではなかろうか。  村山が何歳まで生きるのか、それは判《わか》らない。しかし、タイトルをいくつか取り、後世に残る名棋譜を残すのはたしかなことである。  村山を破った羽生が決勝に進出し、もう一つの山からは、脇謙二七段を破った佐藤(康)が勝ち上った。この決勝戦も、玄人《くろうと》好みの対戦である。研究資料が山ほど出てきそうだ。  佐藤(康)の将棋は、今の若手棋士達の考え方を代表しているように思われる。すなわち、駒組《こまぐみ》で優位に立ち、中盤で有利に分れれば、自然に勝てる、というわけで、結果よりも過程を重視するのである。  野球やゴルフでいえば、いいフォームで打てば、かならずヒット、ナイスショットが生まれる、と考えるのに似ている。そう考える人は、結果オーライ、ポテンヒットを喜ばないだろう。  佐藤(康)もそんなところがある。うまく指しながら逆転負けしても(そんなことはめったにない)がっかりしないし、わるい将棋を逆転勝ちしてもあまり喜ばない。  好感を持てる考え方だが、見ている側からすれば、勝負のおもしろ味に欠ける。  先日、森下と佐藤の対戦を見たが、ヨセ合いになっても両者淡々としている。秒読みになったが、慌《あわ》てる様子もなく、正確に指し進める。秒読みのスリルなど、一昔前の話になってしまった。  とはいえ、勝ち負けを重視するタイプもいなくなったわけではない。羽生や森内は、どちらかといえば、勝つことを目的にする方である。勝負強いのはこちらなのはいうまでもない。  最後になったが、王位戦の経過をお伝えしておく。  谷川王位対郷田四段の七番勝負は、郷田が三連勝した。また新タイトル保持者誕生かと思われたが、さすがに谷川も四タテは辛いとばかり頑張り、第四、五局と連勝した。郷田があと一勝になってから、好局を二局落したあたり、名人戦とそっくりになって来た。  高橋は名人位を意識しすぎて手が伸びなくなったが、郷田にはそんな気配がなく、やはり佐藤型なのである。勝つにせよ、負けるにせよ、シリーズが終った後、どんなことを言うか興味深い。   「盤外」は大変  羽生棋王の好調がつづいている。  二十二連勝の後、三連敗し、ちょっと心配させたが、王座戦第二局で福崎を破って持ちこたえ、その次、竜王戦の決勝第二局で佐藤(康)に勝ち、王座戦第三局も勝って三連勝。福崎から王座を奪った。  これで気が楽になったか、竜王戦の決勝第三局も羽生らしい指し回しで逆転勝ちし、挑戦者となった。もう完全に好調時の姿に戻っている。  竜王戦七番勝負は、谷川竜王対羽生王座の対決で、現在の実力第一位と第二位の争いだから、最高の位を争うにふさわしい。  第一局は、十月にロンドンで対局されるが、ここ数年、囲碁将棋界共に、海外でタイトル戦を行うことが多くなった。海外普及になって嬉《うれ》しいが、せっかく行くのなら、公開対局にしたらどうだろう。あいも変らぬホテルに閉じこもった密室内の対局では、日本のホテルでやるのとさして変らない。  ま、それはよいとして、頻繁に海外で対局する有様を見ていると、棋士気質《かたぎ》も変ったものだと思う。一昔前だったら、やろうとしても、事前の対局者との交渉を想像するだけで、担当者はめげただろう。  こと対局に関しては、棋士の気難しさたるやたいへんなもので、ありとあらゆる、思いも付かぬことに難クセをつける。それはほんのささいなことだが、だから始末がわるい。  例えば、対局者が昼食に出前のそばを注文した。ところが、とどけられたのが休み時間とずれ、そばがのびてしまった。それが気に入らぬと、再び注文しなおす。ここまでは判《わか》らぬではないが、再びとどけられたのを見て、「これはさっきのと同じじゃないか」と文句を言ったそうだ。  一事が万事、すべてこの調子だから、新聞社の担当者もたまらない。海外の対局となれば、やれベッドでは眠れない、畳に座らなければ指せない、和食はあるのか、係りの女性はいるか。いるなら袴《はかま》をたためるか、立ち合い人と観戦記者は誰れと誰れか、その他、ありとあらゆる注文を聞き入れなければならない。  もっとも、うるさいのは対局者だけで、自分が指すときは気難しい人も、立ち場が変り、立ち合い人など付きそう側になると、不平はいっさい言わず、人一倍気を遣うからおかしい。  私は、昔の棋士だったら、の話をしているので、今の棋士は難しいことをいっさい言わない。相手と同じだから嫌だ、あるいは、ちがうのは不公平だなどとは言わない。気に食わぬことがあっても我慢する。  若手棋士の仲良しぶりを見ていると、今の担当者は楽だと思う。その代り、対局のときのとげとげしい雰囲気が失《う》せ、出来上った作品(棋譜)は、迫力を欠くものとなっている。苦労すればいい作品が出来る、の原則は逆の意味で生きているのである。  そんなわけで、二、三十年前の、升田対大山戦などは、はれ物にさわるような感じで対局が行われたものである。なにしろ、気に入らぬことがあれば「わしゃ指さん」の切り札があるから対局者は強い。  昭和四十一年、第二十五期名人戦は、大山と升田の対戦となった。  その頃は大山の最盛期で、とび抜けた存在だった。そして二位は、衰えたりとはいえ升田で、A級の面々は、本丸に迫ろうにも、その前の升田砦《とりで》を抜けなかったのである。  そんな情勢の中、名人戦が始ったが、誰も升田が勝てるとは思っていなかった。  ところが、第一局、第二局と升田が連勝し、にわかに盛り上った。第三局は大山が勝ち、勝負所の第四局は、熱海の「石亭」で行われ、私は記録係だった。  くどいようだが、升田と大山の、それも勝負将棋となれば、傍《はた》の気の遣いようも尋常でない。龍氏の観戦記にもその有様が描かれている。 「升田の目が赤い。心なしか顔色もさえない。“石亭”はその名の通り庭に石をしきつめ、その間をぬって水が流れているのだが、水の音が気になって、ゆうべは熟睡できなかったという」  さりげなく人ごとのように書いているが、升田に苦情を言われたとき、肝をひやしただろう。設営上の大落度になりかねない。升田は朝日の人であり、主催社が朝日だったから、ぶつぶつ言うだけで済んだ。これが他社の主催だったら、担当者は、水を止めてくれ、くらいの交渉をしなければならなかった。  そういえば、加藤(一)が、本当に名物の滝を止めさせたこともある。  さて戦いだが、升田が苛立《いらだ》っていたことはたしかで、一日目の午前中に早くも戦いが始まり、午後には中盤の勝負所にさしかかった。  そのとき、突然芹沢が入って来た。私のとなりに正座し、記録机に手をつき、「お願いします」ふるえ声で言い、頭をさげた。  それを合い図に、ドカドカッと五、六人が入って来た。升田と大山はすぐ芹沢を見た。険しい眼だった。芹沢はうつむいたままでいる。対局室はせまく、ファンがひざをつくと、下座の升田にふれんばかりだった。  瞬間、大山の眼がなごんだように見えた。 「こちらにもいらっしゃい」  ファンに声をかけた。升田は横を向いている。それは、許す、であった。  そうして五分もたったころ、芹沢が「ありがとうございました」と頭をさげ、ファンを連れて出て行った。何事もなく済んだのである。  それにしても、よく対局室に入りこめたものだ。離れ座敷だったので、外からじかに入れたのだろうが、朝日の担当者も、見て見ぬふりをしたか。  その頃、芹沢は三十歳。A級から落ちていたが、天才ともてはやされた花形棋士であった。ところが、競輪に凝り、生来の浪費癖も重なって借金に追われていた。  このときも、地元の沼津に帰り、金を都合しようとした。だがファンも無心が度重なれば気持よく金を出しはしない。切羽詰まって、名人戦を見せるから、と言った。あるいは、ファンの方から、名人戦を見せてくれるなら、の要求があったかもしれない。  ともあれ、そういう事情があっての無法であった。大山も升田も、すぐ芹沢の窮状を察した。  これが将棋界の仲間意識というものである。たしかに芹沢は将棋も強いし、誰れからも好かれた。だが、それだけで、顔を利《き》かす、のを許すはずがない。やはり、本当に困ったときは助け合う、の気持が根本にあった。よく喧嘩《けんか》をしたが、気持が通じていた昔が懐《なつか》しい。  棋士気質の変りようは、指し方にもあらわれている。  第1図は、そのときの大山対升田戦の最後の場面。4四歩《ふ》と打たれて、升田はどう逃げたか。  第1図からの指し手。 5五玉 4五飛 5六玉 6七銀 同 銀 3八馬(投了図)まで、大山名人の勝ち。  5五玉と中央に逃げた。そのため4五飛以下、投了図までで詰んでしまった。手順中、6七銀が鮮やかな手筋で、こう捨てずに5五銀と打ったりすると、6五玉で抜ける。  投了図からは、5七玉4八飛成までピッタリの詰み。持ち駒《ごま》を一枚も残さぬ見事さである。  第1図で、3五玉とこちらに逃げれば詰まない。しかし、4五飛2六玉3四銀と一手すきで攻められ、後手玉は詰まないから、先手負けがはっきりしている。  升田は知っていて詰む方へ逃げたのである。3五玉4五飛2六玉3四銀で投了は、汚ない負け方になる。5五玉と逃げれば、6七銀の妙手が棋譜に残る。升田の美学はこういうものだった。  今の棋士は、十人が十人、3五玉と一遍には詰まない方へ逃げる。そして5五玉と逃げる棋士を軽蔑《けいべつ》するだろう。詰みを知っていて、とあればなおさらだ。  かつて五味康は、升田の将棋には武士道精神がある、と言った。なら、3五玉と逃げる昨今の風潮を何んと言うか。見さげはてたる町人根性とでも言うだろう。  このシリーズ、升田二連勝後、大山が四連勝し、名人位を守った。  初めの話に戻って、竜王戦の見所を書いておこう。  先日、谷川の結婚式があり、羽生も出席していた。盛大な式が終り、みんなが二次会の席へ移っているとき、羽生は一人離れ、ロビーでインタビューを受けていた。  たまたまそうなったのだが、私には、それが今の羽生の地位をあらわしているように思えた。  二冠王になり、さらに竜王も奪おうとしている。つまり、第一人者への道を歩み出したのである。仲良しグループから離れ、孤高の人になりつつある。羽生が仲間から嫌われるとか、そういうことでなく、自然に近よりがたい雰囲気が生じているのだ。かつての中原や谷川のように。  それを的確に表現することは出来ないが、病的なまでにとぎすまされた感性があらわになっている。髪形が変り、顔は青白くやつれて見えたが、それは連戦の疲れだろう。競馬で言えば、ギリギリに仕上っている、といったところだ。  一方、谷川の嬉しそうな顔といったらなかった。  四月ごろから、気持よく勝てなくなったのを見て、変だなとは思っていたが、新妻とのなれそめがその頃と聞いて、なっとくが行った。恋をしている棋士は勝てぬ、ということになっている。  そのスランプは一時的なもので、負けにおまけをつけた勝ち星になって戻るのだが、結婚式を挙げ、区切りをつけたから、明日からでも勝ちまくりそうである。  羽生と谷川の体型は似ているのだが、一方のほほはそげ、一方はふっくらとし、イメージがちがって来た。それに加えて、群れから離れようとしている人と、伴侶《はんりよ》を得た人との対照もある。そういったもろもろの要素が、指し手にどうあらわれるか興味深い。  評判は羽生有利のようだが、私はまったくの互角と見る。ただ、羽生が勝つ場合は四対一ぐらいの短期戦。もつれて、第六局、第七局まで長引けば谷川のものだろう。   ショーギ・ウォーズ  今回は戦後の将棋界を陰で支えて来た(と言うより裏で支配していた、と言うべきか)、一人の人物についてお話しするのだが、この機会に、戦後の将棋を振り返って見たい。  戦後四十五年の将棋史は、まず木村義雄奇跡の名人位カムバックがあり、その木村名人から名人位を奪ったのが大山康晴。升田・大山時代はここから始まる。そして、不敗の大山を倒したのが、中原誠で、これ以後が、中原・米長時代。さらに谷川浩司が現れ、羽生を中心とする新時代となるわけだが、もうすこし詳しく書くと次のようになる。  昭和二十二年、中断されていた名人戦が復活し、塚田正夫が木村名人を破り、実力制第二代名人となる。  昭和二十三年、大山康晴が初の名人挑戦者となり、塚田名人に挑んだが、四勝二敗で塚田が名人位防衛。  昭和二十四年、木村義雄が名人挑戦者になり、三勝二敗で勝ち、名人位に復帰。  昭和二十五年、大山が挑戦したが、木村が四勝二敗で退けた。  昭和二十六年、ようやく升田幸三が名人挑戦者になり、ファンを沸かせたが、「筋違い角」の奇手をくりだすなど、木村が死力をふりしぼり、四勝二敗で防衛。これは名人戦史上に残る名勝負であった。  昭和二十七年、大山が三たび名人挑戦者となり、四勝一敗で木村から名人位を奪った。名人位は初めて箱根を越えたのである。  敗れた木村は「よき後継者を得た」と引退を表明した。これから大山の第一期黄金時代が始まる。  昭和二十八年、升田。二十九年、升田。三十年、高島一岐代《かずきよ》。三十一年、花村元司。大山はこれ等を破り、名人位を連続四期防衛する。  昭和三十二年、病気のため休場していた升田が復帰し、にわかに勝ちはじめ、名人挑戦者になり、四勝二敗で大山を破った。ファン待望の升田名人が誕生したのである。  昭和三十三年、升田の好調はつづき、名人、王将、九段の三冠王。この間大山を王将戦で半香《はんきよう》に指し込み、香落ちでも勝った。以前、木村を香落ちに指し込んでおり、文字通り「名人に香車を引いた男」となった。  この二年間は升田の才能が花開いた、将棋史上の輝やける時代であった。  昭和三十四年、大山の巻き返しが開始される。升田から三冠をすべて奪い返し、ここから長い、第二期黄金時代となる。  昭和三十五年、加藤一二三が名人戦初登場。このとき加藤は二十歳、「神武以来の天才」とさわがれたが、大山は四勝一敗と完璧《かんぺき》に叩《たた》いた。天才の芽をつんだわけで、長期政権の基礎を固めた。  昭和三十六年、丸田祐三。三十七年、二上達也。三十八年、升田幸三。三十九年、二上達也。四十年、山田道美。四十一年、升田幸三。四十二年、二上達也。四十三年、升田幸三。四十四年、有吉道夫。四十五年、灘蓮照《なだれんしよう》。四十六年、升田幸三。全部大山が勝った。  この十三年間の大山の強さは、たとえようもないほどのものである。ベテラン新鋭が、手をかえ品をかえ挑んだが、てんで勝負にならなかった。  わずかに危なかったのは、四十四年の対有吉戦と、四十六年の対升田戦で、どちらも第五局を終ったところで、大山が二勝三敗と負け越していた。そこで第六局をきわどく凌《しの》ぎ、第七局は圧倒と、同じパターンで防衛した。  対升田戦は、升田が現役最晩年のころであり、火が燃え尽きる寸前のような戦いだった。今にして思えば、苦戦しはじめたところに、大山の黄金期の終りの兆《きざ》しが見えていた。  昭和四十七年、「若き太陽」と期待された中原誠が名人挑戦者になり、最終第七局までもつれる大激戦の末、大山を破った。  このときは、第五局まで大山が勝ち越していた。さすがの中原も「いくら攻めても受け切られてしまう。とてもかなわぬ」と思ったそうである。このいきさつはすでに書いたのでくり返さないが、ともかく、中原は開き直り、大山の得意とする振飛車戦法を指し、第六、七局と逆転勝ちした。  大山が最後に考えられないようなミスを連発したのだが、そうして中原が勝ったあたりに、名人にはなるべき者がなる、の運命が感じられる。逆に、なるべき運のない者は、必勝の局面で信じられぬポカを指し自滅するのである。  昭和四十七年から中原時代に入る。  この頃の中原も大山に負けぬくらい強かった。誰にせよ、なにかの棋戦で中原を負かせば、それが予選であっても話題になるほどだった。  昭和四十八年、挑戦者加藤一二三を四連勝で破り、四十九年は、リターンマッチを挑んだ大山に、四勝三敗と競《せ》り勝った。  昭和五十年、世代交代の第一波ともいうべき、大内延介が登場。これは今も語り草になっている劇的な場面を含む名勝負で、大内が大チャンスを逃した。長期間にわたる激戦だったが、四勝三敗で中原が防衛。  昭和五十一年、遂《つい》に宿敵米長邦雄が挑戦することになった。結果は、四勝三敗と好勝負ながら、米長が及ばなかった。ここから、中原・米長時代となる。  米長は、名人戦でこそ中原に勝てなかったが、他のタイトル戦では、しばしば中原を破り、実力は劣らないことを示した。  昭和五十二年、名人戦が朝日から毎日に移ったこともあり、一年休止された。  昭和五十三年、異能棋士、森〓二が挑戦者となったが、森の剃髪《ていはつ》事件が話題になった。第一局、森が頭をツルツルに剃《そ》って登場したのである。毒気を抜かれたか中原は惨敗《ざんぱい》。しかし第二局から立ち直り、四勝二敗で防衛した。  昭和五十四年、米長邦雄。五十五年、米長邦雄。五十六年、桐山清澄と、次々に降《くだ》し、中原は連続九期名人位を保持。  昭和五十七年、加藤一二三が、三度目の名人挑戦者になった。稀有《けう》の大天才も、四十歳を越え、盛りはすぎており、とても勝てるとは思えなかった。  ところが、持将棋あり千日手ありの大激闘の末、四勝三敗で加藤が勝った。奇跡的な名人が生まれた、これがたった一つの例である。  加藤名人は一年きりだった。  昭和五十八年、谷川浩司が現れ、あっさり加藤を破り、二十一歳史上最年少名人となった。  これ以後は、ご存知の方も多いだろうしくわしくはふれない。  五十九年、谷川。六十年から六十二年まで中原。六十三年に谷川が返り咲き、平成元年も米長を破って名人位を守った。  しかし、平成二年、また中原に奪われ、平成三年、四年と、中原の名人がつづく。  以上、ざっと名人戦の歴史を見て来たが、その時々の名人位の動きで、将棋界のおおよその有様が判《わか》る。名人位を中心に将棋界が回っているからである。  それにしても、戦後四十数年中、大山が十八期、中原が十五期も名人位に在り、また在りつつあるのは、いかに二人が傑出しているかを証明するものだろう。  将棋界の表側は、時々名人が交代し、すこしは動いている。では、裏側の将棋連盟内部はどうか。これが驚くべし、ほとんど変っていない。順位戦制度にしても戦後間もなくに作られたものが、場あたり的に取り繕いながら、今も残っている。四十五年も経《た》てばいろいろと不合理が現われているが、それでも根本的に改革する気配がない。なによりも既得権を重視するからだ。  そんな将棋界内部の体質を象徴するのが丸田祐三九段である。  二十三年に早くもA級八段に昇り、以来五十年代まで、実力ナンバー4、あるいは5あたりを維持していた。「歩《ふ》使いの名手」と言われ、投げっぷりのよさも知られているが、それが名棋士としての表側の顔とすれば、二十年代から昭和の終りまで将棋連盟の政治面の中枢《ちゆうすう》にあって棋界を動かして来た、大番頭としての裏側の顔もある。こちらの功績の方が大きく、丸田の本当の姿である。  若いころから大山と仲が良く、したがって升田と対立する場面がしばしばあった。それでいて力を保ちつづけられたのは、升田、大山、その他高段者の既得権を強固に守ったからだと思う。  この人の論理と方法論は、棋士の特質をもっともよく表わしているのだが(とにかく誰と議論しても負けたことがない)それを語る紙数が尽きてしまったので、次回につづけたい。  さて、今回の棋譜は、今戦われている、竜王戦七番勝負、谷川竜王対羽生王座戦の第一局から。  第1図、谷川が5七桂《けい》と打ち込んだ場面だが、これには一同唖然《あぜん》とした。どう考えても無筋としか思えないからである。それに5七歩成としたい気持がある。  第1図からの指し手。 7九玉 7六歩 同 銀 同 飛 5四銀 同 玉 5五歩 同 銀 2四飛 同 歩 6五角 6四玉 7六角(第2図)  華麗な攻防だが、右の手順は一本道。第2図は羽生勝ちに見える。ところが、次の谷川の一手で、みんな「アッ」と言った。  第2図からの指し手。 6八銀 8九玉 8八歩 同 金 7九飛 9八玉 8九銀 同 金 同飛成 同 玉 8八銀(投了図)まで、谷川竜王の勝ち。  みんなは第2図で6九飛と読み、金がないから詰まないと思っていた。ところが6八銀と捨てる妙手があった。これを5七桂と打つときに読んでいたのだから恐ろしい。  6八銀を同金は、5九飛で、合い駒《ごま》が飛金銀の類《たぐ》いしかないから詰み。  羽生は8九玉としぶとく逃げたが、8八歩以下どうしても詰んでいる。投了図からは8八同玉7九角7八玉6九銀不成6七玉6八金まで。  谷川はハネムーンの最中。それにしては将棋が冴《さ》えすぎている。   丸田の秘密  私が奨励会に入会したのは昭和二十七年の夏。大山が木村を破って名人になり、木村が現役から引退した歴史的な年だった。  だから、木村十四世名人の公式戦の対局を見ることはできなかったが、引退直後のお好み対局は見た。  相手は花村で、当時八段になったばかりで、意気盛んなころだった。しかし、この異能棋士は、勝っても負けても同じ、なんていう将棋は熱が入らないらしく、昼すぎにあっさり投げた。  懐手《ふところで》の木村は「君もこんな将棋を指しちゃあいかんね」とか言って胸を反らせた。いつものことだったらしいが、そんな言動が嫌味でなく、自然に見える人だった。つまり、威張るだけの貫禄《かんろく》があったのだ。  感想戦を終え、階下へ降り、事務室で丸田を見かけると「丸田さん、ちょっと……」と声をかけた。私は、アレッ? と思った。  丸田は八段だったが、まだ三十歳前後の後輩である。その人にさんづけとは。升田、大山には君づけなのに。そうか、経理担当の理事とは偉いんだ、と子供心にも納得したのだった。  先日、丸田と対局日がいっしょになり、対局中の雑談で、その昔話をして「先生も昔はエラかった」と言ったら、「なんだい、今はエラくないみたいな言い方だな」 「木村名人でも、引退すると変るんですかね」と、さんづけにこだわると、「いや現役のころから、私にはさんづけだったよ」とすましていた。  丸田の勢威たるや、表には知られていなかったが、内部では大変なものだった。それが、戦後間もなくから、昭和六十年代までつづいた。戦後の将棋連盟を動かしていたのは、升田、大山ではなく、丸田ともいえるのである。  丸田が力を持ったのは、大山と仲がよく名人を後楯《うしろだて》にしていたからだ、という人もいたが、それは当っていない。丸田その人に実力があったのだ。将棋の力も、升田、大山の次だったし、けたちがいに頭がよかった。なんていうか、特殊な頭の働きをするのである。そのほんの一例を言えば——。  棋士の月給は七掛けシステムになっている。仮りにA級の月給が五十万とすれば、B級1組は三割減の三十五万。B級2組はその三割減の約二十五万、となる。これは対局料も同じで、C級2組の棋士がA級と対戦したとき、C級2組の棋士の対局料が五万なら、一方は十万円になる。これでは、クラスが下の者はいくら勝っても追いつけない。順位戦で勝って、クラスを上げなければどうにもならないのだが、その順位戦は、昇るのを極力押え、下へはなかなか落ちないような仕組みになっている。結局実績のあるベテランが、いつになっても有利で、これが将棋界の既得権というものである。  その仕組みを作ったのが丸田であった。  一見したところ、クラス別に給料が決っていて、単純明解のごとくだが、持ち点、順位給、降級危険手当等々の付帯条件がついて、細かいところが複雑きわまりない。私もよく判《わか》らないのである。恐らく棋士のなかで、丸田以外に、自分の給料がいかにして決っているかを知っているのは数人だろう。  その訳を判らなくするところが丸田流で、金の分け方だけでなく、システムのすべてが同じ。なんでも丸田に訊《き》かないと判らない(そういう時代が長くあった)。  そんなわけで、丸田は常に若手棋士とは対立し、反面ベテラン中堅の支持を得ていたが、若手に対し、独特の理屈をもって絶対に譲らなかった。  私が三段になるころのことだったが、突然、三段から四段への昇段をリーグ戦方式とし、年二名かぎりとした。棋士が増えて分け前が減るのを防ぐためである。  当然若手側は、ひどすぎる、と抗議した。対する丸田の言い分は、「どんなに弱く、成績がわるくとも、年に二名はかならず昇れるじゃないか」であった。これでは議論にならない。  いったん若手と対立しても、数年もすれば、その若手も、既得権を主張する立場に変る。そうして丸田は力を増した。  また、人間的に一本筋が通っていて、仲間にこびず、人によって意見を変えることがなかった。立場上、裏の事情に通じていたが、絶対に洩《も》らさなかった。それでいて、案外情にもろいところもあり、芹沢なんかは、親に金をせびるような感じで接していた。  一度会長になったこともあるが、理事をやっていたほとんどの期間中、番頭役に徹した。これほどの名番頭は、他の世界にもいないのではなかろうか。ま、悪《あ》しき体質を作った、と言えなくもないが。  さっきも書いたが、今も丸田は現役棋士である。大山に死なれ、さすがにがっかりしたらしいが、それでも順位戦のときは深夜まで頑張る。その体力は七十歳を越えているとは思えない。丸田こそ、古今を通じてもっとも恵まれた棋士の一人である。  話題を変えて、最近の棋界情報をお伝えしよう。  十二月二、三日、北海道で竜王戦第四局が行われ、私はそれを見て来た。遠くまで出かけたのは、この先数ケ月を占う急所の一局と読んだからである。  竜王戦は、第三局まで、谷川竜王二勝、羽生棋王一勝と、谷川がリードしている。  もし第四局で谷川が勝てば三勝一敗となり、ほぼ防衛だ。逆に羽生が勝てば、二連敗から二連勝、完全に追い込みムードになる。それとこの一局は竜王戦の帰結を占うだけでなく、続々はじまるタイトル戦に大きな影響を与える。谷川は棋聖戦、王将戦の二つの他、棋王戦に挑戦の可能性があり、竜王戦に勝ってそれ等を戦うのと、負けて戦うのとでは、気分的にえらい差がある。しかも、王将戦、棋王戦で羽生と戦うことになりそうだからなおさらだ。  私が対局場に着いたのは、第二日目の午後だが、すぐ、谷川の目のさめるような強襲が決り、いっぺんに優勢となった。  何事かと対局室に入ると、羽生はうつむいていた。頬がけいれんしている。やがてため息をついて顔を上げたが、そこで、例のじろり一瞥《いちべつ》が出た。まだ闘志を失っていない。  長く盤側に座っていられる雰囲気でなく、早々に部屋を出たが、控え室に入っても気が落ち着かない。コーヒーでも飲みに行きたいが、留守中に終ってしまうのが心配だ。それほどの大差だったのである。  谷川はいい所にと金を作っている。それを足場に攻められたら、羽生陣は一たまりもない。  テレビ解説者として来ている、森下七段が「羽生さんのことだから、まだ粘ります。結構難かしい所もあると思いますよ」と言うが、まだ安心できない。いや羽生を応援しているわけでないが、せっかく遠くまで来たのだから熱戦を見たいのは、人情ではないか。  あまり考えずに谷川は指した。控え室で誰も予想しなかった、と金を捨ててから飛車を打ち込む順だった。瞬間「なるほど」の声が出た。もたもたしてない、というわけである。それが、谷川の信用であろう。ヘボが指せば「なにやってんだ」とそくざにバカにするところだ。  信用が保《も》ったのもしばらくの間だった。やがて「おかしいぞ」の声が出はじめた。と金を捨ててしまったために、羽生に粘る手段が生じたのだ。羽生は控え室が発見した受けの好手を指し、局面は完全にヨリが戻った。  やれやれの思いで、ロビーのティールームに行き、一息入れて戻ると、局面は急変していた。谷川が敗勢なのである。自分から負けるような手を指していた。それでも、まだ粘る手がありそうだったが、もう気力が萎《な》えていたらしく、斬《き》ってくれ、と首を出すような指し方をして負けた。まだ六時前だった。  感想戦では、当然のごとくと金を捨てた手に質問が飛んだ。とっさに声が出ない谷川に代って羽生が「捨てずに桂《けい》飛ばれたら負けでしたね」と言いながら、負けに至る手順を並べる。それを見ていた谷川の表情は忘れられない。なんていうことだ、そんな手があったのか、気が付かなかったのが信じられない。やがて頭へ手をやり、呆《あき》れ返って見せた。  そうだろうと思った。谷川は、あのと金を捨てる手を指すとき、空白状態だったのである。と金を捨て、以下よし、と読んだようでいて読んでなかった。棋士は、パッと指す手がひらめいたとき、それをすぐに指さない。かならず確認をする。それは本能的なものである。大山は、決り切った手を指すときも、盤面全体をグルリ見回した。ノータイムで指してもかなりの手を読み、それを反復している。  もし谷川がと金を捨てるとき、それをすれば、オヤ? 桂を飛ぶ手もありそうだぞ、と気がつき、ためしに読んでみると、そちらの方が早く確実に勝てることが判ったはずだ。時間はありあまるほどあったことだし。  ポカとか軽率というのとは違う失着だったが、問題はその後にもあった。  敗勢になってから、谷川はきれいに負けた。飛車をただで捨てて肉迫するなど見せ場を作り、絵に画いたような一手違いの投了局面を作った。さすが、と感心する人もいたが、私はそう思わない。きれいな指し方は、逆転することがないのである。むしろ筋のわるい、きたない指し方(クソ粘りなどという)が相手に圧迫感を与える。不思議にそういうものなのだ。ただ負けるときは、みっともない野垂れ死にになることを覚悟しなければならない。  谷川将棋の格調の高さは、それを許さない、という面がある。問題はそこなのである。いずれにせよ、この一敗で谷川は苦しくなった。暮から新年にかけてのハードスケジュールのなか、どう立て直すだろうか。  第1図は、と金を捨てる直前の局面。ここで、4五桂8一馬5七桂成7二馬6七成桂同金6九飛なら、谷川勝ちだった。これはほとんど変化の余地がない。  第1図からの指し手。 5七と 同 金 7五歩《ふ》 同 歩 2八飛 7六銀(第2図)  第2図となっては、後手が容易に勝てない。しかし、不利になったわけでもないのに、一時間あまり後には投げていた。谷川のこんなまずい将棋は、四段になって以来見たことがない。   「新人類」のウィークポイント  羽生善治王座が谷川竜王を破り、竜王に返り咲いた。  昨年暮は、村山聖六段が米長九段を破って王将戦の挑戦者になり、佐藤康光六段も中原名人を破って、棋王戦の挑戦者決定戦に進出した。  このように本欄でおなじみの新人類棋士達が、新年早々から大暴れしそうである。  対して谷川が苦しい。竜王戦は、二連勝と上々のスタートを切りながら、第四局で軽率な負け方をしたのがひびき、最終局までもつれ込んだあげく、負けてしまった。  負けたのは仕方がないが、その負けっぷりがおもしろくない。なんというか、将棋の中身が薄いのである。  プロ将棋の見せ場は、斬《き》るか斬られるかの終盤の競《せ》り合いにある。最近の谷川の将棋にはそれがないのだ。もっとも、羽生にも同じ傾向があり、竜王戦でも、負けたときはさっぱりと一手負けしていた。  一方が優勢になり、寄せにかかると、あっさり寄ってしまう。控え室が感嘆するような粘りは、竜王戦では一度も見られなかった。  昨年の暮、中原と米長の対戦があった。王将戦の挑戦者争いがからむ、かなり大きな一番だったが、これが凄《すご》かった。形勢は二転三転、最後は米長が勝勢となったが、そこで中原は、詰ませてみろ、と開き直った。  そんなバカな、簡単だろう、と思われる形だが、いざ詰まそうとすると容易に詰まない。米長に時間がなく、詰まないのではないか、の声が出たとき、米長はきれいに詰ませた。それを見ていて、こんなスリルを味わうのは久しぶりだな、と思った。  どちらが強いかは別にして、おもしろいのは、中原・米長の中年組の将棋である。ファンに感動を与えるのはこちらだろう。  谷川と羽生には、その点を考えてもらいたいが、それについては、今回の棋譜でふれよう。  一月、二月はタイトル戦が多く、谷川はそのほとんどにからんでいる。  まず、現在行われているのは棋聖戦で、郷田王位を相手にして、第二局まで、谷川一勝一分け。棋王戦は、佐藤(康)六段と決勝を戦うが、谷川は勝者組、佐藤は敗者復活戦から勝ち上っている関係で、決勝は、谷川が二局のうち一局勝てば挑戦者になる。すると羽生棋王との再戦になる。  もう一つ、王将戦は、先に書いたように、村山が相手の防衛戦だ。  こうしてみると、谷川は一週間に一度のペースで、二十代前半の若手棋士と戦うことになる。佐藤(康)・郷田・村山・羽生等としょっちゅう戦うとなれば、これはかなりしんどい。竜王位を守っていればともかく、失った直後だけに、駒《こま》を見たくない気持になっているとも思われる。  最悪を考えれば、持っていた四冠全部を失ってしまうことだってあり得る。そうはならないと思うが、いずれにせよ、谷川は試練の時を迎えていることはたしかだ。それを、どうプラスに転じるかである。  大山という人は常に勝ちつづけていたようだが、生涯を振り返ると、逆境に立たされた場面が何度もあった。召集令状が来たとき、升田に三冠全部を奪われたとき、大腸ガンが発見されたとき、ガンが肝臓に転移していると判《わか》ったとき、などなどである。  大山の真価は逆境に立たされたときあらわれた。それをきっかけにして大きくなって行ったのである。  それに比べて、谷川のこれまでの三十年は順調でありすぎた。ほとんど負けることを知らないで来ている。人生に節がないのだ。仮りに、今度の連戦でガタガタになったとしても、それがよい節目を作ることになろう。私は、全部負けて一から出直した方が、将来のことを考えればプラスになるような気がする。敗戦から何かを学ぶことが出来るのは、大天才だけである。谷川はその才能に恵まれている。  人生の転機は判らないもので、日常のなんでもない勝ち負けが、きっかけになる。  昨年十二月の上旬、私が対局しているところへ、村山がふらっと入って来た。記録係の横に座ると、盤面を見ることもなく、うつむいて、小さくため息をつき、首を振った。 「頑張れよ」と言おうとして、慌《あわ》てて口をつぐんだ。対局中の棋士に、そういった類《たぐ》いのことを言ってはならない。村山は、羽生と戦っていたのだが、夜戦に入ったそのころは、優勢の局面が、あやしくなっていた。  やがて村山は出て行った。勝てそうな雰囲気はなかったが、そこで気力をふりしぼり、きわどく一手残して勝った。  この一戦は、王将戦リーグの羽生にとっての最終戦で、羽生が勝てば、五勝一敗で挑戦者になるところだったが、負けたために、四勝二敗で終了。村山は勝って三勝二敗となり、さらに、森内も破って、羽生と並んだ。他に米長も勝ち残って四勝二敗。三者のプレーオフは、まず、羽生と村山が戦い、これは村山が勝ち。そうして米長も負かして挑戦者になった。  羽生四勝一敗、村山二勝二敗の星から、逆転するとは誰も思わなかった。村山にしても、目はあるのを知っていても、挑戦者になろうなんて考えてなかった。ただ、ライバルに負けたくない、と戦っていたのである。  羽生と村山は、東西を代表する若手といわれているが、これまで大事な一戦はことごとく羽生が勝っている。昨年の竜王戦もその一つで、準決勝で当り、村山は力を出せなかった。一方はすでにタイトルをいくつも取り、一方は挑戦者にすらなっていない。ライバルと言うには、実績に差がありすぎる。  竜王戦が大チャンスと応援したのだが、それがだめでは、追いつく機会は当分めぐって来ないだろうとあきらめていた。  思えば、升田と大山でも似たような状態があった。兄弟子でありながら、大山に先を越されて名人になられ、二度挑んだが、難なくハネ返された。攻めても攻めても、全部受け切られた。ここで、升田は大山より下、と格付けされたのである。  升田はやけ酒をあおる日々がつづいた。ついに体をこわし、休場するはめになった。  約二年たって升田は対局できる体調に回復し、大山と対戦する機会を得た。これはお好み対局(とはいえ公式戦)みたいなものだったが、気軽に指したのがよかったか、升田が連勝した。  これがきっかけになり、以後、升田の連戦連勝が始まったのである。  なんとなく、村山と升田の例は似ているではないか。ともあれ、羽生にストップをかけただけでなく、競り合って抜いたところに値打ちがある。  村山については、これまでしばしば書いた。奨励会に入るとき、理不尽なことで、入会を一年延ばされた。出発からして、羽生や佐藤(康)、森内などとちがったのである。子供のときから腎臓《じんぞう》が弱く、今も脱力状態におちいることがよくあるそうだ。  入院して対局に通ったら、と言うと「とんでもない。入院したら出してもらえません」と笑っていた。  すでに彼の人生は二十三歳にして節目がたくさんある。今の棋士は、昔のように、三十歳までに名人になる、などと年齢を意識するようなことはなくなった。一年一年が勝負の年、との感じがないのだが、村山には、貴重な青春なのである。思いもかけぬ機会に恵まれて、才能を開花させるだろう。  谷川の寄り身を、独特の感覚でかわし、見事にうっちゃる、といった将棋が、何局か見られるはずだ。  年頭ということで今年の全体の流れを予想すれば、谷川や新人類棋士達だけでなく、中年組の戦いも興味深い。  米長九段は、今年五十歳になる。A級順位戦で全勝中で、名人挑戦者は決定的だ。南九段も一敗で追っているが、米長か南かとなれば、米長を選ぶのが将棋界というものである。で、米長と中原が名人戦で戦えば、なんと六度目の対決になる。谷川に挑戦して負けたのを合わせれば、七度目の挑戦で、過去にこれだけ負けつづけた棋士はいない。このあいだ師匠の佐瀬名誉九段に「米さんがまた挑戦者になりそうですね」と言ったら「どうせ七転八倒になるよ」と笑っていた。  だが、二人の将棋には、今の若手棋士達の将棋とは違うおもしろさがあり、それによって、プロ将棋が年々つまらなくなっている現実が明らかになる。百年後のプロ棋界がどうなっているか想像も出来ないが、そのころのファンは、大山対升田戦とか、中原対米長戦の棋譜を楽しんでいるような気がする。  そんな兆《きざ》しを、竜王戦の最終局に見ることが出来る。  第1図は、中盤の戦いが終り、寄せ合いに入ろうとしている場面。いってみれば、クライマックスである。それがあっけなく終ってしまう。  第1図からの指し手。 7六角 5九飛 8八玉 5四桂《けい》 3五桂 3三金引 6七角(第2図)  7六角は攻防の好手。逆に、ここに7六桂と打たれては、いっぺんに寄ってしまう。  この角打ちには羽生は自信があったらしい。次に、2三銀と打つ筋があり、同玉なら2一飛成以下詰む。  谷川はいったん5九飛と打って金にひもをつけ、5四桂と詰みを防いだが、これが落手。3五桂から、6七角と引かれ、受けなしになってしまった。  第2図は後手に歩《ふ》がないため、受けようがない。谷川は6六桂と飛び、2三銀同金寄同桂成同金同角成同玉2一飛成までで投げた。  5四桂で、4三角と受ければ、まだ難しいアヤがあったらしいが、それにしても、第1図からの終り方は、まことに味気ない。本来なら、二転三転があって当り前の形勢なのである。  情報合戦の時代、と言われる。中盤で不利になると、取り返しがつかない。寄せの技術が進歩したから、逆転が難しくなった、というのだが、そうだろうか。  私は、むしろ技術は退歩しているように思える。寄せが正確になったのでなく、やや不利の状態を持ちこたえる力がなくなっているのである。つまり、ミスを誘う指し方が出来なくなっているのだ。どう指したらよいか判らない、という局面が見られなくなった。それは、若手棋士達の、人間的魅力のあるなしと関係しているのだろう。   名人位までの遠い道のり  二月四日、A級順位戦の、米長九段対小林八段戦と南九段対田丸昇八段戦が行われた。  ここで、米長が勝つか、あるいは南が負けるかすれば、米長が名人挑戦者に決定するところだった。  私は早くからこの時点で決定すると読み、中原対米長の名人戦の見所を書こうと思っていた。ところが、米長が負け、南が勝ったために、決着は最終戦に持ち越された。その最終戦で、米長と南が当っており(こういうところが運命的だ)、南が勝てば、共に七勝二敗で同率決戦になる。  星勘定のうえでは、判《わか》らなくなった、というところだろうが、米長有利は動かない。ファンはみんな、中原対米長、六度目の対決を見たがっている。谷川名人に挑戦したのを含めると、米長は六度名人位に挑み、ことごとく敗れている。今度が七度目である。  ともあれ、プロ将棋の勝敗は世論によって決るのだから、米長が挑戦者になるだろう。そして、その対決が実現したとき書こうと思っていたのは、レベルについてであった。  ここ数年、プロ棋士(若手)の棋力は急速にアップし、中年組はついて行けなくなっている、と言われるが、本当だろうか。昨年戦われたタイトル戦は、谷川対羽生、谷川対郷田、そんな組み合わせばかりだった。二十代前半と三十歳の対決にくらべると、中原対米長戦は、シニア選手権のような感じになってしまうが、私の考えでは、レベルは、こちらの方が上である。  そう言うと、いつも若手棋士達から猛反論を受けるが、これについては次の機会に書くこととして、棋士達の、名人位に対する想《おも》いが違ってきたことはたしかである。制度に問題があるからだ。  ご存知のように、プロ将棋界は、クラス分けによって成り立っている。上はA級から、下はC級2組まで、五つのクラスに分けられているが、名人になるにはA級十名の中に入り、そのリーグ戦で一位になり、挑戦者になって手がとどく。それ以前のA級に昇るまでが大変なのである。  名人になろう、の志をいだいて奨励会に入り、六級から上って三段になると、ここで第一の難関が待っている。三段リーグで、四段になるのは、年四名と制限されている。  やっとここを突破して、C級2組に入ると、そこは五十名を越す大世帯だ。それだけいて、C級1組への昇級は年三名。そこも運よく抜けると、次のC級1組は二十数名のクラスで、昇級は一人減って年二名。その激戦をくぐり抜けても、まだB級2組。道の半ばに達したにすぎない。  ある年、羽生、村山、森内、佐藤(康)、と四人の新四段が誕生した。四段ながら、A級並み、いやそれ以上の力を持っている。しかし、三人しか上れないので、一人はC級2組にとどまる。上った三名もC級1組で年に一人取り残される。羽生、村山の名を挙げたが、これと同じくらいの才能の持ち主は、毎年現われているので、Cクラスのレベルは上る一方だ。  その結果、羽生についていえば、四段になってから七年たって、A級に昇っていない。村山、森内はB級2組。佐藤(康)にいたっては、まだC級1組である。棋聖になった屋敷もC級1組。王位になった郷田はC級2組の有様。  これだけきつくては相当な天狗《てんぐ》も、A級に上ろうなんて望みは捨てる。A級になれなければ名人にもなれない。で、「今の若手棋士は名人になろう、なんて思っていません。あんなもの一つのタイトルに過ぎないのです」のふてくされを聞くことになる。そう言う気持も判る。棋士の最盛期は、二十歳から二十五歳くらいまで。その貴重な期間を、名人位を争うのでなく、C級を抜けることに費す。やっとA級にたどりついたときは、盛りをすぎているわけで、このままでは、数年先の名人戦が思いやられる。  かつて、C級B級は通過のクラス、と言われた。二上、加藤(一)、山田、芹沢、中原、米長、谷川といった人達はもちろん、桐山、森(〓)、勝浦、青野、その他にもいるが、A級に上るような人達は、四段から八段まで、ほとんどノンストップで駆け上った。その早さがエリートの証明でもあった。  だから、階段を一段ずつ上って名人位に達する、の名人戦独特の制度も重みを持っていた。今は事情が違ってきている。制度そのものを見直さなければならなくなっているのだ。そういう境い目の時機に、もし、中原対米長戦が実現したならば、よき時代へのお別れ興行みたいな感慨を持つファンもいることだろう。私も同じである。  今回の棋譜は、王将戦第二局から。  村山六段の健闘を期待しているが、どうもよそ行きの姿になってしまい、力が出ていない。対局中のあれやこれやに気を遣わず、好き勝手に過せばいいのに、と思う。対局者は絶対の権力を持っている。なにか気にくわないことがあったら、「わしゃ指さん」と言えば、この世界たいていのことは通ってしまうのだ。  第1図はどちらが勝ちか判りにくいところ。それがすぐ判るのが、両者の強い所なのだが、この直後、二人共誤ってしまう。  第1図からの指し手。 6九角 同 金 4九角成 4七玉 5八銀(第2図)  谷川は6九角と攻めたが、これは負ければ敗着になった悪手。  村山が同金と取ってくれたからよかったものの、同金でなく、4七銀と受けられたら、谷川が負けになるところだった。  正着は、第1図で4九金。以下同金4七銀同玉4九角成と攻めれば谷川勝ち。このとき村山の持ち駒《ごま》は、金と銀三枚になるが、その持ち駒では、3三銀と攻めても詰まない。  ところが、4七銀と受けられた次、4九金同金同角成同玉4七角成と似たような手順で必至をかけると、その瞬間、村山の持ち駒は、角と金銀となり、角があれば、3三銀と打ち込んで詰む。  煩雑《はんざつ》をさけてくわしい変化は省くが、このくらいの手順は、村山の力をもってすれば一目で判るはずである。谷川も同じで、終ったあと「おそまつでした」と苦笑していたそうだ。第2図は谷川勝ちで、5六玉3八馬と、しっかり寄せ切った。  これで谷川二連勝。棋聖を防衛するなどすっかり立ち直った。   決定! 中原VS.米長名人戦  米長九段が南九段を破り、名人挑戦者になった。一方、王将戦は、谷川王将が村山六段を四連勝で破り、防衛した。  順位戦が終ると、大山の名が表から消える。淋《さび》しいことである。  ここ十年あまり、三月初めのA級順位戦最終日は、将棋界のお祭りになっていた。主役はもちろん大山であり、もし負ければ降級、そして引退、の場面が何度かあった。そのつど超人的な粘りで切り抜け、ファンを感動させたものだった。  逆のこともあった。昨年は、最終戦の対谷川戦に勝ち、さらに他力にも恵まれ、同率決戦に持ち込む、という奇跡を起した。肝臓ガン手術の直後という劇的情況も加わって、たいへんな騒ぎであった。それは、たった一年前のことなのに、何故《な ぜ》か遠い昔の出来事のように思える。  もうあんな感動的な場面は見られないだろう。大山が主役でなくとも、ファンを沸かせた事件はあった。谷川が名人挑戦をかけた対中原戦など、その一つだが、将来、羽生が名人挑戦者か、という場面になっても、谷川のときほど話題になるとは、とうてい思えない。コンピュータ技術の進歩で、将棋の質が変りつつある現在から見れば、升田・大山時代は、将棋のおもしろさを堪能《たんのう》させてくれた、という意味で、よき時代だったのである。  そうした情勢にあって、中原と米長が名人戦で戦うとは、貴重なものを見るような気がする。それは、よき時代の遺産だからである。  正確には憶《おも》い出せないが、だいぶ昔のことだ。  米長が将棋会館の棋士のたまり場に遊びに来て、自戦解説をはじめた。自分から勝った将棋を仲間に見せるなんて、プロはめったにしないもので、米長にすれば、よほどの会心作だったに違いない。たしか、相手は淡路七段(当時)で、十段戦リーグの一局だった。  その将棋を並べながら、終盤の場面になると、「最善手はこうだ」とその手順を並べ、「非常に難しいが、私がわずかに負ける。これをやれば、淡路君も最善手で応じるだろうと思った。そこで考えた。(違う手を示して)こう指せば相手が読んでなく、間違えると確信した。これは本当は悪手で、最善に応じられれば私がすぐ負けるんだけどね。しかし、どうせわるいのなら、と、わざとその悪手を指した。思った通り、淡路君は間違えた。どうだ、うまいもんだろう」  逆転した局面まで進め、ニヤリとした。  ハッタリで勝ったみたいだが違う。  それはプロ将棋の真価を示すものである。米長が一番強い、見ていてそう思った。  プロなら誰でも、そういった考え方はできる。しかし、実際に指せない。棋士本能に反する行為だからだ。どうしたって難解な順の方が、間違えてくれる率が高いと思えてしまう。自分が優勢なときは、相手が最善手で応じることを心配し、その対策に読みを集中する。  そんなとき、ふいに、読んでない手、あるいは、浮んでも軽視していた手を指されたらどうなるか。「なんてへたな手を」と思いホッとする。不思議なもので、そんな瞬間にポカが出る。悪手でなくとも緩手を指し、流れをわるくしてしまう。  ただし、本当に弱く、手を読めなくてへたな手を指したのなら、相手はすぐに見破り、ますます冴《さ》える。最善手を知っていながら、それを指さない所に妙味がある。  いつの間にか米長はそういう指し方をしなくなった。大天才だから何か私などには判《わか》らない考えがあるのだろうが、指し方の変化は、タイトルを取れなくなったことと無関係でないように思える。米長の場合、棋力が衰えたから無冠になったわけではない。  中原と米長は数多く対戦し(三十年間も戦っているのだ)おたがいに、ありとあらゆることを知り尽している。名人戦だけでも五回戦っており、いずれも米長が敗れている。名人戦という舞台では、米長が意識過剰になっている気配があり、だからうまく行かない。  また、そこがおもしろいところで、米長には名人位に対する特別な思い入れがある。  今の若手棋士には、名人位なんて単なる一タイトル、の風潮がある。いずれ、名人戦特有の雰囲気も失われてしまうだろう。  中原対米長戦の、名人戦なるが故《ゆえ》のおもしろさはまだまだある。  来期は、いよいよ羽生がA級順位戦に登場する。そこへ、中原、米長、どちらが入っても、谷川を含めた挑戦者争いに勝つのは容易でない。来期は羽生が挑戦者になるはずである。  つまり、惜別の一戦、ともいえるのだ。であれば、米長を一度は名人にしてやりたい、の世論も起ころう。加藤(一)も、そうして名人になった。そのプラス面と、中原との相性のわるさが相殺《そうさい》され、きっといい勝負になる。  今回の一局は、棋王戦第二局、羽生棋王対谷川王将戦から。  第1図は最後の場面。先手の手番で、後手玉が詰むかどうかだが、羽生はしっかり読み切っていた。  第1図からの指し手。 3二銀 同 飛 同 と 同 玉 4四桂《けい》 3三玉 4二銀(第2図)  最後の4二銀が好手で、第2図以下同玉3一角までで、谷川が投げた。その後は、3三玉2二銀4四玉4五飛と打って詰み。戻って、第2図の4二銀に対し、同銀は、2二角4三玉3二角5三玉5二飛までで詰み。  つまり、第1図は詰んでいるのだが、プロなら、十数手前からこれを想定して読み切っている。そこがプロの腕の見せ所でもある。  ところが、最近はコンピュータの腕前が上り、詰将棋ならプロ並みの力があると証明された。詰将棋にかぎらず、王手がらみの局面なら、正確な結論を出せる、というのである。  第1図なども、コンピュータなら、あっさり詰ましてしまう。王手がらみの局面とは、計算できる範囲、ということらしい。複雑な計算をする能力も、電算機の出現で、大分値打ちが減った。それと同じことが将棋界に起こりつつある。   平成四年度 順位戦総評  三月をもって各クラス順位戦が終了した。で、今回は昇級者の面々を紹介することにする。当然のことながら、そのほとんどが若手である。彼等を語ることは、今後の将棋界を予測することにもなろう。  A級一位は米長邦雄九段。実に七回目の名人挑戦である。今度こその期待がかかるが、気になることもある。  あるところが、米長に名人戦を前にしてのインタビューを申し込んだら、終ってからにしてくれ、と言われたそうだ。  いろいろ取り方があるのが米長の言動の特徴だが、意識過剰になっているのはたしかで、前六回とすこしも変っていない。プロ野球の予想みたいに、両者の戦力分析をすれば、精神面で米長にマイナスが出た、というところか。もっとも気分はすぐ変るから、戦いの経過によって、プラスに働くこともありうる。  技術面は、二人共好調だ。中原名人はNHK杯戦で優勝したし、米長は、全日プロトーナメントで決勝に進出している。  どちらもタイトル戦ではないが、NHKと朝日の棋戦だから大きい。すこぶる気をよくしているだろう。  いずれにせよ、今度の名人戦は、今世紀最後の名勝負になることはまちがいない。  B級1組からA級への昇級は、羽生善治竜王と加藤一二三九段。  羽生は本命中の本命で、十二勝一敗、楽々と上った。同じクラスの連中も、どうぞお先に、と言っているようでもあった。それが、大山言うところの「信用」である。仲間に強いと思われるから勝てる。昇級の他に、竜王を谷川から、王座を福崎から奪い、棋王は谷川を退けて守り、三冠王になった。平成四年度「将棋大賞」は当然であった。実力日本一の地歩を固めた年でもあったが、それにしては、パッと華やかな雰囲気がないのが気になる。  たとえば、昨年から今年にかけて、谷川を再度破ったが、その一局一局の印象がうすい。金太郎アメみたいに、みんな似たような将棋なのである。これが、中原や米長を負かしたというのなら、ずいぶん感じがちがっただろう。つまり谷川にも問題があるのだ。  かつて、升田対大山、中原対米長、といったライバルの対戦は、一局一局が歴史を作っていった。羽生と谷川の対戦には、因縁が積み重なることがない。ライバルの対戦は、ファンが二分される。升田と大山のときは極端としても、今回の名人戦の、中原対米長戦も、応援が二つに分れるだろう。中原は好きだが米長は嫌いだ、あるいはその逆、ということがあって当り前だ。みんなから好かれるとは、人間として魅力に欠ける、ということでもあろう。  谷川と羽生をわるく言う人はいない。人間的な嫌味もない。故《ゆえ》に、勝負におもしろ味がないのである。将棋界には、わるく思われてはならない、の風潮が定着しつつある。そうして、仲良しクラブみたいになってしまった。それは、囲碁界も同じである。  加藤一二三九段のA級カムバックも特筆ものだ。五十三歳にして、最盛期と同位置を保つとは、才能が並はずれていることの証明だろう。  加藤の対局姿を見ていると、躁鬱《そううつ》気味のところがある。躁状態のときは強く、鬱状態のときはなさけない。戦いが始まらないうちに持ち時間をあらかた使ってしまい、駒《こま》も前に進まなくなる。意味不明の手待ちをしたり、感想戦もすぐやめて帰るなどが、その症状だ。  反対に、対局中口数が多くなり、動きが多くなると、駒に勢いが出てくる。動作に、好不調がはっきりあらわれる。だから、観戦記が書きやすく、人気がある。今期はずっと躁状態がつづいていた。昇るめぐりあわせだったのである。  B級2組の昇級者は、森下卓七段と村山聖七段。ここも本命が昇った。  森下は玄人《くろうと》筋の評価が高く、力そのものは羽生に次ぐとの声もある。そのわりに実績がなく、高橋九段、南九段などにくらべてはるかに劣る。B級1組は難なく通過しようが、A級に昇って二、三年が勝負の年。堅実というだけでは、超一流になれない。  村山もいつの間にかB級1組まで上り、新人類棋士仲間の、森内、佐藤(康)に一歩先んじた。王将戦の挑戦者になるなど、記念すべき年になったが、口さがない連中は、王将戦について、四連敗なら誰だって出来る、と言ったとか。棋士のやきもちは厳しい。  C級1組は、佐藤康光六段と泉正樹六段。どちらも独走だった。  佐藤はエリートらしく、着実に地位を上げているが、泉の方は、異色の存在といえる。なにしろゴルフに凝りまくり、将棋を指しているとき以外は、ゴルフのことばかり考えている、というのだから恐れ入る。それで勝てるのでは、研究とは何ぞや、ということになる。ともあれ先が楽しみな棋士である。むだなことをしている分、寿命が長いだろう。  C級2組は、郷田真隆五段、畠山成幸五段、中田功五段の三人が昇級。  郷田は王位だし、畠山、中田も実力があるから昇って不思議でないが、それでも、番狂わせが続出し、それに恵まれた面がある。  下位クラスには、負け犬根性がしみついてしまったような棋士が多い。弱いと馬鹿《ばか》にされれば、ムッとするが、怒って戦えばなお負ける。ところが、勝負だから、怒った方が勝つこともたまにはあり、そういったとばっちりで人生が左右されることがある。そういった棋士が、何人かいた。  今回の棋譜は、棋王戦の最終戦、羽生棋王対谷川王将戦から。  第1図は、谷川の手番なら6八龍《りゆう》の一手詰。それをどう防ぐか。  第1図からの指し手。 8八玉 7九角 9八玉 7七龍 5八飛 5七龍 同 飛 同角右成 5四飛(第2図)まで羽生棋王の勝ち。 「王の早逃げ八手の得」というのが、8八玉で、これで羽生の勝ちが決った。  これには、7九角から7七龍が怖い手だが、5八飛と成銀を取る手が、ピッタリ王手になる。勝つときは、こんなうまい手が生じるものである。  第2図の5四飛も好手で、5三金と受けても、5一金6三玉6四銀同金5二飛成以下詰み。   これからが本番! 名人戦  中原誠名人対米長邦雄九段の対決で、名人戦七番勝負が開始され、米長が、第一、二局を連勝した。  第二局終了後、米長勝ちを伝える「毎日新聞」は、名人位にあと二勝、と半ば名人位を手中にしたような書きぶりだった。  それはそうだろう。第一局は必敗の局面から逆転勝ち。第二局は、序盤中盤終盤すべて文句なしの圧勝。特に、力感あふれる米長の攻めっぷりをその場で見ていれば、今期は米長のものだ、と記者氏ならずとも思う。  名人位まであと二勝、は控え室の空気を率直に伝えている。  そんな雰囲気は対局者にもすぐ伝わる。関係者は公平を心がけてそれを隠そうとするから、よけい感じ取られてしまう。それは将棋界独特のものだろうが、だから、負けそうな者は八方ふさがりのような気持になる。これも計算に入れると、中原はますます不利かに思える。  ところが、プロ筋はそう見ていない。何人かの棋士に聞いたが、みんな、これでおもしろくなった、と言っている。二連敗の星が前提だから、五分五分というわけでないが、四・五分対五・五分ぐらいの率である。  その根拠は、中原がまだ本気になっていないと思えるからである。第一局の内容に明らかで、くわしくは後にふれるが、要するに読みに本腰が入っていず、このくらいでいいだろう、の指し手が多く、そのすきを狙《ねら》われて敗れたのだ。第二局の完敗も、第一局からの流れで、よくあることである。  中原と米長の、名人戦での対決は五回ある。そのうち、第一、二局米長連勝は二回あった。  一つは、昭和五十四年の二度目の対決のときで、第三局も米長優勢となったが、終盤、中原に奇跡的な手が出て、中原が勝った。これが棋史に残る「5七銀左の妙手」で、この一手が流れを変え、第四局以後中原が三連勝して終った。  この妙手は、単にシリーズの流れを変えただけでなく、米長の人生をも変えたのである。  中原によれば、5七銀左の手は、読み筋ではなく、狙っていた手でもなく、その場になって、ふっと浮んだという。  雑念があれば思いもかけぬ手など浮ばない。妙手が見えるのは、自然体でいられたからこそである。どうってことのない対局ならともかく、名人戦のような舞台で平静な気持を保てる人は稀《まれ》である。  もう一つは、昭和六十三年の四度目の対決のときで、とうとう米長名人誕生か、の声が多かった。それにつられて、私も、三河の銀波荘まで、第三局目を見に行った。ウソか本当か知らないが、祝勝会の予約を某ホテルに入れたとかの噂《うわさ》まで出た。  第三局二日目の対局室に入って、意外だったのは、緊迫感がないこと。特に中原はゆったりとしており、どう見ても、負ければ事実上名人位を失う、という勝負を戦っている感じではなかった。中原という人は、どちらかといえば、自分が置かれている状態とか、形勢によって表情が変るタイプでないが、それでも、険しくなったり、苦しそうにしたり、悲しそうになったりはする。どこかいつもと違うだろうと期待して見に来たのに、はぐらかされたのを憶《おぼ》えている。  将棋もわけのわからない展開で、派手な戦いもなく、中原が勝った。そして、このシリーズも、第三局以後中原が連勝し、四対二で終った。  すなわち、名人戦は第三局が勝負なのである。今も、この次どんな将棋になるだろうかと、わくわくする。  大山十五世名人がよい例だが、大棋士は逆境におちいったとき強い。さっき言った、八方ふさがりの状態になると力が出る。升田はその逆だった。二人の差はそこにあり、中原と米長の比較にもそれが言える。  米長の場合、名人戦を含めたタイトル戦での四連敗が多すぎる。周囲の空気に敏感すぎるのだろうが、大山はそれ以上に敏感でありながら、知らん顔をしていた。  中原は敵がない人柄で、盤外のあれやこれやをあまり気にしないが、といっても勝負の天才であるから、周囲の空気が勝負を決めることは知っている。昨年、高橋に一勝三敗と追いつめられたときは、さすがの中原も、家にとじこもったきりだったという。そうなってから不思議な力を出すのは、昨年の結果が証明している。  中原と米長の対戦は、百七十局を超えた。お互い、手の中《うち》を知り尽くしている間柄である。米長も、まだ中原が本気になっていない、と思っているだろう。徳俵に足がかかったときの強さを、恐れてもいよう。その不安に、名人位の重みが加わる。  仮に、今戦っている名人戦が中原対羽生で、羽生が二連勝したのなら、八割方、羽生名人誕生であろう。  米長が羽生より弱いということはない。むしろ強いと思うが、名人戦では中原に勝てない、の因縁がつきまとっている。そこに何度も書くが、今回の名人戦のおもしろさがある。  第1図は、名人戦第一局の終盤の局面。  中原がうまく指し、圧倒的によかったのが、なんとなく甘い手を連発し、だいぶ接近している。しかし、まだ中原がよい。  第1図からの指し手。 4一龍《りゆう》 5四玉 4三銀 4五玉 3四銀不成 5四玉(第2図)  右の手順中、4三銀から、3四銀不成と追ったあたり、プロとも思えぬ手順だが、中原になにか錯覚があったのだろう。  それより問題なのは、第1図での次の一手である。ここで6三銀としばれば米長玉は必至。そのとき、中原玉が詰むかどうかだが、それがすこぶる難しい。  6三銀に、8八飛成同銀6六桂《けい》という攻め筋があるからだが、それに対し、4九玉と逃げて、僅《わず》かに詰まない。つまり、第1図で、6三銀と打てば、中原が勝ちだったのである。  考える時間はたっぷりあり、中原が必死の気持であったなら、最後まで読み切っただろう。中原の技なら、どんな難解な詰みでも、読めぬということはない。また、詰まされるのを恐《こわ》がった、ということもあるまい。  結局、どこか気持が緩んでいたのである。第2図でも、まだ中原が負けと決ったわけでないが、疑問手をつづけて敗れた。   新名人誕生!  米長新名人が誕生した。  五十歳を目前にしての名人位は、将棋史上例のない快挙である。才能と、いままでに貯《たくわ》えたものが、いかに多かったかが判《わか》る。  それにしても米長四連勝とはあっけなかった。こんな結果は誰も予想しなかったろう。あるいは、歴史はこんな風にして変るのかもしれない。  第四局に勝ち、名人になった直後「名人は選ばれてなるもの、と自分が言ったために、マスコミに重圧をかけられ、辛《つら》かった」と語ったそうだが、勝利インタビューにそんな答えをした新名人はいなかった。いかにも異色の名人の誕生という感じがする。  他に「名人位は勝ち取るもの、との心構えで臨んだ」の談話があり、米長の気持を知る上で興味深い。マスコミの重圧とか、勝ち取るもの、とことさら言うのはなぜだろう。私達は、米長こそ、あらゆる面でいちばん恵まれている棋士、と見ていたが、当人にすれば、そんなものではなかったのだろう。なにかと屈折するものがあったと想像される。そういえば、大山が亡《な》くなって一年後に名人になれたとは、何か因縁めいたものを感じる。  名人には二つのタイプがある。  一つは,木村義雄、大山康晴、中原誠型。もう一つは、升田幸三、加藤一二三型で、くらべてみると、人柄、棋風など対照的な面が多いが、違いがきわだっているのは、名人になるまでの足跡である。  言うまでもなく、一方はすんなりと、一方は何十年もの苦節を経て名人になった。  升田は、四、五段の頃から大山と並び称され、大山に先んじて名人になると見られていた。ところが、木村・大山との勝負将棋でことごとく敗れ、名人になれずにいた。たしか昭和三十年ごろは、升田と大山の格付けは、はっきりとつき、もう升田は名人になれないと言われた。  いや、将棋界のことだから、直接言われはしなかったが、その見方を升田は感じ取っていた。やけになり、あびるほど酒を飲み、ついに体をこわし、休場のはめにおちいる。  一年以上間をおいて、半病人の体ながら復帰し、大山と対戦したら勝てた。それがきっかけで、あれよあれよと勝ちはじめ、三十二年、ついに大山を破って名人になった。そのとき、すでに三十九歳になっていた。  全盛時はとうに過ぎた、と思われてから名人になれたのは、加藤(一)も同じだ。なにしろ、十八歳でA級、二十歳で名人挑戦者になりながら、二十年以上もおあずけを食い、中原を倒して名人になったのは四十二歳である。  米長も早くから才能と見識を仲間に認められ、二十代なかばには、名人位に片手をかけていた。それからおよそ二十五年、私達にはうかがい知れぬ何かが米長の胸中に生じて当然であろう。自分自身の中で米長は周囲と戦っていたような気がする。  ともあれ、升田と同じく、米長も名人になるべく運命づけられた棋士だったのである。  ところで、中原はなぜ負けたのか。しかも四連敗はどうしたことか。なにか原因がありそうだが、それが判らない。  だいたい中原という人は、こと勝負になると、何を考えているか判らない人である。だから強いのだ。ところが、今回の名人戦では、その不可解さがあらわれなかった。例えば、ある局面で、プロ棋士全員が中原不利と見たとする。そんなとき、中原だけは、そうかな、という顔だったのが、今回は本人と周囲の見方が一致していた。それでは神通力も出ない。  また、第一局での逆転負け、第三局の完敗が痛かった、との見方は正しいのだろうが、そういう常識通りの展開になったところに、中原の敗因があった。本来なら、第一局の勝敗など、流れに関係なかったはずなのだ。  中原の敗因というより、米長の勝因の一つに、若手棋士と親しくし、研究会に顔を出したりして、序盤の欠点をなくした点があげられている。第四局も、島を中心とする研究会に米長が顔を出したとき、たまたま調べていた局面と同じになり、そこで得た知識が物を言った、ということになっている。  説得力がありそうだが、そういう見方は将棋をつまらなくする。そもそも、若手と勉強したりして名人になれるものだろうか。それは単なる情報収集にすぎない。それに、研究会に足を運ぶなどは、受験生が予備校に通う労力にも及ばない。  米長が名人になれたのは、天才の創造力が発揮されたればこそであり、中原が研究不足だったわけではない。  今回の棋譜は、名人戦の第四局から。第1図はすでに米長勝勢だが、こういうところから波乱が起きるのが将棋であり、勝負はこれからだ。  第1図からの指し手。 2四歩《ふ》 2九角成 2三歩成 同 金 2四歩 7六桂《けい》 同 金 8七歩 同 玉(第2図)  飛車取りにかまわず、米長は敵玉頭に殺到する。第2図までは予想された手順だが、この後の中原がおかしかった。  第2図からの指し手。 3七飛 6七銀 5六馬 2三歩成 同 馬 4六角(第3図)  3七飛の王手がすべての味を消してしまった。王手の利《き》きを含みに、第2図で2四銀と粘れば、米長も簡単には勝てなかった。  第3図は投了の場面。以下、6七飛成同金同馬と攻めても、2七飛と王手馬取りがかかる。  このあっさりとした斬《き》られ方が、今期の名人戦全体を象徴している。けれど、こんな負け方を見ると、中原がこのまま名人戦の舞台から消えるとは思えない。升田のように全力を出し切ってから去るはずで、それが天才というものである。もう一回、中原対米長戦が見られるのではないか。   谷川・羽生時代到来?  米長新名人が誕生し、新しい時代に入った。と言っても、米長時代になるという感じではない。当人も「名人になり、もう思い残すことはありません」と言っているくらいだ。ケチをつける気持はさらさらないが、今度の新名人誕生は、中原・米長時代の結末をつけた出来事のように思える。  となれば、次は谷川・羽生時代ということになるが、この二人の対決は、数年前羽生竜王に谷川が挑戦した頃から始まり、最初は谷川が竜王を奪って実力上位を見せつけた。  その後、勝ったり負けたりをくり返しながら、次第に羽生が差をつけはじめ、現在は、羽生が竜王、王座、棋王の三冠、谷川が棋聖、王将の二冠となっている。  そして、棋聖戦が進行中だが、これも谷川対羽生戦で、もし羽生が勝てば、四冠と一冠でまた差が開く。  さらに、羽生は王位戦の挑戦者にもなり、近く郷田王位との七番勝負が開始されるが、これも勝てば五冠王になる。残るは、王将位と名人位だが、興味深いのは今期名人挑戦者になり、すんなり名人になれるか、である。  気が早いが、その予想をすれば——。  今期A級順位戦で挑戦権を争うであろう有力候補は、中原、谷川、羽生。他に高橋、南、田中(寅)もいるが、中原等三人が格上の評価を得ている。A級の中にもA、B、Cとあるのだ。格上の三人は、中原が小林(健)を、谷川は加藤(一)を、羽生は高橋をそれぞれ破り、幸先《さいさき》よくすべり出した。A級は、最後までの組み合わせが決っており、最終戦の一つ前に、中原対羽生戦。最終戦で、谷川と羽生が対戦する。作ったようなクジで、なんとなく因縁めいている。  こうしてみると、主要棋戦すべてに羽生がからんでおり、実力一位であることがはっきりしている。  いつも書くことだが、将棋界においては、常に歴史はくり返される。とすれば、来年の今ごろは、羽生新名人で沸いているはずだが、はたしてそうなるか。  永世名人になるような棋士の最盛期は、異様とさえいえる雰囲気がある。どうにもこうにも強すぎる、という感じになる。それに、びくともしない貫禄《かんろく》も加わる。棋士達は、しばらくの間は感嘆して眺めているが、全盛期が長くつづくと、微妙に感情が変化しはじめる。勝負の世界で、負けた者が勝ちまくっている者を恨んでも仕方がないのだが、そうもいかなくなる。  もう三十年も昔の話だが、関西将棋会館の棋士のたまり場で、ある夜、下位のベテラン棋士数人が酒を飲んでいた。対局が終ったあとの、よくあることだった。  そのうち一人が待遇かなにかの、つまらぬことでグチをこぼした。はじめは仲間も相づちをうっていたが、あまりしつっこいのでもてあましたころ、はなれて柱に寄りかかっていた内藤が「ヤマさんを負かすことや。ヤマさん負かさにゃ、なに言うてもあかん」と決めつけた。  それで終《しま》いになったが、内藤の投げやりな口調が今も耳に残っている。口には出さねど「そやけど勝てんのや」だったろう。  当時の内藤は若手のバリバリで、今で言えば村山聖みたいな存在だった。彼の言わんとしたのは、弱い者は何も言う資格がない、ということ。強いと認められ、言い分を通せるようになるには、大山を負かすしかなかった。大山は権威そのものだったのである。  そのころ、外部に対しての将棋界は升田。内政面のボスは丸田だった。大山は何も口出しせず、ひたすら勝つことに専念しており、利害関係で恨まれるのは筋ちがいだったが、大山は知らん顔をしていた。  この世界は、恨まれたら損する、とみんな思っている。対戦したとき頑張られるから、というわけで、仲間の悪口を言ったり書いたりしない。身に覚えのない恨みを買っていると知ったら、必死に申し開きをするだろう。大山はそれをしなかった。  他の勝負の世界のことは判《わか》らぬが、将棋では、怒った方が強い、ことはない。「この野郎、俺をバカにしやがって」とカッとなれば、かえって力が出ない。というより力んで自分で転んでしまう。ときには「あいつを負かす」と宣言して勝った例もあるが、それは稀《まれ》なことで、ほとんどは、憤兵は敗れる、のである。  もしかしたら、大山はそれを知って、憎しみを一身に集め、なお平然としていられたのかもしれない。そういえば、さりげなく、当人に知れるよう、きつい一言を言ったりした。  谷川や羽生にそんな気配はまったくない。まだ憎まれるほど勝っていない、とも言える。将来羽生がそういった人間になるかどうか、それは判らない。近いうちに、七冠はともかく、五冠王ぐらいにはなるだろうが、全盛期は意外に短かいような予感もする。それは人間が変りそうにないからである。  ただ羽生には、升田、大山、中原、米長、谷川、といった天才達にない、異質な才能があるのを感じる。それがどういうものか、うまく表現できぬのがもどかしいが、それは二十年ぐらい経《た》って理解できる種類のものだろう。大山将棋を今になって理解したのと同じだ。これこそ本当の、将来の楽しみ、である。  今回の棋譜は、棋聖戦第一局から。  第1図は羽生が3四金と打った場面だが、後手玉に一手すきがかかり、先手玉は詰まない。すなわち羽生が勝ちに思えたが……。  第1図からの指し手。 8七歩《ふ》成 同 金 7九飛 8八玉 7八銀 4三歩成 4一玉 4二金 同 飛 同 と 同 玉 4八飛 4七角(第2図)  強いときの谷川は奇跡的だ。第1図は一手すきのようで、そうでないのを見破った。そこで、8七歩成から7九飛と攻め、7八銀と必至をかけた。  やむなく羽生は4三歩成から迫ったものの、谷川の読みに狂いはなく、4二同玉まで詰まない。  ならばと、羽生の4八飛は最後の根性を見せた手。対して、5二玉なら、7八飛と銀を取って粘れる。  ところが、谷川はそれも読んで妙手を用意していたのだから恐れ入る。  第2図の4七角がとどめの一手で、以下、4七同飛5一玉で詰まない。先手玉は必至だから、谷川の勝ちとなった。 一九九三年度 新時代の幕開け  佐藤康光、羽生を破って竜王になる。  羽生、A級順位戦で好調に勝ち進む。その終盤、対中原戦で、羽生が上座をしめて話題になった。  谷川とのプレーオフに勝って名人挑戦者。名人戦で米長を破り名人となる。  この年(一九九四年)、羽生はタイトル戦すべてに勝ち、六冠王に……。  名人・米長邦雄 竜王・佐藤康光   米長の大パーティーと羽生  羽生の勢いが止まらない。  谷川王将から棋聖位を奪って四冠王となり、現在、王位戦で郷田王位に挑戦しているが、第二局までで羽生が二連勝。これも勝ちそうな形勢だ。  とすれば、竜王、王座、棋王、棋聖に王位を加え、五冠王目前ということになる。こうなると、さらに王将、名人を加えて七冠王が話題になるが、さすがにこれは難しい。  つまり、王位戦まではよいとして、八月末から王座戦の防衛戦が始まり、次に竜王位、棋聖位を守りながら、王将戦のリーグ戦を戦って挑戦者になり、谷川を破る。さらに、その間順位戦で勝ち、挑戦権を得て米長名人を倒す。これで全冠制覇が成る。すなわち、王位戦から数えて、タイトル戦六連勝が必要なのである。  これだけ勝ちつづけるのは羽生といえども無理だ。そんなに欲張らず、今は名人位に狙《ねら》いをしぼっているのではなかろうか。  あの盛大な米長のパーティーを見て、名人になりたい、と思ったとしても不思議でない。  で、A級順位戦の星だが、高橋九段、南九段を破って二連勝。これは手厚い勝ち星である。  高橋、南は、かっこうの試金石といえる。すでに数多くのタイトルを取り、中原、米長、谷川に次ぐ格を持っている。同じようなタイプに、森下七段、島七段がいるが、クラスの差(B級1組とA級)を別にしても、高橋、南の方が格上である。つまり、大関なのだ。  棋風も、正攻法でけれん味がなく、堅実でめったに取りこぼさない。ただ、出来不出来がすくない長所があるものの、一発の決め手がない。そのため、力の劣っている相手はしっかり負かすが、格上の相手には勝てない。  羽生がこの二人をがっちり負かしたのは、A級で格上の存在であることを示したことになる。いや、私がくどく書くまでもない、そんなことはもう知れわたっているのだ。  まったく、棋士仲間での今の羽生に対する評価はたいへんなものである。  先日も対局室に前田七段が入って来てしきりに感心している。どうしたと訊《き》いたら、谷川対羽生の棋聖戦第四局の副立ち合い人をやって、将棋をよく見ていたが、羽生が強すぎて、なにを考えているのか読めなかった、と言うのである。  タイトル戦には立ち合い人が二人ついて、一人は対局開始の合図や振り駒《ごま》その他儀式に関り、これが正立ち合い人。もう一人の副立ち合い人は、控え室で、解説を担当する。それが判《わか》らないのでは、前田も弱っただろう。彼もかつては全盛時の米長を二局吹っ飛ばし、大物と評判になった男だ。 「将棋の格が二つぐらい違いますね」は、ちょっと買いかぶりと思うが、現場にいて、いっしょに手を読んだ人の言だから説得力がある。  その直後、順位戦の対南戦を見て、前田の説が正しいことを知った。有様は後にご覧いただくが、今の羽生の勢いは誰も止められないのではないか。  羽生の周囲をもうすこし見ると、王位戦を戦っている郷田王位は、昨年頃の勢いがなく、羽生と競《せ》り合う、といった感じでない。同期の、村山七段、佐藤(康)六段は、羽生と対戦する所まで近づけず、森内六段だけが、あと一歩で対戦、という所まで来ている。  王座戦の決勝は谷川と森内の対戦。谷川の、負けても負けても出直す気力はたいしたものだが、この一番は森内に勝たせたい。今の状態なら、羽生対森内戦の方がおもしろそうだ。  森内はデビューした年に、谷川を破って全日本トーナメントで優勝、というキャリアを持っている。以来期待されながら、やや伸び悩みの感じになっている。  今回の挑戦権争いは、脱皮のチャンスで、この勝ち負けが、将来を左右するだろう。  森内だけでなく、伸び悩みは若手棋士全体に見られる兆候だが、ベテラン達は元気一杯だ。  名人戦のことは忘れたような顔をしているのは中原前名人。小林八段、谷川王将を破って順位戦二勝だ。  余談になるが順位戦の組み合わせは決っていて、最終戦は、谷川対羽生、その一つ前は、中原対羽生、となっている。うまく出来すぎているので、クジに細工したのだろう、とかんぐる者もいる。で、中原にそれをたしかめたら、「そんなことありませんよ」と笑っていた。中原をだます者は将棋界にいないから、クジは公正だったのだ。  五十七歳の有吉九段も二連勝で、早くもA級残留を決めたかの勢い。加藤(一)九段は一勝一敗だが、この三人を見ていると、将棋の才能とは別に、人間的な鍛えが違うような気がする。  中原と羽生にはさまれて、谷川はどうなって行くのだろう。新しい興味が生じたようである。  七月二十日、米長新名人就位式と祝う会が開かれた。千八百名を超す盛会で、米長の人脈の広さはたいしたものだが、ここで米長は、持っている力を見せた、ともいえる。名人になるのが念願だったが、それには、こうしたパーティーを開きたい、の夢も合わさっていただろう。  後日、将棋会館に来た米長は、ふらり対局室に顔を見せた。すると、対局中のある棋士が、「お目出度《めでと》うございます」と畳に手をついた。対局中の棋士は、将棋を指すこと以外は気を遣わないで済むものだ。こんなの、今までに見たことがない。  今回の棋譜は、南九段対羽生竜王戦。  第1図は、すでに大勢決している局面だが、ここからの羽生の寄せ方が鮮やかだった。  第1図からの指し手。 4一飛 2二金 3一角成 3二金 同 馬 2二飛 2一飛成 同 飛 1四歩《ふ》(第2図)まで、羽生竜王の勝ち。  勝ち方はいろいろあるが、どう勝つかにも才能があらわれる。  4一飛から3一角成と一見平凡に寄せ、後手が2二飛と粘ったとき、2一飛成と捨てたのが見事。1四歩まで、きれいな必至がかかった。  第2図には、現在の南と羽生の差が見えるようである。羽生がデビューして新人類棋士とさわがれたころ、棋王戦の本戦で南と対戦した。その内容をよく覚えているが、南に、いいようにあしらわれた感じだった。  それから八年、立場が変ったが、それは、羽生が強くなったから、ばかりではないような気がする。   本格的女性進出の胎動  依然として羽生竜王の勢いが止まらない。八月には王位戦で郷田王位を四連勝で破り、王位を加え、五冠王になった。  もう羽生の強さについては、仲間内でも呆《あき》れるばかり、話題にもならなくなった。私がプロ達に訊《き》いても「棋力・人柄・言動、すべて完璧《かんぺき》です」これでお終《しま》いである。  一人の棋士がこんなに高く評価されたことは私の記憶にない。大山の第二期黄金時代・升田の三冠王時代・中原の名人になって間もないころ、それぞれ圧倒的な強さを誇ったが、羽生ほど評判は高くなかった。大山については、将棋の質について疑問があったし(昭和四十年代には真の強さが判《わか》らなかった)、升田には大山の存在があった。中原も同じで、当時のベテランのなかには、大山が名人を奪われたのを意外と思った人も多かったのである。  昔のことはともかく、羽生との比較によいのは、谷川が名人になったころだが、この人にはまだ未完の感じがあった。将棋がちょっと粗っぽく、取りこぼしも多く、勝率もそう高くなかった。  余談になるが、谷川が名人になってから十年近く経《た》ち、未完の大器がどうなったかと言えば、あまり進歩がない。なぜ大名人への道を進めないのか、同世代の「花の五十五年組」(高橋・南・中村・塚田など)の伸び悩みと共に、よく考えて見たいと思っている。  羽生は現在二十二歳で、谷川が名人になったときとほぼ同じ年ごろだが、こちらは、すでに完成された棋士、という感じがする。もう伸びない、ということでなく、欠点がない、という意味でだ。  では、どこが強いのか、となると、うまく説明できない。デビューしてから、竜王になったまでは、なんとか理屈がつけられた。しかし、一年くらい前からの、その上を行く充実ぶりについては、理解できない。どんな変化があったのか、それが私には見えないのである。  羽生は、ノーミスの将棋を指す、のを目標にしているそうだ。  気がつかないうちに、羽生にかぎらず若手棋士の将棋に対する考え方が変っていたのだ。升田に代表される「新手一生」後世に残る新手を指す、の精神は、割りのわるい行き方というわけだろう。  そんな抽象的な言い方でなくとも、升田の攻め、大山の受け、米長の腕力、中原の強情、とそれぞれ判りやすい特徴があった。羽生にはそれがない。欠点のないのが欠点、特徴のないのが特徴、ということになってしまう。  羽生の強さを証明するのは、結局のところ数字である。デビュー以来、常に年間七割から八割にかけての勝率を維持している。これは驚異的な高率である。かなりの期間、こんなに勝ちまくった棋士はいなかった。  青野八段の説によると、棋士になってからの全対局の勝率が六割以上ならA級になれ、七割を超えると名人になる。逆に六割を割るとB級に落ち、五割を下回るとB級を維持するのが難しくなる。この理論からすれば、羽生は名人になって当然ということになる。名人になるための関門、A級順位戦では三連勝、トップに立っている。  羽生の強さは誰も口にしなくなった、と言ったが、先日、将棋会館に行ったら三人の少女が奨励会の入会試験に合格したのが話題になっていた。  ご存知のように、奨励会とは、六級から三段までの棋士を養成するところで、そこに入会したから、プロになったというわけではない。プロの卵になったのである。しかも、六級で受かったのだから、棋界の大勢に影響のない、些細《ささい》な出来事なのだが、私達からすれば、驚くべきことなのであり、ぜひ紹介したい。  年々奨励会のレベルは高くなり、今や入会試験に合格するのは、小学生名人戦で活躍するなど一種の英才教育を受けた少年だけになった。合格した少年が一年もまれ、さらに強くなったところに、翌年の受験生は対戦して、勝たなければならないのだから難かしい。女性が合格するなんて、夢みたいな話なのである。  合格したのは、木村さゆりさん十五歳、矢内理絵子さん十三歳、碓井《うすい》涼子さん十三歳の三人。碓井さんの師は桜井昇七段だが、合格と聞いてまっさきに師がたまげた。嬉《うれ》しさをかくし「せめて二級ぐらいになってくれれば」と言ったら、奨励会幹事の神谷広志六段が「奨励会で強くなり、女流三強に勝てるようになればよい、なんてそんな志では困ります。ちゃんと卒業して四段になってもらわなくては」と励ましたそうだが、私もまったく同感だ。  ただ、中井広恵女流名人・清水市代女流王将・林葉直子女流五段の三強は、このところ一段と強くなり、テレビ対局で、男子プロを破るまでになった。だから、このレベルに達するのも大変だが、奨励会の修業は特別の厳しさがあるから、上達も早かろう。  過去に、蛸島《たこじま》彰子さん、林葉さん、中井さんが奨励会に入ったが、残念ながら卒業できなかった。四段まで行けなかったのは、技術面より、男子に混って女性は一人きり、のハンデが大きかった。今回は三人の仲間だから大分違う。それに、これがきっかけになり、受けてみようの少女達が多くなれば、女子奨励会員も十人、十五人と増えよう。十五、六歳ぐらいは女子の方がませているから、環境さえととのえば、びっくりするほど強くなることも考えられる。女性正会員誕生も、これまた夢でなくなった。そもそも、女性は将棋に向いていないなど、とんでもない偏見なのである。  今回の棋譜は、いつも羽生の将棋ばかりでは芸がないので、個性派の対戦をご覧いただく。  第1図は、B級1組順位戦から、大内九段対福崎八段戦の大詰めの場面。形勢は先手の勝勢と思えるが、福崎八段はとんでもない勘違いをやった。  第1図からの指し手。  3三歩《ふ》 8七桂《けい》不成(第2図)まで大内九段の勝ち。  詰みなしと読み、3三歩と必至をかけたら、8七桂不成で詰んでしまった。  つまり、福崎八段は、第2図で、7八玉2八龍《りゆう》と飛車を取るものと思っていたら、飛車を取らずに、8六桂8七玉6六角成で詰み。それに気がついて、第2図で投げた。  第1図で、3二銀と打てば、変化はあっても福崎八段の勝ちだった。  こういったポカを羽生は絶対にやらない。しかし、ポカも出る個性派の対局の方が、私には人間味があっておもしろく見られる。   新人類たちのその後  竜王戦(名人戦と同格の棋戦)挑戦者決定戦で、佐藤康光七段が森内俊之六段を破り、羽生竜王への挑戦者となった。  思えば八年前、羽生が四段でデビューし、翌年、村山、森内、佐藤(康)が四段になった。そしてもの凄《すご》い勢いで勝ちまくった。新四段が強いのは昔からのことで、それは驚かないが、勝率の高さが異常だった。早熟と言うには、あまりに早く強くなっている。  私は将棋技術に革新的な発見があったのではないかと思い、「新人類の鬼譜」でその後の成長ぶりをお伝えした。  期待に応《こた》えて羽生は四年後に竜王となった。そこで一区切りとして「小説新潮」の連載も「死線の棋譜」と題名を変えたが、折にふれ羽生の様子も書いた。最近は一段と強くなり、おかげでここ数ケ月は羽生の話題ばかりである。  では、他の仲間達はどうなったか。  それが以前と情勢が変っていないのである。大人になってもあいかわらず勝ちまくっている。先輩をカモにし、後輩を寄せつけない。屋敷、郷田と、後から抜く勢いの少年も現れはしたが、今になってみると、追いつけないでいる。  どうやら、羽生四段が出現した年と、佐藤(康)達が四段になった翌年は、大変な当り年だったらしい。技術が飛躍的に進歩する前兆というわけではなかったのである。  羽生以外に、佐藤(康)、森内がいかに勝っているか、今期の四月から九月末日までの成績を見ればはっきりする。  佐藤(康)は、27勝6敗、勝率八割一分八厘《りん》。森内は23勝11敗、六割七分六厘と率は佐藤に劣るが、対局数は多い。対局数は活躍度を計る最大のポイントである。この両者が、対局数の一位と二位。三位は森下七段と屋敷六段の28局で、五位が羽生と谷川の27局となっている。  羽生の成績は22勝5敗。こちらも八割を超えている。参考までに書くと、全棋士中の勝率一位は三浦弘行四段で19勝4敗。二位佐藤(康)、三位羽生とつづき、ベテランはなかなか名が出てこない。  ようするに、勝っているのは若手棋士ばかりなのである。  ところで、棋士にはそれぞれ「格」というものがある。格には二通りあり、一つは順位戦のクラス。もう一つは仲間の評価である。相手に、弱い、と思われたら辛《つら》いことになる事情はしばしば書いた。  格上と見られている人達の成績はどうなっているのか、思いついて調べると、呆然《ぼうぜん》とする数字が出て来た。  名人米長は、8勝10敗。名人戦で中原に勝った四勝を引くと、大きく負け越している。九月になって三勝一敗と盛り返してこの数字だ。前名人中原は11勝10敗。まあ、どちらも秋からの後半戦が本番と思っているだろうから心配はない。  五十歳を越えて、なお自己最高位にいるのは偉い、と尊敬している、有吉九段と加藤(一)九段はどうか。今期A級順位戦は共に二勝一敗と勝ち越しており、流石《さすが》とみんな感心しているが、総合成績は、有吉5勝9敗、加藤5勝12敗である。順位戦以外は、ほとんど負けているのだ。  A級を維持していれば年収は減らないから、これでよいのだろうが、三割台の勝率で仲間内の評価が落ちないのは不思議というほかない。  ついでに、他のA級棋士の成績を言えば、高橋九段9勝11敗。南九段16勝10敗。谷川王将15勝12敗。小林(健)八段4勝11敗。田中(寅)八段5勝10敗。塚田八段11勝6敗となっている。これに中原、羽生が加わっているのだが、まずまずなのは、南と塚田くらいのもの。谷川については別の機会にくわしく書くが、この成績では、存在感がなくなってしまう。とにかく、全員パッとしないのである。とても一流の格の棋士の星とは思えない。  一方に、実力は上、の格を持つ若手がおり、一方に、実績という格を持つベテランがいる。いったいどちらが強いのだろうか。これぞ難題で私には判《わか》らない。  さて、竜王戦が始まるので、佐藤(康)について書く。  人間、という面では、新人類棋士、といわれた頃とあまり変っていない。十年近くたって人間が進歩してないのか、と誤解されては困るが、月に六局のペースで将棋を指しつづけて来たとすれば、遊ぶひまもなかろう。典型的な秀才タイプで、何事にも角を立てない人柄である。  何回かゴルフをしたが、いつも笑っていて、怒ったのを見たことがない。大ミスショットをしたときは、ただうなだれるだけだ。しかし、負けず嫌いなのはたしかで、あるとき、昼食もそっちのけで、パターの練習をしていた。どうしたと聞いたら「さっき4パットをやったんです」と悲しそうに答えた。口惜《く や》しいのは判るが、シングルならいざ知らず、百以上叩《たた》くゴルファーでそこまで頑張る人はいないだろう。  棋風は、攻守にバランスがよく、欠点がないのが秀才らしい。大山、米長は序盤に、升田は終盤にそれぞれ弱点があった。そこがスケールの大きさを感じさせたのだが、佐藤の場合は、まとまりすぎている、とは言えよう。  今回の棋譜は、竜王戦の挑戦者決定戦から。  森内対佐藤(康)戦ともなれば、谷川対羽生戦以上に、訳が判らない。両者がなにを考えて指しているのか、気持を想像することができないからである。しかし、レベルが高いことは事実で、第1図からの佐藤(康)の寄せは、ある意味で大山の全盛時を上回るかもしれない。  第1図からの指し手。 1七香《きよう》 同 龍《りゆう》 2三馬引 1五玉 1四金 1六玉 2五馬 同 玉 2四馬 2六玉 3五馬(第2図)まで佐藤(康)七段の勝ち。  全体的に森内の出来がわるく、佐藤の圧勝だったようだが、それでも最後はこれほど接近した局面になる。つまり僅《わず》かな差で争っているのである。  第1図から1七香で詰んでいる。これに1六歩《ふ》と合い駒《ごま》すれば、2四金同金1五銀同玉1六馬以下詰み。第2図は投了図だが、この後、1六玉と逃げても、2五銀2七玉3八金1八玉1七馬と龍を取って詰む。  難かしくないが、錯覚を起しやすい寄せで、持ち時間がほとんどない状態では、いっそうプレッシャーがかかる。なのに間違えそうだ、の感じがしないのは、若さの強みというものである。こういう技は、天才と言われる棋士でも、短い期間しか維持することは出来ない。そういった意味で、羽生対佐藤(康)戦は、八分咲きの桜を見るようなものである。   棋士気質《かたぎ》、今昔  田中寅彦八段が、将棋会館近くの原宿にマンションを借り、一家で引越したと聞いた。  田中は、今の棋士には数すくなくなったハングリー精神旺盛《おうせい》な棋士で、四段のころ、賃貸マンションから、高級マンションを買い、次に一戸建て、最後は田園調布に家を持つ、の目標を立てていた。四段から、五段、六段と勢いよく昇っていたころ、その夢を何度か聞かされたものである。  やがてA級になり、川崎市郊外に豪邸を買い、大型のベンツを乗り回す身分になった。それから十年近くたち、最終目標の田園調布あたりの物件を探しているのかと思っていたら、なんのことはない。振り出しに戻ったみたいな格好になった。不況のおり、財テクに失敗して、邸宅を売る羽目におちいったと誤解されそうだが、彼にかぎってそんなヘマはしない。その方面もしっかりしているのである。  田中いわく「仮りに、なにかで金を儲《もう》けたって、将棋に負けてはおもしろくありませんよ。また落ちる心配をするのはまっぴらです。なんといっても、将棋指しは将棋で勝たなければだめ。それに気がついて、将棋会館の近くに研究用の部屋を借りたんです。そうしたら、家族もいっしょについて来ちゃった。僕も統率力がないな」  森下七段の説によると、棋士は将棋会館から住いが遠ざかるごとに勝てなくなるそうである。逆もまた真なりで、近づくのは、勝つための有力な手段ということになる。田中も森下と同じ考えなのだろう。  たしかに成績のよい棋士は、将棋会館に顔を出して、お世辞の一つも言われれば気分がよいから、用もないのに出かける。行けば自然に対局を見られて勉強になる。将棋を考える時間も多くなる、という風によい方へよい方へと回り出す。  反対に勝てなくなると、仲間の顔を見るのも嫌になり、悪循環がはじまる。成績がわるいとき、将棋会館の扉は、本当に重いのである。住いを近くに移したのはよいが、それでも勝てないとき、将棋会館に顔を出す気力を持てるかどうか、これも一つの勝負手なのだ。  ところで、将棋界は、上は五十歳の米長と、四十代後半の中原が抑え、下は二十代前半の、羽生、佐藤(康)、森内などが存在を示して、二極化構造となっているが、中間の三十代がパッとしない。働き盛りが今の有様では、困ったことである。  将棋連盟の運営は棋士が行っている。会長、理事はプロ棋士であり、選ばれるのも、世間と同じく年功序列がある。現会長は二上九段だが、次は、米長か中原とだいたい決っている。羽生が名人になったら、会長交代の時機であろう。  問題はその次である。今の三十代の棋士の中から人材を育てておかなければならない。人望、見識の点から、東の、田中、青野、西の小林(健)が有力で、当人達もそれは意識しているだろう。さっき、田中が苦笑しながら言った、統率力がない、も理事になったらの思いが含まれている。  理事となり、運営にあたるとき、いちばん力となるのは、見識や人徳ではなく将棋の力である。すくなくともA級かB級1組にいないと力を振えない。  では、A級順位戦の星を見ると、田中(寅)、小林(健)は共に一勝三敗と大不振だ。現在のところ、一勝四敗の南九段、二勝二敗の、有吉、加藤(一)九段と降級を争っていて、以上五人の中から二人が落ちる。  そういうピンチに田中は立たされているわけで、先の理事になったときの事など考える余裕はないのだが、「一から出直しです」の言に期待したい。  運営面に話を戻すが、棋士の商売だから、へたなのは仕方がない。田中は、外部の経営のプロにまかせた方がよい、と言うが、棋士の性格からして、ふところを他人にまかせることは出来ないだろう。その点、囲碁棋士とはちょっと違う。  私は商売はへたでもいいと思う。それが、信用となっていたのである。終戦直後の話だが、ある新聞社の、将棋欄担当の記者が、リベートをくれるなら、契約金を倍にする、と持ちかけた。時の理事会は、我が連盟はそういう裏取引はしないことになっている、と、はねつけ、安い契約金に甘んじた。  今、こんな話があればどうするか。考えることなく断る、とはならない気がする。棋士気質が変ってしまったのだ。  引退棋士や理事が退職金を当然のごとく受け取っている。言い分はあるだろうし、くれるものをもらってなぜ悪い、の理もあろう。しかし、欲しいお金だが、後輩のため、連盟のため、お金を残しておこう、とやせ我慢をする棋士がいなくなったのが残念でならない。きれい事を言っているようだが、この十月に亡《な》くなった荒巻三之九段は、生前、九段昇段の話を、その器でないと辞退しつづけた。昇段するには十分すぎるほどの資格がありながら拒んだのは、A級までは行ったが、名人になれなかったの気持があったからだと思う。八段であることによって、自らのプライドを保ったのである。  今回の棋譜は、竜王戦第二局、羽生竜王対佐藤(康)七段戦から。  プロ野球の日本シリーズでも言われたが、七番勝負は、第二戦目がポイントである。勝負の天才大山は、四十年前にそれを見抜き、初戦はわざと負け(?)二戦目はしっかり勝つ、ということを実行していた。  今回の竜王戦は羽生が先勝しており、もし連勝すれば、大勢決す、となってしまう。それでなくとも、予想は、羽生勝ち、が圧倒的なのだ。  その佐藤にすれば負けられない戦いで、序盤不利になってしまった。そしてどうしたかといえば、自分の王様の頭から戦いを起したのである。見たこともない指し方で、開き直ったと言うより、ヤケのやんぱち、といった感じだったが、結果的には、それが成功した。羽生もカンが狂ったのか、らしくない疑問手を指し、形勢逆転。以後は佐藤がしっかり寄せ切った。  第1図は、その最後の場面。先手が3八香《きよう》と打ったところで、この香打ちが龍《りゆう》の利《き》きを殺す好手だった。  第1図からの指し手。 3七歩《ふ》 2二角 4二銀 6二銀 4三金引 5四桂《けい》(第2図)  玉を包囲しつつ寄せる典型的な例である。6二銀で逃げ道をふさぎ、5四桂で止《とど》めを刺した。第2図となっては、羽生といえども粘れない。  秀才佐藤が変身したかも知れず、これからがおもしろくなった。   森安九段の棋風を偲《しの》ぶ  多分、七年か八年前のことである。  深夜、将棋会館で順位戦の取材を終え、明治通りで車を拾おうとしていると、向う側から、ふらふらと男が通りを渡りはじめた。ひどく酔っているのが夜目にも判《わか》った。深夜とはいえ、車の往来は激しい。ひやひやしたが、どうにか渡り終えた男を見ると、森安秀光九段だった。その日の対局は負けたのである。  将棋も人生もすれすれの線を行く、は升田元名人だが、森安九段にも、そういう所があった。  それにしても棋士とは判らない。森安九段と私は、四段時代が同じで、以来三十年近く対局姿を見つづけているが、プライベートなことはほとんど知らない。碁も将棋も、棋士の付き合いはそんなものである。彼が子供の教育に熱心だなんて、想像できなかった。  しかし、森安九段ほどの将棋の天才なら、将棋を指しているときの姿が本来の姿、とも言えるだろう。家にいるときと盤に向っているときと、どちらが本物か。彼は、生きるために将棋を指しているのでなく、将棋を指すために生きていた人間と思いたい。  そうして森安九段を想《おも》い浮べると、あの悲劇について、世間はなにか勘違いしているような気がする。あれは、天才の家庭の悲劇だったのではないだろうか。  森安九段の将棋には、人の心に訴えかけるものがあった。プロ将棋の表現しているもの、いってみれば将棋的言語を読み取ることは難しいが、森安九段は常に自分の駒《こま》に語りかけながら指しているような感じがあった。それが独特の雰囲気をかもしだしていたのである。  森安将棋は、粘着力が特色と言われている。たしかに粘ったが、普通の粘り方と違っていた。長引かせて相手のミスを待つ、とか、未練がましく指しつづける、というのではなく、直面した盤上に、全力を注いだのである。恐らく、相手の気持を読む、といったことはあまりしなかったろう。その点が福崎八段と似ており、この二人の将棋は、谷川将棋とは違った意味での格調の高さがある。聞くところによると、升田、大山両巨匠は、若輩の森安青年を恐《こわ》がっていたそうだ。それは自分の将棋にはない、精神の気高さを感じ取っていたからであろう。  全盛期は、A級八段になった、昭和五十五年から、昭和六十年ごろまで。年にして三十歳から三十六歳の年代で、棋王戦の挑戦者に二度、名人戦の挑戦者にもなった。どちらも敗れたが、棋王戦の米長棋王との五番勝負は、戦後の名勝負ベストテンに入るほどのものである。挑戦して負けていたばかりではない。五十八年に、棋聖戦で中原棋聖に挑み、二連敗から三連勝の離れ業で棋聖になっている。この他に、新人王戦優勝三回、早指し選手権優勝などの戦績がある。  こうしてみると、タイトル獲得は一期だけ。A級にいたのも六年間と、指し盛りが短かかったが、それは異能派棋士の宿命というものだろう。棋士用語で言う「率のわるい」指し方だったし、鬼手、妙手は度々指せるものではない。それにひどく体力を消耗する将棋だったのである。さんざんねじり合い、ゆっくり倒す。したがって時間が長くかかる、ということの他に、対局前から戦っていた。  盛りをすぎたころから、対局中、二日酔いの様子が見えるようになった。大事な対局なら、もっと摂生すれば、と言うのは見当違いで、全力を出したいから、二日酔いになったのだ。  対局前夜は気持がたかぶって寝つけない。眠らんがために酒を飲む。それが適量だと、寝ついたはよいが、すぐ醒《さ》めてしまう。夜の十二時に眠り、一時に眼が醒めたら最悪だ。朝までつらい時間になる。で、朝の三時ごろまで無理して飲む。それくらい疲れれば、朝九時すぎまで眠っていられる。  そんなにまでして戦い、勝てばよいが負けたらたまらない。そしてまた深酒する。無理が長くつづくはずがない。やがて体を壊し、A級からB級2組まで落ちた。  そこから挽回《ばんかい》して、B級1組に戻ったところが、森安九段の才能である。酒を控え、体が楽になれば、A級の将棋なのだ。今期の順位戦も好調で、A級カムバックを期待させる星だった。将棋にも、全盛時と違った、枯れた味が出ていたのに……。惜しい棋士を失った、としか言いようがない。  今回の一局は、森安九段の名局。  第1図は、昭和五十七年、棋王戦で米長棋王に挑戦したときの第一局。前にいった戦後名勝負の一つがこれである。  第1図の盤上の右側を見ていただきたい。異様な形は、不思議な戦いの名残りをとどめている。  さて、現在の形勢は飛車取りである。常識的には7四飛だが、逃げているようでは、金損だから森安に勝ち味がない。  第1図からの指し手。 8六飛 8七歩《ふ》 9六飛 9七歩 9五歩 8六金(第2図)  森安は8六飛と寄った。私はたまたまこの場面に居たが、内心たまげた。8七歩で死んでしまうではないか。  その8七歩を打たれると、森安は背筋を伸ばし、上体を前に倒し、9六の歩を取って駒台に置き、9六飛と指した。私には、飛車が取ってくれ! と叫んでいるように思えた。森安は、死んでくれよ、と飛車に語りかけていたのだろう。  対して、米長の応戦も見事だった。取れというなら、それは取れぬ、とばかり9七歩である。  これを、9六同香《きよう》と取っては、9五歩で受けなし、と解しては無味乾燥、将棋的言語を読めていない、ということになろう。  なおも取ってくれ、と9五歩。どうしても取らぬ、と8六金。こんな将棋は二度と現れまい。二人の異能が存分に発揮された、奇跡的な局面である。  第2図は森安が勝勢。次は、9七飛成と突っ込めばよかった。ところが8六同角と誤り、以下ねじり合いになって、森安は敗れた。  棋聖を取ったときの対中原戦にも名局がある。故人を偲ぶとなれば、そちらを選ぶのが本筋かと思えるが、どういうわけか、森安が負けた将棋が浮んでしまう。今にして思えば、第1図からの指し方に森安の悲劇的な人生が象徴されている、と見るのはうがちすぎだろうか。  そういえば、あのときの立ち合い人は中原だった。第1図から第2図までの指し方を見ていて、驚いた様子を見せなかった。これまた見事な棋士根性であった。   飲み付き合いのプレッシャー  昨年のことになるが、佐藤康光七段が羽生を破って竜王になった。  これについては、すでにいろいろな所で書いたのでくり返さない。羽生と佐藤は、デビュー以来いろいろな機会に書きつづけて来たので、あらためてふれる必要もないと思われる。二人の関係はいままでとなにも変っていないのである。佐藤がなにか得る所があって強くなったわけではないし、羽生になにか事情があって弱くなったわけでもない。ゲームを何回かやれば、勝ったり負けたりするのと同じである。  世間では、佐藤の勝ったのを番狂わせと見ているようだが、実力からして、佐藤が勝って不思議でない。羽生、佐藤に、森内六段、村山七段を加えた四人は、どこまで行ってもいい勝負なのだ。  とはいえ、実績で羽生が一歩抜けており、ただ、ライバルがいないのが問題であることは以前から言ってきた。  棋士が大成するためには、ライバルが必要のようである。大山には升田がいたし、中原には米長がいた。二人が競い合うことによって棋力と地位を維持した。あるいは、二人が協同して迫ってくる後輩を叩《たた》いた、と言えるかもしれない。  ここまで名が出なかった谷川はライバルがいない。実績、実力からして今ごろは名人位を確保し、羽生達の頭を抑えていて当然だが、そうなっていない。それどころか、年上の中原、米長、年下の羽生、佐藤にはさまれ、なんとなく目立たなくなってしまっている。  昨年は羽生にさんざんやられ、それでも屈せず立て直し、現在棋聖戦で羽生と戦っている。今度は谷川が勝つだろうと見ていたが、竜王戦で負け、ショックを受けている羽生に、第一局はだまされてしまった。第二局も負け。名人挑戦の望みもうすく、いろいろ合わせると、谷川は難しい所に立たされている。こういうとき、ライバルが必要なのだ。  話がかわるが、家人が将棋雑誌の星取り表を見ていて「中原さんはよく勝つわね。こういう人が勝ってくれないと困るけど……」と呟《つぶや》いた。パーティーなどがあると、その後、何人かで銀座に出て、中原にご馳走《ちそう》してもらう、ということがよくあるからである。いつも中原が一人で勘定を払うので感心している。  故芹沢九段は、中原と米長の素質を見抜き、ずいぶん可愛《かわい》がった。そうして、「君達が偉くなったら、俺におごってもらった分は返さなくていい。その代り、後輩に返せ」と言ったそうである。  中原と米長はそれに従い、三十年近くも付き合いの金を出しつづけている。だから、今でも勝てる。将棋界はそういうところであり、A級B級になって、自分の飲み食いの金も出せぬようでは、たいした棋士でない。  たいがいの棋士は、その理屈が判《わか》ってないようだが、初代竜王の島は知っていて、おもしろいことを言っている。 「若手棋士たちが年配の棋士たちを倒すようになったのは、一緒に酒を飲む、というような付き合いがなくなったからじゃないでしょうか。  大山名人をはじめ、年配の棋士の人たちには生きてきた重み、厚みがありますから、それが分かるとどうしても気圧《けお》されてしまう。だから、若手は盤上以外の付き合いをしなくなった」  みんな賢い。賢いが、それには限界があるのを知っているのだろうか。  将棋をゲーム感覚で指せているうちはいい。つまり体力があるときは勝てる。しかし、体力(集中力、反射神経などなど)はすぐ衰えるし、そういった能力を持つ若者は毎年あらわれる。研究についても、それなりの才能がある者は、同じような努力をしているのである。体力に頼っていては、すぐ追い抜かれる、ということだ。あれほどの体力(才能)を持った谷川にさえ、その気配があらわれているではないか。  それに、人間的威圧を感じないから勝てるのなら、将来、後輩に威圧感をあたえることが出来ないばかりか、中身のない人間と馬鹿《ばか》にされるだろう。  中原や米長は、芹沢や山田道美から、気圧されるようなこともなかった。大山や升田も、木村義雄のプレッシャーを逆用して強くなったのである。羽生や佐藤も、谷川と同じく、難しい所に来ているように思われる。  今回の棋譜は、竜王戦の第六局、佐藤が勝って竜王位獲得を決めた一戦から。  第1図はその最後の場面だが、ここには、今を盛りの実力者が争った、という感じがなく、木村が大山に敗れ、名人位を失うと共に引退を決意した局面に似ている。  第1図からの指し手。 4四角 同 金 1一角 2三玉 1四金(第2図)まで、佐藤七段の勝ち。  ここでは両者共気持の整理が出来ていただろう。4四角以下、まぎれなく寄せ切った。  第2図で3二玉と逃げても、3三銀4三玉4四飛5三玉4二飛成と迫って詰む。  第六局は、あらゆる面で佐藤会心の一局だった。用意した作戦がうまくいって序盤で作戦勝ちとなり、中盤、終盤はノーミスで勝ち切った。  それにしても、羽生の負け方はあっけなかった。もうすこしなんとかもがきそうなものである。筋にはまった形で、粘りようがなかった、とも言えるが、そこをなんとかするのが、超一流の芸である。大山や中原は、何度かそれを見せてくれた。私がいちばんがっかりしたのは、羽生にその姿が見られなかったことである。  さて、新年を迎え平成六年を占っておきたいが、さしあたって佐藤の成績が注目される。早くもう一つタイトルを取ってもらいたい。そうすれば、森内、村山を抜いて、羽生のライバルと、みんなが認める。ここが重要で、自分が我こそライバルと思っていても意味がなく、周囲がどう見るかが問題なのである。この二人がよきライバルになれば、将棋界の前途は明るい。  女流棋士の実力向上も楽しみである。  昨年は、中井女流名人が池田修一六段を破った。公式戦初勝利は、歴史に残る出来事であった。よく、ここまで強くなったものである。清水女流王位や林葉五段、斎田二段も実力は中井さんに劣らないそうだから、今年からは、女性が男性に勝つのは珍しくなくなるだろう。奨励会の少女会員三人も、みんなよくやっているようだ。  勝負の方では、二月に行われる、A級順位戦の、中原対羽生戦が歴史を変える戦いになるかも知れない。中原にすればここが力の見せ所である。   お祝い殺到の意味  羽生棋聖がちょっとおかしい。  現在棋聖戦五番勝負を谷川王将と戦っているが、まず二連勝して簡単に防衛するかと見ていたら、第三局は二度も千日手をやり、指し直し局は、必勝形にしながら、最後に三回も逃げ方を誤って詰まされてしまった。本来詰まないのを詰まされたのだから、これこそ本当のトン死だ。  どんな有様かは、後に見ていただくとして、トン死で一回負けただけならまだいい。ポカは誰でもやることだ。問題は次の第四局である。  今度は、谷川の中飛車攻撃に、手もなく中央を突破され、わずか四十九手、あっけなく投げた。およそプロの将棋には例を見ない負け方で、どこか変になったのではないかと心配になった。  乱調になったきっかけは、多分、A級順位戦の対田中(寅)八段戦の負けであろう。いや、もっと前、佐藤(康)に竜王を奪われたあたりに遠因があるのかも知れないが、直接には、順位戦の連勝を止められたからに違いない。  羽生六連勝、田中(寅)一勝五敗という星での対戦は、挑戦権か、降級か、の大一番だった。  普通ならこういう勝負は、勢いのいい全勝している者が勝つ。それが当り前だ。ところが、この勝負、田中が勝った。それも快勝だった。  対局の翌日、田中家にお祝いの電話やファックスが、たくさん送られてきたそうである。「棋聖になったときも、こんなことはなかった。羽生君に勝っただけなのにどうしたんでしょうかね」と田中は首をヒネっていたが、そう言う田中だって、わざわざ私に電話をかけて来たのである。自分が勝ったのを仲間に電話する棋士はいない。嬉《うれ》しさをかくし切れなかったのだ。  ファンは、プロ棋士全員が羽生に負かされ、恐れ入っている有様を、おもしろくなく思っていたのだろう。特に、活躍してしかるべき三十代の棋士の不甲斐《ふがい》なさにやきもきしていた。だから喝采《かつさい》を送ったのである。  羽生は負けて、そんなファン心理を知り、わるく取ってしまったのではないか。自分はファンに好かれていないのでは……などと。これは私の当てずっぽうにすぎないが、そうだとすれば、ショックは大きかったと思われる。  星勘定の方を見ると、羽生は六勝一敗で中原と同星になった。と同時に、五勝二敗の谷川が浮上した。第八回戦で、中原と羽生が対戦するから、そこで羽生が勝ち、最終第九回戦で、谷川が羽生を叩《たた》けば、自力で挑戦者になれる目がある。  もし羽生が田中に勝ち、次の中原戦にも勝ったとすれば、八連勝で挑戦者になるところだった。つまり、最終戦の目玉ともいうべき、谷川対羽生戦が、消化試合になってしまう。  実は、羽生がめちゃくちゃ勝ちまくっていた昨年秋頃は、谷川にとって最悪の結果になりそうな気がしていた。スター棋士は、よきにつけあしきにつけ、目をひく立場にいなければならない。みんなが見ているA級順位戦の最終戦で、なんの引っかかりもない勝負を戦うのは、その棋士が落ち目であることを証明するようなものだ。  現実はそうならなかった所に、谷川の棋士人生運の強さを感じる。彼は田中が勝ったのを、当人と同じくらい喜んだだろう。  それにしても、谷川は判《わか》らない棋士である。最近の成績を挙げると、棋聖戦と順位戦は、さっき言った通り。他に王将戦七番勝負を中原と戦っているが、こちらは、二連勝の後、第三局は負け。浮んだかと思えば沈み、かと思えばまた浮ぶ。ここ数年そのくり返しである。成績は妙に安定しているが、力強さが感じられない。過去の蓄積の利息で食っているようなものだ。その原資(強いと思われていること)も年々減りつつある。なのに谷川は平気な顔でいる。まったく歯がゆい。まずなすべきは、自分を大きく見せること。それと、将棋界を背負って立つ、の気構えを見せてもらいたい。中原、米長がいつまでも健在というわけではないのだから。  話を羽生に戻して、あまりに変なので青野八段に会った折、なにかあったのか聞いてみた。すると、彼はうなだれて、「私が助け起しました」と呟《つぶや》いた。羽生が谷川に四十九手で負けたのが、一月三十一日。その三日後に、青野対羽生戦(竜王戦)があり、青野は負けたというわけ。羽生にはカンフル剤になっただろう。  二月九日には、将棋史の転換点になるかもしれぬ、中原対羽生のA級順位戦がある。ここで羽生が負けたら、当分名人になれないだろう。また、中原、米長時代に逆戻りだ。どちらに転ぶか、見当がつかない。羽生将棋の魅力が、ちょっとバランスを崩せば、たちまち転倒しかねない、不安定というか、もろさを内蔵しつつ、勝ちつづける点にあることに、思い至るのである。  そんなところを今回の棋譜で見ていただきたい。  第1図は、棋聖戦第三局、羽生棋聖対谷川王将戦の大詰の場面。谷川が最後のお願い、6七桂《けい》を打ったところ。  これは形作りの手で、応手は難しくない。つまり、8八玉と逃げればよく、次は7九銀しかないから、それには9八玉と逃げ、8八飛9七玉で全然詰まない。多分、8八玉なら谷川は投げただろう。それを、なにを勘違いしたか、羽生は6七同金と取った。  第1図からの指し手。 6七同金 6五桂 7一馬 7八歩《ふ》 6八玉 7九銀 5九玉 6八銀打 同 金 4九飛(第2図)まで、谷川王将の勝ち。  つまらぬ桂を欲張ったために、6五桂(飛車の開き王手)が利《き》き、いっぺんに危なくなった。しかし、以後正確に応じれば詰まない。6八玉は6九玉の方がより安全。三度目のミスは5九玉で、5八玉なら逃れていた。  五対二のリードで九回裏二死無走者、あと一人というところで、凡ゴロ、凡フライを三つ落して二死満塁。そこで逆転サヨナラホーマーを食らったのが第2図である。  4九飛が妙手で、以下は、同玉3九馬5八玉6八銀成同玉5七馬7八玉7七歩8八玉7九馬同玉7八金まで。  羽生にもこういう負け方がある。かえってファンを増やしたかもしれない。   浮かんだり、沈んだり  A級順位戦が終った。  最終戦の結果は、羽生棋聖対谷川王将は谷川、中原前名人対有吉九段は有吉、加藤(一)九段対小林(健)八段戦は加藤、南九段対塚田八段は南、田中(寅)八段対高橋九段は高橋、がそれぞれ勝った。  これで、谷川と羽生が七勝二敗で並び挑戦者決定戦を行うことになった。  一方、降級は小林と田中。これは意外だった。私は、有吉と加藤が危ないと見ていた。その根拠はいくつもある。  第一に、この二人は、高齢である。加藤は五十三歳、有吉は五十八歳になる。個人差はあるが、五十を越えると成績がガクッと落ちる。手を読む能力は落ちないものの、根気がなくなる。あらゆる変化の最後の最後までを読み切るのが面倒になり、まあいいだろう、とか、だいたい詰むだろうなど、枝葉の部分がいい加減になってしまう。  不思議なもので、一般棋戦だと、そうした読みの手抜がケガにならない。プロともなれば、大体の見当が狂わないからである。  ところが、首のかかった一番となれば違ってくる。まさかの逃げ方や受け方が生じたりする。若手棋士達は、すこしでも読みに雑なところがあれば、すぐ感じ取り、そこを狙《ねら》う。優勢のときはまだいい。せっかくの勝勢だからと、これを励ますこともできる。それが非勢になると、粘る気力が薄れてしまう。もう年だ、仕方がない、と自分を慰めたりする。これが第二の理由。そうして、年寄りは常に運のわるい負け方をする。  有吉も加藤も、そういった傾向があらわれるようになった。順位戦でいえば、最終戦の一つ前に、有吉は南と、加藤は田中と対戦した。そこで勝っていれば残留が決定したのだが、二人共よい将棋を勝ち切れなかった。というより、最後に大ポカをやって負けたのである。  理由の第三は、その流れを引きずっての最終戦であること。有吉と加藤が不利と見るのは当然であった。  ところが、有吉は強敵中原を破った。それも一方的に攻めまくっての快勝だった。棋士人生の最後の頃になって、生涯の傑作を指すあたり、師の大山とそっくりである。まったく偉いものだ。  加藤も、欠点と言われている、仕掛けのあたりで、小林のミスに助けられ、以後優勢から勝勢と、がっちり勝った。最後は例によって秒読みに追われたが、盤側で見ていて加藤が間違える感じがしなかった。これまた感心させられたものである。  加藤はNHK杯戦で優勝した。準々決勝で羽生、決勝で佐藤竜王を負かしたのだから驚いた。神武以来の天才が勝ったのを驚くとは失礼だが、年寄りにとっていちばん不利な棋戦は早指戦である。これは集中力と反射神経の勝負で、いちばん衰えている部分での戦いだからだ。  その棋戦で加藤は勝ち抜いた。テレビでその有様をご覧になった方は感動されただろう。秒読みにせかされ、切羽詰まったときのあの所作は、脳がパニック状態になっているとしか思えない。何も考えられないはずだが、そういう無我夢中のなかで指される一手一手が、すべて正解なのである。神様から授かった才能というしかない。  そうした、天才が天才らしさを発揮する瞬間を見ることが出来るのは、テレビの功績である。ところが、決勝戦が終った後の打ち上げで、二上会長があいさつに立ち「加藤さんも、もうすこし行儀をよくしてもらいたい」という意味のことを言ったと聞く。将棋界には、一方でこういう見方もあることを誌《しる》しておこう。  さっき言った星勘定の流れからして、残れるはずだった、小林と田中がなぜ貧乏くじを引いたか。それは人が好《い》いからである。有吉、加藤、南とくらべれば、勝負に対するからさが違う。この世界、人がわるいほど強い。なら、人がわるいのも将棋の才能のうちか、と言われると答えに困る。  で、話を挑戦者争いの方に変える。  こちらは、羽生が勝ち、すんなり決り。もし負けた場合は、中原を加えて三人で再決戦になると予想していた。  どうも、羽生、谷川の話になると、私は見当違いばかりしているようだ。二人のことを書くとすれば、前回と同じにならざるを得ない。沈んだかと思えば浮かび上り、かと思えば、また沈む。そのくり返しがつづいている。  棋聖戦五番勝負もそのパターンで、最初羽生が二連勝。すると今度は谷川が二連勝(この間の羽生の乱れはなんだったんだろう)、そして最後は羽生が勝ち、谷川は棋聖位を奪回できなかった。  おもしろいもので、谷川が指した一局に、そんな経過を読み取れる。今回の棋譜は、もちろん順位戦の羽生対谷川戦。  第1図からの指し手。 6七玉 7五飛 同 金 4八飛成 4二銀不成 4四玉(第2図)  第1図の次の一手、6七玉が好手。4八飛成と王手で金を取られるのを防ぎ、次に4二角成以下の詰みを狙っている。第1図で、すぐ4二角成とは、7四の飛車が利《き》いているから指せない。6七玉は、その利きをさけたのである。  これで谷川の勝ちが決った。いかにも谷川らしい華麗な決め方ではないか。ところが、ここから沈む。  第2図からの指し手。 3六桂《けい》 3五玉 2四桂 4七龍《りゆう》 5七角 同 龍 同 玉 4六角 6七玉 6六歩《ふ》 7七玉 6八銀 同 金 同角成 6六玉 3九角 6五玉 4六玉 4九銀(第3図)  第2図で4五銀と打てば、同玉5五飛4四玉3六桂までのやさしい詰み。どうしたことか、谷川はこれをうっかりした。詰みを逃しては混戦だが、そうなると、また力を出し、最後は勝った。第3図までの手順は、参考までに示したもの。以下は4七銀4八歩6三金4七歩5七玉7七飛までで、羽生が投了した。  私が、谷川を判《わか》らない判らないと首をヒネるのも理解していただけるだろう。   「上座」への気迫に期待  羽生善治棋聖が名人挑戦者になった。  A級順位戦の最後のところの経過は、八回戦で羽生は中原を破り、七勝一敗と一歩リード。次の最終戦で谷川に勝てば決定だったが、羽生は敗れ、谷川と同星の七勝二敗となり、あらためて、挑戦者決定戦が行われた。そこで羽生が勝ち、名人挑戦者と決定した。  手間をかけず、最終戦で勝っていればすんなり決ったのに、と思うが、ちょっと乱れるのが最近の羽生の特徴である。棋聖戦も同じで、二連勝したら、そのまま終らせそうなものなのに、後二連敗。そうして最終戦に勝って防衛した。  ともあれ、中原、谷川と歴代名人を降《くだ》して挑戦者になったのを見ると、筋書き通りに進んでいるように思える。新名人誕生は、名人になるべき者がなる、の儀式のような感じもある。筋書きを進めれば、米長名人との対戦も羽生が快勝し、全員に祝福されて名人位に就く、ことになる。いや、そうなるはずだった。谷川とのA級順位戦最終戦を戦うまでは。  筋書きが狂いはじめた発端は、A級順位戦の羽生対中原戦にあった。  対局日の朝、先に対局室に入った羽生は床の間を背に座った。遅れて入った中原は、それを見て、一瞬けげんな顔をしたが、ニヤリとしただけでなにも言わず下座に座り、そのまま対局が始まった。  これに気がついたプロ仲間や関係者はブツブツ言いはじめた。いくらなんでも羽生が上座はおかしい、というのである。  日常の対局では、上座下座はさして問題にならない。タイトル保持者や、クラスが上位の者が上座に座ることになっているが、たいていは、若手が下座に座り、先輩や年長者の顔を立てる。それが習慣である。習慣は他にもいろいろあるが、それに従うのが、優等生とされている。  だから、中原と対戦するとなれば、羽生がタイトルを持っている棋戦以外は、上座を譲るのが自然である。まして、順位戦は順位優先の規定があり、相手は前名人の肩書きを持っている。  それでもこの日は、羽生がうっかり座ったんだろう、で終った。  ところが、次の対谷川戦でも羽生が平然と上座を占めた。これにはみんな驚いた。中原のときはうっかりした、というわけではなかったのだ。  将棋界は、異端、異論をやったり言ったりすると、仲間に嫌われる。そして嫌われたら勝てないのである。多分、そういう風潮を確定させたのは大山だったと思うが、だから若手はみんな優等生になるし、ならざるを得ない。  羽生がそれを知らないはずがなく、仲間や中原や谷川が変な顔をしたのも気がついたはず。谷川戦のとき下座に着けば、何事もなかったのだ。  なぜ角を立てるようなことをするのか。私には理解できなかった。米長、青野、先崎など、いちばん鋭い人達に聞いてみたが、上座に座るのが好きなんだよ。知っていて、そんなことたいしたことじゃない、と思ってるんだよ。気が付かなかったんだろう。などなど、この人達もよく判《わか》らないようだった。  米長は週刊誌にこの事を書いた。羽生を批判したわけではないが、この程度の事を話題にするのが珍らしい。  挑戦者決定戦も、当然のごとく羽生が上座に着いた。谷川はなにも言わずに従った。勝負は始まる前のここでついたのである。  もし、谷川が「そっちがおれの席だ」と言う気迫があれば、挑戦者になれたかも知れない。文句を言えなかったところに、優等生の限界が見えた、ともいえよう。羽生が上座を譲らず、しかも勝った事で、時代が動いたのである。もう、優等生でいるのが賢い生き方、という時代ではなくなった。そう思えば、羽生の行為は大きな意味を持つことになる。プロの勝負は、盤上の駒《こま》の争いだけではないのだ。  他にも気になる事件があった。  王将戦は谷川王将対中原前名人で戦われたが、四勝二敗で谷川が防衛した。  その最終局、大雪のため中原が乗っていた飛行機が三沢に降りられず、対局日が一日延ばされ、二日制の対局が、一日指し切りとなった。臨機の処置という事で済ましたが、これも羽生が挑戦者になったのと関係があろう。  中原の若い頃、大山を倒して第一人者たらんとしていたときなら、羽田から車を飛ばしてでも対局場に駆けつけただろう。大山だったら、不戦勝を主張するかも知れないからだ。今の谷川ならそんな無理は言うまい。中原の胸中、無意識のうちにその甘えがあったのではないか。そういった気構えが、全盛時とは違っている。  あの順位戦のときも、笑って妥協してしまった所に、挑戦者争いに残れなかった原因があると思える。つまり、中原も谷川も気合い負けしたのである。  そこへ立ちはだかる米長はどうか。将棋村の空気を感じ取り、それを追い風にして、さまざまな盤外の手を使うだろう。その方面のノウハウは、しっかり手の内に入っている。それに、米長の方も負けられない勝負将棋なのである。  羽生に負ければ、昔、奇跡的に名人になり、一期だけで谷川に取って代わられた、加藤(一)と同じになってしまう。逆にここで羽生を叩《たた》けば、いちおうは芽を潰《つぶ》したわけで、永世名人への展望も開ける。  それやこれやで、こんなおもしろい名人戦はない。  今回の棋譜は、羽生対谷川の挑戦者決定戦の最後の場面から。  第1図は谷川が6五桂《けい》と飛んだところだが、これは形作りの一手。自玉が詰まされるのは判っている。  第1図からの指し手。 5八銀 7八玉 7九桂成(第2図)  5八銀からはやさしい詰み。なにしろ、金銀が六枚もある。ベタベタ並べて行けば自然に詰む。その途中、第2図の所で谷川が手を止めた。  視線をひざに落して動かない。将棋は大差、どんなもんだい、と手を舞わされて、腸《はらわた》が煮えくり返っていただろう。この一年ことごとく負かされた屈辱感もある。  そういう雰囲気は相手にすぐ伝わる。で、投げるのを待っている側は神妙にするものだ。それを羽生は、なぜ早く投げぬ、とばかり、記録机に顔を向け、谷川の残り時間が減っているのを、確かめるようにしていた。顔色が明るくなり、それが羽生らしくなかった。見ていて怪物が誕生しつつあるように思えた。  第2図からは、7九同玉4六角8九玉7八金同玉6八角成まで、谷川は投げた。   名人戦=王者を認めるセレモニー  米長邦雄名人対羽生善治棋聖で戦われている名人戦七番勝負は、予想通り、羽生有利の展開となっている。二戦して二勝を見て、早くも新名人誕生かの声さえ上っている。  戦いの有様を簡単に言えば、第一局は羽生が中央5五の位を取り(米長が取らせたとも言える)、全局的に米長陣を押し潰《つぶ》す形で勝った。その間米長は、手も足も出なかった。  それにこりたわけでないだろうが、第二局は、米長が、6五、4五と二つの位を取って伸び伸びと指した。中盤から終盤にかけて、米長が有利と思われたが、最後に羽生が鬼手を指して勝った。  位を取らせて負け。位を取ってもダメ。競《せ》り合っても力が及ばない。どうも米長によい材料がないみたいだが、私は今でも米長が防衛するのではないかと思っている。  七番勝負を一局の将棋にたとえれば、出だし二連敗は、序盤をやり損なったくらいのもので、たいしたことはない。そういった不利は米長もなれっこになっている。  そして、米長、中原くらいになると、なかなかあきらめないのである。その勝負に対する執着心を軽く見てはいけない。粘りが、羽生の欲と合わされば、意外な乱れを生じることもあるだろう。  名人戦の歴史を見ると、名人が防衛するにせよ、新名人が誕生するにせよ、七番勝負は新しい王者を認めるセレモニー、といった感じがする。勝負将棋と言えるのは、戦後の名人戦中、五回くらいのものである。  勝負の厳しさなら、名人挑戦者決定戦の方に多い。  古くは、升田対大山の「高野山の決戦」があり、昭和六十一年、当時四冠王「世界一強い男」を自称した米長が涙を飲んだ、大山対米長の「雪の日の決戦」も忘れ難い。対局当日は電車が止まるほどの大雪の日で、観戦に来た棋士もほとんどいなかった。そのひっそりとしたなかで、大山は冷たく米長を斬《き》ったのである。  もう一つ忘れられない名勝負は、昭和五十八年の中原対谷川戦である。  若き天才谷川浩司が、A級一年目にして、中原と同率決戦のチャンスを迎えた。このときは、将棋会館が観戦者でふくれ上った。大山対米長戦が陰なら、こちらは陽であった。  私はこの日も取材で早くから見ていたが、午後三時すぎから、ファンが続々つめかけるのを見て、谷川人気の凄《すご》さに気がついたのである。  期待にたがわぬ熱戦になり、どちらが優勢ともわからぬ終盤で、谷川が妙手を指し、一気に寄せ切った。その飛車取りに銀を打った手は、平凡に見えてそうでなく、中原も含めて、誰も気づかぬ手であった。  妙手を指した数手後、谷川勝勢がはっきりすると、ファンの興奮は頂点に達し、いつ中原が投げるかを待ちはじめた。  そうした空気を中原は感じ取っていたはずである。特別対局室と控え室は離れており、人も出入りしないし、声が聞えるわけでもないが、どうしてか雰囲気が伝わってしまう。粘る気力も失《う》せるというものだが、にもかかわらず、中原は徹底的に粘った。衆人環視の中で、クソ粘りをやって見せたのである。みんなが谷川に気を取られている、その最中に、中原は最も恐ろしい姿を見せていたのだ。  抵抗も空《むな》しく中原は敗れた。谷川は勢いをかって加藤一二三に挑み、三連勝の後一つ負け、第五局に勝って、二十一歳史上最年少名人になった。  この加藤対谷川の名人戦七番勝負こそ、さっき言った、セレモニーの典型的なものであった。戦う前から加藤に勝ち味はまったくなかった。なぜかと言えば、ファンの百人中九十九人までが、谷川の方が強いと断じ、新名人誕生を支持したからである。  今にして思えば、谷川新名人の誕生は時の勢いであった。中原が止められなかった所でかたがついたのだが、この再現が、このあいだまでのA級順位戦と、今戦われている名人戦のようにも思える。  谷川を羽生に、中原を谷川に、加藤名人を米長名人に置き換えてみると、なにからなにまでそっくりなのに気づかれるであろう。  となれば、羽生新名人誕生となってしまうのだが、そう筋書き通りにはなるまい。あの中原と同じ粘りを、米長が見せてくれるだろう。  ともあれ、名人位の重みというものはある。本当の勝負は第三局であり、そこでどういう将棋を指したかで、米長の真の力が判《わか》る。  その予備知識として、今回の棋譜は、名人戦第二局を見ていただく。  第1図は、米長が6四馬と引いて、攻防に利《き》かせた場面。ここで両対局者が形勢をどう見ていたか。ぜひ本音を聞きたいところだが、それはあかしてくれないだろう。  で、推測になるが、米長は第1図で自分の勝ちと思っていたのではないか。自玉に一手すきがかからなければ、5二香《きよう》成と飛車取りに成り、飛車がどこかに逃げれば、4二成香と攻めて、確実に勝てる。  ポイントは、第1図で先手玉に一手すきがかかるか否《いな》かだが、一手すきはなさそうに見える。たとえば、7八角成同銀6七金のような攻めなら、3一角と打って後手玉が先に詰む。また、6八金と打つのも、同金同飛成7八金とはじいて先手勝ち。角を渡せぬのでは攻めようがない。  第1図からの指し手。 8六桂《けい》 同 歩《ふ》 6八金 9七玉 6七金 (第2図)  羽生は8六桂と打った。まるで夢を見ているような妙手である。この捨て桂でたちまち寄ってしまった。  プロの本当の勝負は、8六桂と打たれた瞬間に決る。これを知っていたか、いないかである。知らなかったら、読み負けていたわけで、相手に馬鹿《ばか》にされてしまう。対局者同士は、どちらなのか、ちゃんと判っているのである。  8六同歩と取らせ、8七に空間を作ってから6八金と打てば、今度は受からない。6八同金同飛成7八金は、8七金同玉6七龍《りゆう》の筋で、先手玉は詰む。  米長は投げる心の準備をして、9七玉と早逃げした。そこで、6七金が当然ながら好手。第2図は、先手玉に一手すきがかかっている。  第2図で米長は1三桂と打ち、8八銀を見て投げた。投了以下は、9八玉9九銀成同玉9八香同玉7八飛成で詰み。  こうして、8六桂という妙手が生じたのを見ると、新名人誕生の兆《きざ》しと思えなくもない。   真の新時代の幕開け  米長邦雄名人を破って、羽生善治新名人が誕生した。  大方はこれをもって、将棋界の新時代の幕開け、世代交代がはっきりした、と見ているようで、それは間違っていない。  しかし、二十三歳の羽生が五十歳の米長を負かした事実は、しばしば書いてきたように、歴史の流れなのである。十一年前の昭和五十八年、二十一歳の谷川浩司が、加藤一二三名人を破り、史上最年少の名人になった。  加藤を米長に、谷川を羽生に置きかえてみれば、なにからなにまでそっくり、歴史が逆もどりしたみたいである。谷川が三連勝してから二連敗し、第六局で決めた所まで、今回と同じである。ただ、ちょっと違ったのは、十一年前が、谷川名人誕生の期待一色だったのに対し、今度の第六局などは、米長にもう一期名人でいてもらいたい、のファンの声援が多かった点である。それは、米長が負ければ、升田・大山時代が完全に終る、の惜別の思いもあるからだろう。  升田・大山両巨人はすでにない。それにつづく、中原・米長時代は、前の時代と混じり合っており、本質的に変っていなかった。谷川名人の時代もまだ変らなかった。名を上げた天才達は、皆「俺は将棋を指すために生まれて来たのだ」の思いを持っている。人生が将棋と深く関り合っているのである。  そんなのは当り前だ、とおっしゃる方が多いだろう。ところが、一局の勝敗が人生に関りを持たぬ、というプロ棋士があらわれたらどうなるか。将棋界が、根本の所で変った、と言うべきだろう。  羽生新名人誕生は、その兆《きざ》しなのである。その意味で、真の新時代の幕開けなのだ。  今期の名人戦の第五局、伊香保《いかほ》での戦いを観《み》に行った。そこで気がついたのは、羽生に、この一番に勝てば名人だ、のいわゆるプレッシャーと言われる緊張感がないことだった。勝ったら、負けたら、のもろもろは一切関係なし、ただ駒《こま》の動かし方だけを考えているようだった。だから、名人になれなかった日の翌日のパーティーに出ても、明るく、さっぱりしていたのである。  私の見方は極端にすぎるかも知れない。羽生にも名人になった感激はあるだろう。しかし、その度合い、質は歴代名人と違っているはずである。そこの所がまだ判《わか》らない。  名人戦で羽生が三連勝した直後、竜王戦で、谷川と対戦した。名人戦の期間中は名人戦だけというわけでない。  竜王戦も大事な棋戦なのは言うまでもない。そこで羽生は信じられない手を指した。  先手の谷川が7六歩《ふ》と角道を開けたのに対し、後手の羽生は6二銀と応じたのである。こんな手を指したプロはいない。なぜなら、絶対に後手が得をしないからである。すくなくとも、相手に飛車先の歩を交換させ、自分はそれが出来ない、の損は覚悟しなければならない。まるで、谷川にハンデを与えて指しているようなものだ。なぜそんなことをするのだろう。  昔、阪田三吉は勝負将棋で、9四歩と端歩を突いた。それと同じくらい6二銀はスキャンダラスな指し方なのである。9四歩の真意について、誰も語っていない。そういうことにふれるのは、将棋界ではタブーらしい。6二銀について、何人もの棋士に訊《き》いたが、誰も感想を言わなかった。  ハンデをもらいながら、谷川はやられた。その翌日、ひどい二日酔いになったと聞いたが、こちらの気持はよく判る。  そういう事があった一週間後に、名人戦第四局が行われた。そこでも羽生はおかしな指し方をし、一日目を終ったとき、すでに羽生は勝てない将棋になっていた。二日目もいいところなく、完敗を喫した。羽生はどうかしたんじゃないか、みんなひそかに心配したものである。  第五局はまともな矢倉の戦いになり、これは米長がうまく指した。生涯の傑作の一つになるだろう。そして、第六局はこれもまともな戦いで、羽生が完勝した。  こうした紆余曲折《うよきよくせつ》があって羽生名人が誕生したわけだが、みなれた戦型になると、まともな戦い、と注をつける必要があるとは、妙な時代になったものだ。まさしく、新時代の幕開けである。  敗れた米長前名人には心から拍手を送りたい(これは、決して月並みな慰めではない)。前回で中原の負けたときの頑張りを書いたが、第三局で米長は同じような頑張りを見せてくれた。  負ければ三連敗という瀬戸際《せとぎわ》の一戦ながら、米長の出来がわるく、中盤ではどうしようもない形勢になっていた。普通なら、盤の前に座っているだけでも苦痛なくらいで、さっさと投げて楽になりたいところ。その将棋を、米長は残り十八分になるまで考え抜いたのである。指せば指すほどみじめになるのに、じっと耐えたのは大した精神力であり、見事な見せ場を作ったのだった。  さて、時代が変る出来事も、起ってしまえば、そこで関心はうすれる。次の興味はと言えば、さしあたって、羽生と谷川の対戦である。それが、すぐ棋聖戦の五番勝負で見られる。二年越しに負かされつづけ、さっき紹介した、屈辱を味わわされた谷川が、どんな戦いをするのか、将棋界の楽しみは尽きない。  今回の一局は、新名人誕生の場面。  第1図は、米長が5三馬と指したところだが、珍らしい王手飛車がかかっている。えらい手を食らったみたいだが、もちろん羽生は承知の上。勝ちを読み切っていた。  第1図からの指し手。 4二歩 4四馬 7七角(第2図)まで、羽生棋聖の勝ち。  米長は、飛車を取らずに、4四馬と桂《けい》の方を取った。7一馬は、5六桂打同歩同桂6七玉5八角で詰んでしまう。  しかし、実戦も7七角で詰んでいる。第2図以下、7七同銀は、5八金6七玉5七金6六玉5六成銀まで。7七同金は、同歩成同銀5八金7八玉8八金6七玉5七金6六玉5六成銀まで。  手順中、俗手ながら5八金から5七金を寄せの切り札にするあたりが、谷川とは違う羽生の味である。  十年後、羽生を倒す少年が、何処《ど こ》かでこの棋譜を並べていることだろう。   あとがき——ふたたび、ある日の棋士控え室  猛暑がつづいた八月のある日の夕方、将棋会館四階の棋士室に佐藤名人があらわれ、たまたま居合わせた中座四段を盤に誘って、この日戦われている将棋を並べはじめた。  羽生《はぶ》四冠対森下八段戦(A級順位戦)その他の対局があり、経過を見ながら勉強しようというわけである。  私は取材で来ていたのだが、夏バテで将棋など考える気がせず、ぼんやり二人のやり取りを眺めていた。  そこに先崎七段、行方《なめかた》六段があらわれ、名人が居るのを見て、継ぎ盤を取り囲むように座った。やがて活発な議論がはじまったのを聞いていて、私は前にこんな場面があったな、と思った。  それがはしがきの場面である。  あれから四年が経《た》った。佐藤は名人になり、このときは谷川を再度退けて名人位を防衛した直後で気をよくしていた。先崎はB級1組七段になっている。今期も好成績で、A級への昇級は固いと言われている。行方も一つクラスを上げ、C級1組だ。昨年の暮から今年の夏にかけ、凄《すご》い勢いで勝ちまくっていたが、この間、佐藤名人と対戦し、天狗《てんぐ》の鼻をへし折られた。  あのとき居た、郷田は八段になり、タイトルを取ったりして、今や立派な一流棋士の格になった。北浜は、二つクラスを上げて、六段B級2組になった。行方より上だから大躍進である。  それぞれ出世したわけだが、村山は、昨年惜しまれつつ亡《な》くなった。あのときすでに、その運命を予感させるものがあった。それはみんなわかっていたのである。七冠だった羽生は、三冠を失い、今は四冠王である。名人、竜王のタイトルはないものの、実力は一番と認められている。  継ぎ盤を囲んでの光景は、はしがきで描いたのと何も変っていない。北浜の代りの中座は、必死になってみんなについて行っている。  今、流行の戦法と言えば「横歩取り」だが、後手不利とされ、すたれかかった戦法に活を入れたのが「中座飛車」と呼ばれる指し方である。その名の通り、中座四段の創案で、それだけの棋才があるから、佐藤名人が声をかけ、誘ったのである。  ここに居るメンバーの頭の回転の早さは特別で、はしがきのときも言ったが、私なんかでは解読不可能な会話が交されている。中座も、はからずも超エリートのグループに入ったのだから、辛《つら》くとも我慢するしかない。席を外したり、帰ったりしてもかまわないのだが、こういうチャンスを逃すようでは将来はない。  このグループに近付かず、離れて継ぎ盤を囲んでいるグループもある。こちらはごく気楽で、笑い声が聞えたりする。会話もよくわかるし、私でも口をはさめば、言った手を盤上に指してくれる。エリートグループの方で、私ごときが何か言っても、聞かないふりをされてしまう。  才能ある者とない者、とまでは言わないが、仲間内における格の違いは、将棋会館内の何処《ど こ》にでもあらわれるのだ。  別の日、棋士室に羽生四冠が姿を見せ、継ぎ盤の前に座った。その日戦われていたのは佐藤名人対丸山八段戦で、それを見に来たのである。  このときは、先崎も行方も居らず、辛辣《しんらつ》な口をきく棋士もいなかったので、羽生も一人で経過を教わって盤に並べ、静かに考えていた。そこへ対局を終えた藤井が入って来た。そして羽生の前に坐《すわ》ると、遠慮なく自説を言った。たちまち周囲に人だかりができたが、おとなしい羽生は、藤井説にうなずくことが多かった。  また別の日、丸山八段が対局を終えて、棋士室に寄った。今期絶好調で、このとき十七連勝中だった。誰かに注文されてか、盤の前に坐り、今指し終えた将棋の自戦解説をはじめた。たちまち大勢の棋士が取り囲んだ。  丸山は寡黙なタイプである。無駄口はほとんどきかない。感想を言うにしても、ポツリポツリとか細い声を発するだけだ。それを聞き逃すまいと、みんな首を丸山の方へ傾《かし》げていた。  藤井も丸山も、その名は本書にあらわれない。僅《わず》かに、丸山は郷田と同期の四段で、よく勝っている、と書いたにすぎない。  私に二人の素質を見抜く眼がなかった、と言うわけだが、スター候補と見られていなかったのもたしかである。単によく勝つ若手棋士ならいくらでもいる。  藤井は昨年、俄《にわ》かに勝ちはじめ、あれよあれよの間に竜王になった。群馬県の出身で、だからと言うわけでないが「土の臭《にお》いのする将棋」と評した人がいる。  丸山は今年になって負け知らずの勢いだった。竜王戦で決勝まで行き、惜しくも鈴木六段に敗れたが、来年の名人戦は、佐藤対丸山戦だろうと言われている。こちらは千葉県木更津の出身で、「潮の香のする将棋」と言えようか。  二年前までは、藤井も丸山も、棋士室に来て継ぎ盤を囲むようなことはなかった。対局を終えると、ちょっと覗《のぞ》く程度ですぐ帰った。棋士室に居ても、みんなと離れ、継ぎ盤を遠くから見ているだけ。まったく目立たぬ存在だった。  その二人が、棋士室でハバをきかすようになったのだ。そして、竜王戦で挑戦者となった鈴木六段はといえば、気取らずかざらず、奨励会員と十秒将棋を指して遊んでいる。  すなわち、棋界主流派と言うべき、羽生、谷川以下のエリート達は、このところ押され気味で、誰が真に強いのかわからない有様になっている。  さて、本書は、一九九〇年から一九九四年までの将棋界の有様を描いたものである。  中心となる棋士は羽生善治《よしはる》で、六冠王になるまでの活躍は本当に驚かされた。本書は六冠王になり、最後の一冠を、谷川に敗れて七冠王を逸したところまでで終っているが、九五年から出直し、九六年には見事七冠王になったのは、ご存知の通りである。この頃の羽生は間違いなく最上最強の棋士であった。  そうした夢のような出来事と共に、忘れられないのは、升田と大山の死である。  本書のはじめの方に、大山がA級に残留しようと死に物ぐるいでもがく有様が出てくるが、そのときの、対内藤九段、対青野八段戦は、大山の晩年の傑作の一つである。今読み返してみて、どうしてあんな手を指せるのか、あんなに悪い将棋を引っくり返せるのか、あっけにとられてしまう。もう、こんなおもしろい将棋は見られないだろう。  そのころ、鬼才升田幸三が淋《さび》しく死んでいく。そして、その一年後、ガンとの戦いに敗れ、大山も去る。九一年の秋、肝臓にガンが転移しているのを知らされると、即座に手術を決意し、その年の暮に退院。明けて九二年の一月には対局場に復帰した。それ以後のA級順位戦の勝ちっぷりは、まさに奇跡というしかなかった。  そうした場面をこの眼で見ることが出来、拙《つたな》い筆ながら描く機会を得たこと、それは私の人生の仕合わせであったと思っている。それにしても、将棋界も巨匠の時代が終った、の感が深い。    平成十一年 秋 本書は平成八年一月新潮社より刊行され、平成十一年十二月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    人生の棋譜 この一局 発行  2002年10月4日 著者  河口 俊彦 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861228-0 C0893 (C)Toshihiko Kawaguchi 1996, Coded in Japan